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クレデンザ1926×78rpmの邂逅 #97〜ドゥソリナ・ジャンニーニ ヴェルディとプッチーニを歌う

ドゥソリナ・ジャンニーニ

ドゥソリナ・ジャンニーニ(Giannini, 1902年12月19日-1986年6月29日)について検索エンジンでリサーチしても、日本語ではまず何もヒットしない。英語で検索すればWikipediaやYouTube動画、78rpmやLP、CDの情報ページ、オークションのページがヒットするが、その内容は彼女のキャリアの概要程度に留まる。しかし、残された彼女の音源を聴けば、イタリア・オペラのディーヴァの中でも、彼女が特筆されるべきソプラノであることはすぐわかる。

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ジャンニーニはイタリア系アメリカ人でテノール歌手の父とヴァイオリニストの母のもとフィラデルフィアで生まれ育った。
ニューヨークで伝説的ソプラノ、マルセラ・センブリヒ(1858–1935)に学んだ。
1923年にニューヨークでデビューし、その後ウィーンやロンドンでも歌った。

ザルツブルク音楽祭デビュー

そして1934年、モーツァルト『ドン・ジョヴァンニ』ドン・アンナザルツブルク音楽祭にデビューした。音楽祭のアーカイヴで確認するとこの年『ドン・ジョヴァンニ』を指揮したのはブルーノ・ヴァルターで、ジャンニーニは8月4日、16日、20日、25日のステージに上がっている。
翌35年には同じくザルツブルク音楽祭でアルトゥーロ・トスカニーニが指揮したヴェルディ『ファルスタッフ』アリーチェ・フォードで出演(8月17日、26日)している。

当時、ザルツブルク音楽祭の主役はトスカニーニ、ヴァルター、そしてクレメンス・クラウスの3人で、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーが初登場するのは37年のこと。この時、ザルツブルクの街中で二人は鉢合わせになり、トスカニーニがフルトヴェングラーを「ナチ」と罵り、フルトヴェングラーがそれに応戦、会話は嚙み合わず、その後二度と二人が顔を合わすことがなかった、というエピソードは有名だ。

T:あなたはナチだから出ていけ!自由な国と奴隷化された国の双方では指揮する資格はない。
F:あなたに任せるなら出て行きます。でも音楽家にとって自由な国も奴隷化された国もない。演奏するのがたまたまヒトラーの国といって、ヒトラーの部下とは限らない。偉大な音楽こそナチスの敵ではないですか!
T:第三帝国で指揮する者は全てナチだ!

メトロポリタン・オペラ・デビュー

閑話休題。
ジャンニーニは1936年2月12日『アイーダ』のタイトルロールでメトロポリタン・オペラにデビュー、メトロポリタンでは『アイーダ』、「ドン・ジョヴァンニ』、そしてプッチーニ『トスカ』のタイトルロール、マスカーニ『カヴァレリア・ルスティカーナ』のサントゥッツァ役などを歌った。
その後シカゴ・オペラやサンフランシスコ・オペラにも出演。
戦後は彼女はパリ、ロンドン、ベルリン、ウィーンに出演し続け、引退後はチューリヒで後進の指導にあたった。

【ターンテーブル動画】

今回は彼女の代名詞的役柄アイーダの『勝ちて、帰れ』『あぁ、わが故郷』、そしてプッチーニの『蝶々夫人』『ある晴れた日に』、同じく『マノン・レスコー』『柔らかなレースに包まれても』という、78rpm時代に数多くのディーヴァが録音した鉄板ナンバー。

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プッチーニはクレメンス・シュマルシュティッヒが指揮するベルリン・シュターツカペレの演奏、『アイーダ』の方はレーベルにそのクレジットはないが、カルロ・サバイノが指揮していると言われている。オーケストラ名もクレジットされていない。サバイノはHMVのイタリア・オペラ・レパートリーのアーティスティック・ディレクターで、ミラノ・スカラ座管弦楽団をよく指揮してたので、この78rpmのバックもスカラ座の可能性が高いように思う。実際、アイーダのベルリンも、プッチーニのオーケストラも、単なる伴奏に留まらず、ジャンニーニの歌を支えつつ、オーケストラ・サウンドの醍醐味を聴かせてくれていて、そこも聴きどころだ。

名称未設定のデザイン (86)

ジャンニーニの歌声は「これぞ、イタリア・オペラのディーヴァ!」とため息が出るような、誇張もなく役に取り組みながら、ヒロインの感情を自然に、そして素直に表出している。
楽曲、ソプラノ、そしてオーケストラと三拍子揃った78rpmだ。



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