noblesse oblige
「やりたいことがいっぱいあっていいね」
周りからそう言われ続けてきた。
振り返ってみると、旅行に行ったり、本を読んだり、映画を見たり、ランニングをしたり、絵を描いたり、好きな服着たり、バンドやったり、写真撮ったり、資格の勉強したり、自主出版したり、イベントを主催したりと、確かに、傍からみると何だか楽しそうに見えそうな気はする。
もちろん、実際に楽しいと思う瞬間も多々あったわけだが、何故だか、この言葉には、いつも何処か違和感を感じ続けてきた。
それはきっと、やってきたこれらを「やりたいこと」と認識したことはなく、寧ろ「やりたいことを見つけたいという思いの残滓」に過ぎないと思っていたからなのかもしれない。
20代の頃は、自分なりに苦しみ、葛藤した時代だった。
「自分は一体何がやりたいのか」
いくら考えてもわからなかった。
何度も何度も、過去を振り返り、嘗て自分が楽しんでいたことを思い出す。
そこにヒントがあるという人もいるが、僕が自分の過去から学んだことは、「やりたいことを探すヒントは過去にはない」ということだった。
それでも僕はやりたいことを求め続けた。
それは、本に、旅行に、映画に、人に。あまりにも色んなことをするし、日々発言が変わるので、「ブレブレだな」と言われたこともあった。
「そんなことは自分が一番わかっている」と言い返したい気持ちもあったが、全くもってその通りなので、ぐうの音も出なかった。
でも、結局、何もわからなかった。結果残ったのが、「やりたいことを見つけたいが為に踠いた結果としての行動」だった。
何故、僕はここまでやりたいことに固執してきたのだろう。
「やりたいことをやってる人がかっこよく見えたから?」
「やりたいことをやるということが素晴らしいという社会の風潮?」
「何か一つのゴールに向かって生き抜きたいという己の意思?」
もちろん、理由は一つではないと思うが、他の人以上にここに執着してきた気がする。
面白いことに、執着すればするほど、答えは遠のいていくわけで、挙げ句の果てには「やりたいことを無理矢理作り上げるという暴挙」を行なった時もあった。
何年もの年月を経て、やっと、「出来ることは目の前の一歩を歩み続けることだけ」という結論に辿り着いた。
それでも、やっぱり、この歩みが何処に向かっているのかわからないのは不安だった。遠回りしているのはまだいいとして、「もしかしたら元に戻っているかもしれない」なんてことを思ってしまった日には、その歩みすら止めたくなった。
そのうち、全てがどうでもよくなった。
不幸だからではない。
生活するだけのお金があり、雨風凌げる家があり、身を纏うだけの衣服があり、一緒にお酒を飲める仲間がいる。
圧倒的な幸せを感じた。幸せを感じたからこそ、もう何もいらないと思った。
何もしなくていいと思った。
何もしたくないと思った。
そして、全てが虚しく、どうでもいいことのように思えた。
しかし、その時は、突然訪れた。
それは、仕事帰りに寄ったカフェを出て、数メートル歩いた時だった。
僕は立ち止まった。
何かがガラガラと崩れ去る音がした。
そして、バラバラだったものが、一つずつパズルのようにピースが填まっていくのを感じた。
言葉にできない感覚だった。
何が起こったのか全然わからなかった。
そこにどれだけの時間立ち尽くしていたのかもわからなかった。
ただ、その時、確かに、何か一筋の光のようなものを感じた。
未だに「やりたいことは何?」と聞かれても、僕には明確に答えることができない。
究極、そんなものは自分には無いと思っている。
投げやりになったのではない。
本当にそう思っている。
でも、気がついた。
「やりたいことはないが、やるべきことはある」
別に、誰に何をお願いされたわけでも無い。
ただ、自分の中に強烈な義務感が生まれ始めた。
こうして、豊かな国に生まれ、不自由ない家庭に育ち、おまけに知的好奇心という便利な能力まで、何かによって授けてもらった。
もう、それは、ラッキーとしか言いようがない。
持てる者としての義務感。
それは、やらされるものというニュアンスではなく、能動性を伴う圧倒的な義務感である。
「こんな僕でも、何かの為に出来ることがあるのではないだろうか」
いつしか、そんなことを思うようになった。
「やりたいことを見つける」
この方法については、未だに、ネットの中に、本屋の棚の中に、数多の情報として存在している。
むしろ答えがわからない時代だからこそ、以前にも増して、求められてきているのかもしれない。
もちろん、やりたいことがあるに越したことはないし、やりたいことをしている人はキラキラしていて美しい。
でも、一度はやりたいことに強い憧れを抱いた人間に何か言えることがあるとすれば、この「やりたいこと至上主義」みたいな風潮が、多くの若者を苦しめているという事実もあるということだ。
やりたいことは探すようなものじゃない。
それは、訳も分からず沸々と胸の内から何かが湧いてきて、居ても立ってもいられなくなるような衝動だ。
踠いて、考え、行動し続けた先に、それに出会うことがあるかもしれないし、もちろん出会わないこともあるだろう。
むしろ、出会わないことの方が多いのかもしれない。いずれにせよ、所詮、やりたいことは結果論に過ぎない。
目の前の小さなやるべきことを、一つ一つ丁寧にやっていった先に、何か小さな光が見えるよう、懸命に生きる人の背中を、自分なりに支え、時に押していく。
そのこともまた、自分にとっては、一つの小さな能動的義務のような気がしている。
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