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私が個人ベビーシッターへの道を選んだ理由

保育士をしながら二児の子育てをしてきましたが、娘たちが小学生になり
退職を決めました。

“やりたいことを 全部やる”

と決意表明をした数年前の正月、年女の年。

そこから、次のステージを意識し始めました。

今回は今までの経過について書いています。
(文字数は6000文字程度、少し長くなっています。)

保育士をしながらの子育て


保育士として勤めて5年目に結婚、7年目に長女を出産しました。
保育園で働いているということは、毎日働きながら子育てをするお母さん達を間近で見ていたので、「私もいつかはああやって仕事をして子どもを保育園に送迎するんだろうな」ということは想像していました。
当時はまだ育休を長く取る先輩も少なく、出産の翌4月に復帰というのが普通だと思っていたので、秋に生まれた子を5ヶ月で保育園に預けて4月に復帰しました。
1歳過ぎまでは時短が取れたので、早番遅番出勤をすることなく0歳児クラスに預けられたのは有難かったな、と思います。
もちろん、帰ってからはバタバタで、夫は仕事が忙しかったので帰宅が遅く、まだ離乳食のわが子に食事を用意し、介助し、お風呂、家事、夜中の授乳もありワンオペ育児の大変さに目がまわる日々。
今思うとよく頑張ったな~と笑顔で振り返ることができますが、当時は必死で、でも自分の性格上、身を削ってでも子育てもちゃんとやりたい、仕事もしっかりやりたい、と思っていました。幸い、体は強い子で園からの呼び出しも少なかったので助かりました。
子育てをしながら仕事をするということの大変さは想像していたので、早番遅番のある勤務に復帰した後も、自分や夫の母、友人に協力をお願いし、送迎や会議の時の対応をサポートしてもらい、なんとか日々過ごしていました。

その後数年たち、次女が生まれます。

次女は耳がきこえなかった

長女はよく食べ健康優良児。
次女も妊娠中の経過も良く、心配事はほとんどなく出産。

しかし産後すぐの任意の聴力検査で“リファー”
再検査が告げられたのです。
小児科医が私のところに来て、説明してくれました。
何と言われたかは正直覚えていません。
ただ、気丈に振舞っていたことだけは、覚えています。
確か、まだ分からないから、と確定ではないことは教えてもらった気がします。

再検査は3ヶ月後でした。

それまで、
「もしかしたら、これは検査のちょっとしたミスだったり、うちの子が反応しないだけで、本当はきこえているのかも」
と思いながら過ごしていました。

再検査までの3ヶ月、何度も赤ちゃんの傍でわざと少し大きい声を出してみたりしながら、ちょっとでも反応するか確かめていました。
反応しているように見えたり、全くしないようにも見えたり。
自分の親や友人は、私を心配したのもあってか
「きこえているように見えるよ」と言ってくれました。


再検査。

待っていると、医師たちが「AABR(新生児聴覚聴覚スクリーニング)を先にやって、反応あればその後はやらなくていいよ」
という会話をしているのが聞こえてきました。

どうかそれで反応して・・・
と願っていました。

しかしAABRのあと、次のABR(脳波聴力検査)もしました。

もうその時点で、不安の中
予想はしていましたが、

告げられたのです、

「高度難聴でしょう」

と。

病院では気丈にしていましたが、もちろんその後泣きました。
色々調べる日々でした。
ネット検索して、ママたちの掲示板に同じような人がいないか書き込みもしました。
友人とも連絡を取りました。メールのやりとりだと思うのですが、私の心を察してその日にかけつけてくれました。
夫と、友人と、3人で話したりしました。
この先の不安がいつまでたっても消えない日々。

でも不思議と、
こんなふうに産んでしまってごめんね
とは全く思わなかったです。

ただ
この子に、私がいまできることは全部しよう
とだけ思っていました。

手話との出会いと新しい世界

その後大きな病院を紹介され、検査結果と、CTも撮っていたので画像判断もしてもらい、今後の見通しを説明してもらいました。
ここでの担当の医師との出会いも、今後を決めるにあたってはとても大切なものでした。(いつか、くわしく書きたいと思います)

その医師から「地域のろう学校の乳幼児相談」を紹介されました。
すぐに連絡を取りました。
通院から6日後にはろう学校に行きました。
我ながら、行動力の早さに驚きます。

そして生後約4ヶ月 はじめてろう学校へ行ったのです。

ここから、長い長い付き合いになるとは、その時はまだ知りませんでしたが、藁をもつかむ思いで、すがるように足を運びました。

ろう学校乳幼児相談の先生は、きこえる方ですが、話しかけるときには全部手話を使っていました。
どのように娘と関わっていけば良いか相談すると

・何かするときは、子どもの目に見せてから行うこと
・表情をよく見せること


「大きな音がして急に母が立ち上がってどこかへ行ったとしても、この子にはなぜだか分からない。手で、「まっててね(手話)」と見せたり、オムツを見せてから取り替えるなどするといいですよ。」

