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「考える」を考える
イギリスのロックバンド、レディオヘッドのボーカル、トム•ヨークの趣味は「悩むこと」だという。
本人がそう言っていたのか、周りがそう言っただけなのか、その真相はわからないが、その情報をネットで目にした時に、僕もまた、「確かにそんな感じするなぁ」とどこか納得したものだった。
ただ、一つ確かなことがあるとすれば、それは、彼は世界中の人から愛されているということ。
もちろん彼らが生み出す楽曲の素晴らしさがあってのことだが(わたしは初期の頃のしかちゃんと聴けてません。すいません。。)、それに加え、彼、トム•ヨークが生み出すあの退廃的世界観に僕たちは魅了されている。
決して、前向きとは言えない、むしろ虚無感や諦念すらも感じるあの世界に、なぜ、僕らは惹かれてしまうのか。
彼らの苦悩の果てに生まれた楽曲を通じて、そこから垣間見える彼の悩みと憂いの世界に触れ、共感することを求めているということなのか。
一体、彼は、何に悩んでいるのだろう。
そして、思う。
そもそも、悩むとはなんなのだろうか。
僕も、時折、周りから、「いつも考えてばっかだよね」と言われることがある。
それは、「考えてばっかいないで行動しろよ」ということを暗に意味しているのだと思うが、本当に考えているかどうかは別として、少なくとも、考えている風に見えているということではあるらしい。
なぜ、そう見えるのか。
口調?言い回し?表情?
考えてみれば(「考えてみれば」って言ってしもた)、何も考えていない人の方が珍しい、いや、むしろそんな人はいないのではないだろうか。
ある研究では、人は9000回、多いものだと35000回、1日の中で決断をしているという研究結果がある。
これだけの数を、全て無意識でやっているとは到底考えにくく、必ず、そこには「考える」という行為が存在するように思う。
また、仏教用語に「一切皆苦」というものがあり、これは、「全ては苦しみである」、つまり、「この世は自分の思い通りにはならない」ということを表した言葉であるが、誰しも何かしらの悩みや考え事を抱えているというのは、皆が実感として持っていることだろう。
ここで、一つの問いにぶつかる。
「悩むこと」と「考えること」の違いは何なのだろうか。
もしあるとすれば、それは何なのか。
ここからは、完全に僕の偏向的考察として、話をしていきたいと思う。(ちゃんとしたことは、辞書等で調べてね!)
「悩むこと」と「考えること」の違い。
それは、行為自体は全く同じものを指しているが、その主眼をどこに置いているかの違いであると、僕は考えている。
悩むというのは、ある問いに対して、「自分の納得できる答えを導き出そうとする過程」に重きを置いたのも。
一方、考えるというのは、ある問いに対して、「自分の納得できる答えを導き出そうとする行為を経て出る答え」に重きを置いたもの。
つまり、その視点が「過程」にあるか「結果」にあるかということである。
「悩む」より「考える」の方が、どこか爽やかさを感じるのは(僕だけ?)、ゴールの明瞭さが影響しているような気がしている。
もしこれを、一旦、正しいと仮定するならば、僕は「考える」ということを選択したいと思う。
このことを考えていく中で(また「考えていく」言ってしもた)、あることに気がついた。
それは、「考える(悩む)という行為の前には、必ず問いが存在している」ということ。
つまり、「考えること」それだけでは、存在し得ることが出来ないということだ。
問いだけが存在することは可能だが(たぶん)、考えることだけでは存在することが出来ず、必ずその裏には問いがある。
何もないところから、急に考えることは出来きず、考えるための材料が必要となる。
それが、問いなのである。
そう考えれば、「いい問い」であれば、「いい考え」が出来るというわけではないが、「いい考え」を生み出す上で、「いい問い」は、それを大きく助けるということはあるのかもしれない。
もちろん、「いい問いとは何か」ということもまた考えて行かねばならないわけだが。(もう、しんどい)
問答。
実に、このことを適切に表した言葉だと思う。
古代ギリシャの哲学者ソクラテスは、この問答を使った問答法により、人々に「無知の知」を気づかせていった。
当時、ソフィストと呼ばれる口の上手い者が持て囃されていた時代に、ソクラテスはそんな彼らに対し、相手が答えられなくなるまで、もしくは答えに矛盾が生じるまで、問いを繰り返すということを行なっていた。
それだけ聞くとすごいめんどくさいやつのような気がするが(たぶん実際めんどくさいやつだったと思う)、そのことを通じて「自分たちは知らないということを自覚し、共に学んでいこう」というメッセージを伝えていったのだと思う。
きっと、彼は、「いい問い」を生むのが抜群に上手かったのだろう。
ふと、思う。
果たして、考えることはいいことなのか。
もちろん、その問いに対する正解不正解はなく、ずるい答えだが、それは人それぞれなんだと思う。
でも、もし、考え抜き、その過程や生み出された答えの中に、何か気づきがあったとするならば、その分だけ、視野が広がり、選択肢が増え、自由になっていくと、僕は思っている。
だから、僕は、きっと、より高みの自由を求めて考えている(風な)のだろう。
そして、もし誰かに相談された際には、自分が考え得る限り最大の「いい問い」を生み出し、相手に少しでも「いい考え」を導き、そこに多少なりとも自由が生まれれば、僕にとってそんな嬉しいことはないと思う。
考えるというのは、答えを探す行為ではなく、作り出す行為だと思えば、とてもクリエイティブな行為に思える。
どうか、他の誰でもない、自身の無意識の刹那の中から生まれたその問いを、無視せずに、大切にしてほしいと、お節介ながら、そんなことを願ってしまう。
見ていただけたことが、何よりも嬉しいです!