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喪失を恐れながら喪失の海に飛び込む

なんかエモいこと言っている。

夕飯のときにちょっと飲み過ぎてしまった。とりあえず仮眠しようと思ったけれど、まずい今日のnoteを書いていないじゃないかと思い、のそのそPCの前に戻ってきた。

脳みそが半分止まりかけているけれど、週報にも書いた「『喪失』は何がいや?」という問いについて書いてみようと思う。

喪失不安が強い。
たぶん、それを初めて自覚したのは小学2年生の頃だ。
あの頃は毎日、死を恐れていた。
ある日突然、死がやってきて、いろいろなものが失われる。それが怖くて怖くて、あんまりにも怖いもんだから「生まれ変わったら、骨になりたい」と願わずにはいられなかった。
(骨は火葬されても残るし、そもそも、骨なら悩むこともなさそう……みたいなことを考えていた気がする。なんじゃそりゃ)

「人は誰しもいつかは死ぬ。だったら、その日まで精一杯生きよう」

ランドセルを揺らしながら、毎日そんなことを自分に言い聞かせていた。小学6年生のとき、『竜馬がゆく』(司馬遼太郎著)に出会う。竜馬をはじめとする幕末の志士のみなさんが頭上に岩があると想定し、「いつ死んでもいいように日々を生きるんじゃ~~~」みたいなことを言ってるエピソード(うろ覚え)を読み、感銘を受けた。私もそうする~~! と思ったら気がラクになった。

あれから何十年もたって、相変わらず、死を怖がってる自分がいる。ただ、気づかないうちに怖がる対象が、自分の死から、誰かの死になってる。誰かを失うことに対する恐怖心が常にあり、不安感も強い。

例えば、夫。

夫が出かけるとき、可能な限り玄関まで見送る。これが最後になるかもしれないという思いがどこかにある。なんなら、火打ち石でもカチカチやりたいぐらい。どうぞ、ご無事で……と思いながら送り出す。願わくは、ケンカ別れはしたくない。その割にブチ切れもするんだけど。

年上の友達をつくるのは怖い。

いつか来る別れの日を想像すると、胸の奥がキュッと締め付けられる。そう思いながら、人生の大先輩たちの面白さには抗えず、どんどん輪の中に飛び込んじゃうんだけど。

そんなにも死が怖いなら、介護やケアの領域なんて避けて通ればいいものをその深さと面白さにどうしようもなく惹かれて、深みにはまってる。もっと知りたい、関わりたい。

怖い怖いと言う割に、ちゃんと避けようとする様子もなく、むしろ、好き好んで足を踏み入れている。うっすら自覚はあったけど、先日とある場所で「『喪失』は何がいや?」と質問されて、ハッとした。

喪いたくない。
失いたくない。
そう思ってる。

でも、何がイヤなのかはよくわからない。
どちらかというと、いつか喪い、失うものだと思ってる。
だから、抗いたい。
でも、抗っても、喪い、失うものだと思ってる。

怖がってるのか、そうでないのかもよくわからない。
来たるべき喪失の日に向けて、ずっと喪失の準備運動をしているような気もする。


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