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クレデンザ1926×78rpmの邂逅 #10~ブルックナー的視点からのウィーン・ホテル・セレクト、そしてシューリヒト、1943年の第9番~

海外渡航不可

コロナ渦で海外渡航が難しくなり、今年度予定されていた海外旅行を、泣く泣く断念したという方もたくさんいらっしゃるだろう。
私とてその例外ではなく、毎年秋にタイミングを見計らって旅をするヨーロッパ、特にドイツへ行くことを諦め、代わりに石垣島の西にある竹富島に4泊5日で滞在した。
元々は11月中旬に9日間、こちらのスケジュールと、ドイツ各都市のオペラハウス、そしてウィーン国立歌劇場の2020-2021シーズンの上演スケジュールとを見較べて、観たい演目を軸に滞在都市と行程を決めるつもりだった。

2020年の春先、まだコロナの感染拡大が、ここまで世界に広がるなど思ってもみなかった頃、発表されつつあった各歌劇場のスケジュールを見て、何となくライプツィヒシュトッツガルトに狙いを定めた(オペラだけでなく、バッハ関連も視野に入れて)。
そして、呑気にスケジュールを組もうと考えいたら、まず各地の歌劇場が閉鎖されることが伝えられはじめ、航空便も欠航し、海外渡航そのものが許可されない・・・と、事態は一気にシュリンクの方向へ動いていった。
結果、ここはGO TOも使いつつ「ヨーロッパの5つ星ホテルに宿泊し、星付きレストランでディナーを取る」くらいのつもりで、と「星のや竹富島」で今年の休暇を過ごした。

一都市滞在型エクスカーションの薦め

若い頃なら1都市1泊の強行スケジュールも何のそのだったが、ここ最近は全行程が9日程度だったら、多くても2都市ほどに滞在して移動を少なくし、そこを拠点に市内はもちろん、エスクカーション(日帰り旅行)できる町へ足を延ばして楽しむ、というのが旅のスタイルになった。

例えば、ウィーン。
音楽関連でエクスカーションできる町として、ハイドンなら南にバスで1時間ちょっと、彼が仕えたエステルハージー家の本拠地アイゼンシュタット

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西へ進みハンガリー国境を越え、ショプロンからバスで40分程度で、同じくエステルハージー家の夏の離宮があるフェルトゥードも余裕の距離だ。

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ブルックナーで言えば、ウィーンから北西に進み、リンツとそこからバスで40分程度のザンクト・フローリアンへも行ける。ザンクト・フローリアンはブルックナーが眠る地だ。

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実際、アイゼンシュタット、フェルトゥード、リンツとザンクト・フローリアンは2018年9月、6泊8日すべてをウィーンのホテルに滞在し、足を延ばしたところだ。

海外へ行けない中、「ちょっとでも旅気分」が新旧どんなメディアでもキーワードになっているが、今回の「note」では実体験に基づいたウィーンのホテル選び、というか定宿について綴りたい。
なお、掲載した写真は(一部肖像は除く)は実際に私が撮影したもの。

HOTEL DE FRANCE

そのウィーンの定宿とは「ホテル・ドゥ・フランス」
老舗の部類でランク的には4つ星。

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場所はウィーンの元城壁で19世紀に環状道路になった「リンク」の西側、いくつもの地下鉄、トラム、バスの路線が乗り入れる「ショッテントーア」駅から徒歩1分。リンク中央部のシュテファン大聖堂、国立歌劇場からは少し離れているもののトラムに乗ればすぐ。ウォーキング気分で歩いてもしんどい距離では決してない。交通至便の場所と言っていいし、周辺はレストランなどにも事欠かない。

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デラックス・ダブル・ルーム(朝食付き)で1泊2人で190€。物価が決して安くないウィーンでは、とびっきりの贅沢とは言えない範囲。

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建物自体が古いので雰囲気もいい。

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ということで、単純にセレクトしてもハズレはないし、実際にホテル予約サイトでの口コミ評価も高い。

しかし、私がウィーンではこのドゥ・フランスに泊まることにしているのは、別にもっと大きな理由がある。

ブルックナーの住居

ドゥ・フランスの住所は、Schottenring 3。このショッテンリンク(通り)にホテルは面しているのだが、そのホテルの北東側、ショッテンリンクと交差する通りはHeßgasse(ヘッスガッセ)という。

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当然ホテルはこの通りにも面していることになるのだが、ホテルの北西隣り、と言うかほぼ軒伝い、ぴったりと壁と壁がくっついている古いアパートがある。

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この最上階の一室は、19世紀の交響曲作曲家として名高いアントン・ブルックナー(Anton Bruckner, 1824年9月4日 - 1896年10月11日)の住居だった。
Heßgasse7がその番地。
つまりドゥ・フランスはブルックナーが生活していた場所と最も近い(隣の建物)のホテル、ということになる。
アパートの壁面にはこんなプレートがはめ込まれている。

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ブルックナーを撮影した古い写真の中に、このヘッスガッセのアパートの一室(作曲部屋)で撮影された写真が残されている。

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「ブルックナー・オタ」でない限り、どうでもいい話だとは思う。
しかし、同等の料金と満足度の他のホテルに泊まるなら、断然こちらだ。
敬愛する19世紀の大作曲家が住まいしていたすぐ隣で、短い時間とは言え、その事実を噛みしめながら過ごす、を迷わず選択する。

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因みにブルックナーが住んでいた部屋は今でも現役。人が住んでいるので、中を覗くことはできない。

