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かいかぶるのも、読み解くのも勝手だけど、あなたの解釈はあなたの中で有効なのよ。


皆さま今日もお疲れ様です。

今回も以前のブログをもとにお話させていただきたいのですが、
若い頃(って言っても2年ほど前のこと)って、
必要以上にカテゴライズされるの嫌うし、
Z世代だからなのかもしれませんが
異様に引っかかる単語があるんですよ。

わかった気で話しかけるな!
って豪語していたくせに、
今や20、21の子たちがわからない、と、
必死に自分を大人扱いする。


今時の、、、なんていう言葉を使う前に、
もう少し理解のある脳に仕上げたいものですね。





2021/7/1

普段からあまり執着心のない私にとって、怒りというものは最高の愛の形である。

どんなに学校ではぶにされようといじめられようと認めてもらいたいが欲しさに泣くことはなかった。

しかし期待した相手には自分をしかと受け止めてほしいとやきになったものだ。



美味しそうなものや美しいものをあまり深く考えず手に入れてきた私は、手に入らなさそうなものを目の前にすると欲しくてたまらなくなる。

そうして文学や映像が私たちに植えつけたその欲というもののイメージが、また私を支配する。

または、

女という生き物は、

いいや、私という生き物は、女である前に人間であるということを自覚しなければならないと指図されるが、

私という生き物を、女という生き物にしたのは、紛れもなくこの社会であることを彼らは理解しているのだろうか。

私がやつに抱く感情と

誰かが私に抱く感情が同じなら

きっと刺されるな。

とか言う言葉遊びをしていたらいつの間にか木曜の午後で、雨も降って暗いので美しく盛り付けた記憶が邪魔をしてきたけど

欲があるからって簡単なわけがない。

ただ、「難しい」その言葉のみで締めたくないお年頃でして。






この文を読み直して
範疇内、という言葉を連想しました。
人は自分の経験した範疇内でしか判断できないと言いますが、
結局そこまでの判断力なら後は“共感”を磨くほか無いのではないかと思います。

しかし私たちは一体どこでその必須能力を学ぶのでしょうか。
学校?
家庭?
いまいちしっくりきません。




そもそも「自分がされて嫌なことは人にしてはいけません」
が力を発揮するのはどこまでなのでしょうね。
自分がされていいことなら相手にもしてもいいことになります。
何より同じプログラムで生きていない不安定な人間が
自身の好き嫌いのみで行動を判断すること自体危ういのではないかとも思います。


加えて良し悪しの判断基準が自分の経験に基づく範疇内のくせして、
しっかり経験してきた20代初期の感情さえわからなくなってしまうのですから世話ないです。





けどですね、なんでもわかっちゃう、共感できちゃう人って、
胡散臭い気がするんですよね。
というか、私(主張者)に興味がないのかと思ってしまいます。
いいですか、優しい人って人に興味がない人です。
興味がないと、ある程度は許せちゃうんですよ。(私論です)


だから2年前、7月のいっぴに
怒りは私の最大の愛だ、といった私に「だよね〜」と相槌できます。
(その後の文章は、「あ〜悩んでるな〜」なんて傍観しましたけど)
今でもそうです。
頷ける人案外いるんじゃないですかね。


正しい怒りって、すごく貴重で、
子供っぽいし、人間臭くて面倒だけど、
自己満でやってる人以外、
自分に怒ってくる人は、
その内容は置いておいて
あ〜私のこと好きなんだな。って思います。
愛されているな、と。


まぁいろんな経緯からですけど、自分の感情に正直になろうと決めたんです。私。
前はこの怒りがどこからきて、どのような道を辿るのか考える暇もないくらいの感情に操られていましたが、
好きは自分への近道。
嫌いは未来への近道。
またこうやって豪語して、ただ私のためだけに
ちゃんと見てあげようと思うんです。

ええ。ただの言葉遊びです。



構築主義に抗いたい、1人の人間の独り言です。


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