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虚構の匙加減


 私は隠し事が苦手なタイプだ。
 顔に出てしまうし、結局我慢できなくてつい言ってしまう。隠しておこう・秘密にしておこうと意気込んでいても、胸の奥の底からそわそわとしてきて、口がむずむずしてくる。
 昨日、夫に「ねえ、noteってやってる?」とつい聞いてしまった。
『私ね、noteでエッセイをかきはじめたの。これがなかなか面白くて』
 ……言いたい。言ってしまいたいぞ。日頃ぼんやりと生きている妻がまさかこのようなエッセイを書いているとは思うまい。
「note?書いてないけど、見てはいるよ。君は文章書くの好きだし、なにか書いてみたらいいよ」
 と、夫。ナイスパス。君はわかっているね。そうなんだよ、文章を書くのが好きなんだ、私は。実はね、もう書いているんだよ。
 私はちょっと顔をにやつかせ、「そうだねえ」なんて返事をする。

 危ない、言ってしまうところだった。もう少し、このnoteは泳がせておこう。

 そう決める。
 というか、エッセイはつまるところ日記なわけで脳みその中身が筒抜け、晒されているのである。これを肉親・知り合いに見られたら大層恥ずかしいものがある。
「君ってこんな一面があるんだね」
 と言われたら赤面してしまうだろうし、なによりこのエッセイで夫の悪口・不満を書いたらnoteを媒介して本人に知れてしまうのだ。

――最近、夫のいびきがすごいのである。夜中に工事でもしているのかと目を覚ますと、大体の現場は夫の口内からなのだ。

 なんていう書き出し。
「ああ、ぼくのいびきがこんなにも迷惑だったとは!」だとか、

――夫の皿洗いが甘い。いつもすすいだ皿のふちに泡が残っている。しかし今日のついている泡は夫の茶碗だったのでまあいいかと見て見ぬふりする。

 なんていう書き出し。
「ああ、ひどい。僕の茶碗だからいいやっていうんだ君は!」だとか。

 こんなのは軽くて甘い不満だが、もっとどろどろとして大きいものが溜まり吐き出すようにエッセイを書いた日にはどうなってしまうのだろう。
 夫に限らず、親兄弟、友人、同僚に読まれてしまったら。日常におけるささやかな不満(しかしそれはエッセイにおけるスパイスになり得る)が、もし……!

 ある日、私のエッセイがバズってしまう。それは夫のことを散々こき下ろし、けれどエンターテイメントに落とし込まれたもので読んでいる人は何も感じない。そしてまわりまわり、インターネットの海を泳ぐ私のエッセイはいつしか夫の元へたどり着く。
 最初こそ面白おかしく読んでいる夫だが、どうも自分との類似点が多いことに気付く。エッセイを読み切り、他のものを読んでみる。エッセイの中の様々なエピソードをもって、これは妻のものだと確信する。
 夜、夕飯を食べながら和やかに談笑をしている夫と私。そして夫は茶碗と箸を置き私に言うのだ。
「ねえ、君はエッセイを書いているね?」

 なーんてね。
 別に読まれて困ることでもない。けれど、読まれたら読まれたで恥ずかしい。なのでほんの少し、うっすらと虚構を織り交ぜていこう。
 こんな世の中だ、本当の自分が知られてしまうのはまずい。
 しかし、今までのすべてが本物だとは限らない。もしかしたら私は女性ではないかもしれないし、実は高校生かもしれない。本当のところ、男子中学生なのです、実は……とかね。
 インターネットはいくらでも化けの皮がかぶれるのだ。
 しかしここはエッセイという土壌、あまりにもフィクションが多いとそれはエッセイにはならないだろう。
 虚構の匙加減はほどほどにする。


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