「何回言われても分からない子は、そのうち数回は聞こえていなかったり、
落ち着きのない子は、ただ情報がなく理解ができないだけだったりと
損をしてしまうことが多いんですよ。」

と教えてくれました。

ここで私たち家族と手話が出会い、この先もずっと使う言語になるのです。


ろう学校が行っていた手話講座には積極的に参加しました。
そこで、「日本手話」に出会いました。

日本手話は、日本語とは違う言語です。
独特の文法をもつ、ひとつの言語です。
音声言語ではなく、視覚言語です。手のみならず、表情、空間も使います。

私は必死に、本や手話講座、またろうの講師の方とのコミュニケーションから手話を覚えていきました。

そして、毎日、きこえない娘に話しかけること全てにおいて
見よう見まねでも、手話を使いました。

正解かなんてわからなくても、この子が見ているのだから
伝えたい、通じ合いたい、その思いだけでした。

次女の聴覚障がいについてや発達の過程についても
またいつか詳しく書きたいと思います。


仕事と子育て

育休を約3年取得しました。
本当は、もう仕事を辞めようと思っていました。

職場の先輩であり、大事な友人である私の尊敬する人が
「辞めるのは紙切れ1枚でできるのよ。一度戻ってきて、それでもだめだったら辞めたら?」
と言ってくれました。

仕事を辞めたいわけではなかったので、悩みましたが、
育休を延長し、復帰してみることにしました。

育休3年取りたいですなんて、言えるか自信もなく
言っても嫌な顔されるんじゃないかとか
承諾してくれても、職場に迷惑もかけるし、職員には良く思われないし
休んでいる間に色々言われたりしろうだし
復帰した後も冷たい目で見られたら・・と心配だし・・
とネガティブ思考ばっかりでした。
でも言わなくては。
自分の状況と、どうしたいかを。

伝えたときのことはもう忘れてしまいましたが
当時の上司は私を励まし、気遣ってくれたことは覚えています。

この時、先への不安しかない私に、
どんな小さなことでも、温かい言葉をかけてくれた人のことは忘れません。

もともと1年取得の予定を2年延ばしたので
その2年、とにかく子どもとたくさん関わること、手話を勉強すること、日々を丁寧に過ごすこと、たくさんの経験をさせてあげること
色々なことに時間を使いました。
実は耳だけでなく、検査で体にも異常のあることが分かっていたので、実際は病院通いとろう学校通い、体の発達もゆっくりだったので、理学療法など動いてばかりの忙しい日々で、延ばした後の2年もあっという間でした。


保育園の勤務に復帰しました。

姉のいる保育園にきこえない次女も入園しました。
お願いして、可能な時間は加配をつけてもらいました。

2歳児クラスに入った次女。
3歳の誕生日を迎える子たちのクラスなので、まわりは少しずつ、おしゃべりが上手になっています。
友達同士で話したりもできる年齢。
娘は、きこえないけど、周りをよく見ているので、
周りが動けば「今この時間なんだ」と察知し、同じ行動をすることはできました。簡単な手話は先生も覚えてくれて、生活に必要な、「あそび」「ごはん」「おひるね」「トイレ」など、次なにをするよ~という事は伝えてくれていました。毎日、連絡帳を丁寧に書いてくれました。
絵本の読み聞かせや、歌あそびは、見るだけで内容は分かっていない様子でしたが、それでも担任の先生だけでなく、他のクラスの先生やパート保育士の方たちもたくさんコミュニケーションをとってくれました。本当にありがたかったです。

ただ、この先
友達とのやりとりが楽しくなってきて、会話をしながら遊ぶようになってくるとき、この子はここにいて大丈夫なのだろうか、、、
もっと自分をありのまま出して、自由に表現できる場にいさせてあげたい
という思いで、
年少さんからはろう学校の幼稚部に行くことに決めました。

幼稚部には送迎や付き添いが必要だったので、話し合いの結果、私の母が引き受けてくれることになり、次女は毎日おばあちゃんと電車に乗って幼稚部に行きました。
私は仕事もしつつ、毎日の連絡帳で子どもの様子を見たり、その頃には次女もかなり手話で会話できるようになっていたので、娘から話を聞いたり。
手話のある環境で、表現豊かに先生や友達と会話をしながら過ごしている姿が分かり、私も休みを取って見学に行ったりして様子を見て
やっぱり、ここに来てよかった
と思いました。
年少~年長の3年間 かけがえのない時間を過ごすことができました。
手話を通し、新しい世界を知ることができました。
娘が生まれたことで、色々なものの見方を変えたり、受け入れられるようになったり、小さな幸せをたくさん感じることができました。
人生のスパイスが現れたような・・

子どもが成長していくにつれて幸せを感じる部分と、
この先をどうしたら良いのか、いつかきっと家族で壁にぶつかるのかもしれない、この子をしっかり育てられるだろうか、と不安はセットでした。