また、ドゥ・フランスの筋向いには日本大使館もある。

ブルックナー 終の棲家

ヘッセガッセ7番地の高級アパートは、ブルックナー、終の棲家ではない。

70歳を超えたブルックナーにとって、ヘスガッセ7番地のアパートの最上階は昇り降りするだけでも大変だった。
稀に外出する時は籠椅子で運び出されるほどだったという。ブルックナーに近しい人々は、新しい住まい探しに奔走した。

結果、ブルックナーの請願はいろいろな人の手を介し、最終的にはフランツ・ヨーゼフ帝の下に届き、皇帝はブルックナーの願いを聞き入れ、ベルヴェデーレ宮殿上宮管理人用住居を1895年の夏の間無償で提供し、のちにこれは無期限となった。

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1895年7月4日、ブルックナーはここへ引っ越した。

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ブルックナーがここで過ごした日常の様子は写真でも残っている。
ブルックナーの下で長らく家政婦を務めたカティや医師、弟イグナツが玄関から出る老ブルックナーを囲むように写っている。

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ブルックナーは、結果未完となった交響曲第9番の作曲をここで続けた。

しかし、引っ越しから約1年3か月後の1896年10月11日午後3時半ごろ、お茶を飲もうとしてカップを受け取ろうとしたブルックナーの両手はだらりと下がり、息絶えたという。享年73歳だった。

こちらの住居も現在、中を覗くことはできない。
ハイドンモーツァルトベートーヴェンシューベルトといったウィーン所縁の作曲家の住居(部屋)は博物館となり、公開されているところも多いが、ブルックナーはそうはいかない。

同じことは同時期ウィーンで活躍し、本人たち以上に回りが、世間がブルックナーのライバルであり、不仲であることを騒ぎ立てたブラームスにも言える。

ウィーンでブラームスが長らく住んでいた家自体が、遠く昔に取り壊されている。博物館すらない(強いて言えばハイドンの住居であったハイドン博物館の一角に「ブラームス・コーナー」がある程度)。
また、ブルックナーとブラームスの仲を取り持とうと、取り巻きたちが設定した二人同席の食事会が行われ、半ばブラームスの執務室化していたと言われる料理屋「赤い針鼠亭」もそうだ。
ここでの二人の会話のエピソード(二人とも「燻製肉団子」が大好物で、それが共通点云々)はよく知られている。
シュテファン大聖堂近く、ウィーン市街ほぼど真ん中、Wildpretmarkt 5にあったこの店の建物も取り壊されている。
そして、現在そこには「アート・ホテル・アマデウス」という名のホテルが建っている。「ホテル・ブルックナー&ブラームス」では宿泊する人も激減間違いないだろう。

Schubert 終の棲家

ブルックナーの終の棲家の話が出たので、そのついでに。
ブルックナーのそれがオーストリア皇帝から与えられたのに対し、シューベルトの終の棲家は安アパートだった。

地下鉄U4に乗ってケッテンブリュッケンガッセ駅下車、南東へ3区画ほど歩いた所に、今でもそのアパートはある。
内部はシューベルト博物館として公開されている。

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1828年11月19日、フランツ・シューベルトは、兄フェルディナンドの住まいであるこのアパートの3階で31歳という短い生涯を閉じた。

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決して広くない螺旋状の階段を上って3階に。

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他のウィーンゆかりの作曲家の住まいと比較するとここは明らかに質素である。ブルックナーやマーラーもアパート住まいだったが、アパートはアパートでも「高級」アパートである。ここは「下宿」のような趣きだ。

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部屋の窓から外を眺める。

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死の直前のシューベルトも見た景色だろうか?

シューベルトは貧しかった。
生前彼の作品は公の場で演奏される機会は少なく、家族や友達という仲間とのこじんまりとしたサークルや、学生オーケストラで演奏されることがほとんどだった。
よって、彼はウィーンの音楽界で知られておらず、作品も評価されていなかったのでは?という識者もいる。

このアパートにいると、なんだか少しだけ淋しい気持ちになった。

【ターンテーブル動画】

ブルックナーの交響曲はとにかく長いし、そもそもブルックナーの本意とは程遠い「改訂版」で演奏されることがまかり通っていた時代が故、78rpm時代にレコーディングされた交響曲全曲は数少ない。
そんな中、複数曲を録音している指揮者がカール・ベームオイゲン・ヨッフム、そしてカール・シューリヒトだ。

終の棲家の話も出たので、今回はシューリヒトがベルリン市立管弦楽団(ベルリン・ドイツ・オペラのオーケストラ)を指揮して、1943年に録音した『交響曲第9番 ニ短調』を。
ドイツ・グラモフォンのオリジナル78rpm全15面をクレデンザ蓄音機で再生。

1943年2月、スターリングラード攻防戦でドイツ軍はソビエト軍に敗北。このあたりからヨーロッパ戦線の潮目は変わり、連合国側有利の方向に加速し始める。
首都ベルリンの当時は如何に・・・。

シューリヒトのブルックナー第9番と言えば、1961年11月ウィーン・フィルとレコーディングした演奏が名演の誉れ高いが、この78rpmも基本的には同じ解釈による、シューリヒトならではのスッキリとした造形美とロマンを感じさせるもの。

ここで聴かれる音楽と戦況との関係については如何様にも考えられる。
全く関係ないのか?
それともこのブルックナーを演奏すること、聴くことで人の心に何かが芽生えたり、自分たちが置かれた状況に向き合うための、何かの手立てになったのか?

いずれにしても、今聴いても古さを感じさない音楽だ。





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