姉妹の関わり

次女の話をたくさんしましたが、我が家には長女がいます。
赤ちゃんのときから穏やかな性格で、家族思いの優しい子です。
長女がまだ2歳半のときに、次女が誕生しました。
きこえないと分かってから、親と同じように少しずつ手話を覚えてくれました。妹の事を大切に思ってくれています。
小さい頃から、世の中に様々な人がいること、それを理解していくことを話していたので、人を思いやる気持ちやありのままを受け止めることの大切さを早く理解してくれていましたが、もしかしたら年齢より考えを大人っぽくさせてしまったかもしれません。そして、一般的にいう良い子でいようとしてくれている気がします。どうしても、次女のほうに手がまわってしまうのは仕方のないことと分かっているがだけに、きっと小さい頃から自分の思いを素直にぶつけられなかったのだろうな、と思っています。
できるだけ、長女との時間も取り、たまには親の片方ずつと2人で過ごしたりしていますが、本当の気持ちは実際は分かりません。
今でも基本は穏やかで、家族の中ではよく笑い、ふざけ合って楽しんだり、仲の良い家族だなと自分自身は思っていますが、これから反抗期を迎えるであろう年齢になってきたので、この先は分かりません。でも、どんなことがあっても長女を大切にするよということは伝えています。
穏やか長女とおてんば次女。正反対の性格だけれど、お互いがお互いを必要とし、手話で話し、手話で喧嘩をし、よく遊び、同じ事をして楽しむ、普通のよくある姉妹の関わりをしています。
次女の成長発達には長女がどれだけ影響しているか。もしかしたら、親より影響があるのかもと思ってしまうくらいです。
それだけ、次女がお姉ちゃんから得たものはとても大きいものなのです。


仕事を辞める決断

次女が小学部になり、学習が加わってくると、状況はなかなか厳しくなってきました。
視覚言語である手話が彼女の第一言語なので、第二言語である日本語での学習は「読んで、理解して、問題を解く」が難しいのです。
読むとは、文字を見てその言葉が分かるかというところで
幼稚部後半では手話と日本語のマッチングをたくさんしてきましたが
言葉の数も小学部ではぐんと増え、言葉の使い方も様々・・・
毎日の宿題の日記(文章を書く力をつける)を添削し、直させ・・・
仕事後に時間をかけて宿題の直しを行うので、ダブルワークしている気持ちでした。
日本語の読み書きは、どの教科でも必ず必要になってきます。当たり前ですが、教科書は全部日本語で書かれています。日本語を読んで理解することが必須なのです。
掛け算を覚えるとき、きこえる私たちは音のリズムで覚えたりしましたが、
見て覚えるのです。数の概念から、絵を描いて視覚で分かるようにしたり理解するために色々なことをしてきました。

時間が足りない・・・

やっぱり、この先しっかり娘のことをサポートしていきたい。
家族といる時間を増やしたい。
でも、保育の仕事は形を変えて続けたい。

それができるかもしれない、と考えた結果が
個人でベビーシッターを開業すること
でした。

自分で自分の仕事の時間を決めて
家族の時間を大切にする。

仕事はこの先、子どもがもっともっと大きくなったら
やろうと思ったら時間を延ばせるんです。
子育ては今しかできない。

職場で退職したいことを伝えたときには、有難いことに引き止めてくださいましたが、

保育士の替わりはいくらでもいる
でも、お母さんの替わりはいないのよ

と言ってくれて最終的には理解していただきました。
今は“お母さん”をやろうと思いました。

いま自分が納得できる生き方をしよう。

そして3月末で、退職しました。

これからのこと

まずは自分と、家族を大切にしたいです。
そして、自分の使える時間の中で
様々な家庭をサポートしていけたらいいなと思っています。

ひとりひとりを大切に

保育士の中ではよくあるフレーズですが
自分なりの解釈では
みんなちがって みんないい(あいだみつをさん)
のような
それぞれの家庭に
思考、価値観、生き方、発信と受信のスタイル、子どもの見方、子育てスタイル、衣食住、、、書き出したらもっともっとありますが
私とは違うということを理解しながら
私は私なりの大切にしたいことを伝えて
貴重な子育ての期間を、楽しんでほしいと思っています。

楽しい とは
毎日毎日、自分にとって良いことだけでなく
うまくいかないことも、喜怒哀楽色々な感情も含め
たくさんの経験をしながら
「子どもが小さいとき、、、色々あったけど楽しかったな、、、」
と振り返られるようにしたいのです。

楽しいこと、嬉しいことを一緒に喜び
大変なことは分かちあい

そんなベビーシッターになれたらいいな、と思ってます。

できる?できない?
分からないけど・・・

やりたいことを、全部やる

できないときには、
立ち止まってもいいかな
お休みしてもいいかな
誰かを頼ってもいいかな

ひとりで頑張りすぎてしまうところがあるので
これからは、自分を大切にしながら
色々な家庭と出会って
また新たなステージでやりたいことを見つけていけたらいいな・・・


読んでくださり ありがとうございました。


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