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①手紙

トランプのババ抜きでもするみたいに、過去の手紙がわんさか入った大きな紙袋から、封筒を一枚引き抜く。今日引いたのは、初めての赤ちゃんが生まれたばかりの女友達からのものだ。

私には、足を向けて眠れない友人が多かった。彼女はその中でもトップクラスに入る一人だ。

中学時代、全国からの子供たちの集まる、とある合宿に参加するため、私は生まれて初めて東京へ行った。2泊3日だったか、3泊4日だったかの合宿で、記憶が曖昧だが、彼女とは偶然同室になった。同じ和室には20人くらいいたと思う。思えば、私にとって知らない人同士が相部屋になり語り合う、生まれて初めての体験だった。後日、ユースホステルやゲストハウスのドミトリーが好きになってゆく、ささやかな原体験だったのかもしれない。

同室になり、数名づつのグループワークなども行った。彼女と言葉を交わしたのは、そのグループワークで同じグループになったから。

第一印象は、「うわあ、なんて綺麗でセンスのいい、洗練された子なんだろう!東京の女の子ってすごい!」だった。今なら、都会も田舎も海外も、どこでも同じような物が手に入るが、当時は違ってた。都会と田舎の子供たちの感性の違いは華々しく異なっていた。田舎から来てる私は、髪型も服もやぼったく、加えてテレビの向こうからでしか聞くこともなかった、標準語の日本語のかっこよさに圧倒されてしまった。彼女は私の目の前に現れた途端、一挙に憧れの女の子になってしまった。

しかもグループワークでの発言で、とても頭の回転が早くて記憶力も良く、明るくてユーモアのセンスもあった。加えてとても思いやりのある面倒見のいい子だった。彼女の語る全ては的を得ていて、筋が通っていて、かつ、簡潔なものだった。私はぜひ、彼女に近づきたくて、彼女からいろんなことを吸収したくて、積極的に声をかけていった。彼女も人をそらさない人で、私たちはあっという間に仲の良い友だちになれた。今振り返ると、私が彼女をナンパしたようなものである。そうして連絡先を交換したのが、彼女が中2、私が中3の時だった。

そして帰宅してから、私は早速手紙を書いた。実家から東京の彼女宅まで、当日は3日目に郵便が到着したらしい。彼女の返事も早かった。届いたその日にすぐ私の手紙を読んで、その日の夜に手紙を書き、翌朝には投函される。そして私もそれから3日後に届く手紙を読んで、その日の夜に返事を書き、翌朝投函する。

やってみると、私たちはどちらも筆まめだということを知った。そのペースの文通は、私が高校の課題が進学準備のためにきつくなるまで、約2年も続いた。彼女は2枚〜5枚、多い時で7枚くらいだった。私は(今でもその長文なごりが残っているが)書き出すと5枚〜30枚に達したこともあった。

初めて会った日から3年後、高校を卒業した春休み、彼女を訪ねて東京へ一人で遊びに行った。当時は田舎と都会の高校生の見た目の格差が激しくて、彼女と待ち合わせた池袋が都会すぎて、カルチャーショックを感じた。彼女はますます美しくなっていた。

「きゃーー!ばけらったちゃん、かわいいいいい!」と叫ばれ、よしよしと子猫みたいに抱きつかれ、頭を撫でられたのを覚えている。その意味はすっかり理解できた。絵に描いたような素朴すぎる垢抜けてない田舎の子だったので、彼女には珍しかったのだ。でもからかってるんじゃなくて本気でそう思ってくれてるんだってことが伝わってきたので、彼女の優しさに触れてますます彼女が好きになった。できたばかりのサンシャインに連れてってくれた。こんな都会をサクサクと高校生同士が歩いていいのかな?私の地元だったら補導されそうだなと思いつつ、都会気分で購入したイギリスのペパーミントのティーパックを、今でも覚えている。

「そういえばね、ばけらったちゃん、以前分厚い封筒でお手紙送ってくれたでしょ?」「ああ、あの最高枚数30枚ね。」「そうそう、あれね、うちのお兄ちゃんが仕事休みで、パジャマのままでポストから取ったの。『うわーーー、なんだなんだ、なんなんだ、この厚さは!』ってすっごくびっくりしててね。うちの家族みんなで『よくこんなに書くことあるねえ』って感心してたのよ。」

ネイティブの東京弁だ。私は方言がちょっと恥ずかしくてぎこちない東京弁を真似て話している。どうせ通じないだろうし。自分でも不自然だった。

そうして、月日は流れ、優しく聡明な彼女は、社会福祉専門で大学院まで進学し、私は家出を兼ねて、期限無しのアジア放浪の旅に出かけるところだった。

それで、田舎から東京へ行き、出発までの間、彼女の彼氏名義で借りてたアパートに数日お世話になった。

それから帰国した時も、同じアパートに泊めてもらった。その時は次のアパートが見つかるまで、仕事が見つかるまで。およそ一ヶ月も家賃無料で。

院生の彼女も社会人の彼も、とても親切な人たちだった。家賃だけでなく、食事も差し入れしてくれて、光熱費もタダ。それどころか、どこかでもらってきたコンサートなどのイベントチケットなども提供してくれた。そのアパートは彼らが一緒に時間を過ごすために借りていたものであり、彼らはそれぞれの普段は家族と住んでいた。なので私がいる間は、丸々私のために解放してくれた。

私はアジア5ヶ月放浪のカルチャーギャップと、東京でどこからどう動いていいかわからない戸惑いと適応力の無さで、ずるずる一ヶ月も居着いてしまったが、流石に3週間目あたりになると、彼女がやんわりと「そろそろ一人暮らしの場所、探さなきゃね。」と声をかけてきたので、「ごめんね、そうだよね」ってことで、慌てて探した。新しく借りた家賃3万5千円の部屋。6畳一間、風呂トイレ共同、冷暖房なしの部屋が見つかった。家出中だったので、保証人には彼がなってくれた。彼らがいてくれたからこそ、私は東京での生活をスタートすることができた。だから彼女の彼にも頭が一生上がらない。

しかししばらくして、彼らは別れた。彼が深夜2時に「彼女と連絡がとれないんだ」と電話をしてきた。他の人ならまだしもその人だから、迷惑だとは言えない。別れた理由は、彼女が他に好きな人ができてしまったことだった。彼女は狼狽した。だけど彼はもっともっともっと狼狽した。これほどまでに落ち着いた大人がここまでうろたえることがあるんだと、私はびっくりした。この件については、大人の事情がいろいろあるので、これ以上ここでは書かない。

彼女の結婚式には、なんと彼も招待されていた。しかもスピーチまで行った。「私はこれまでにこんなに美男美女の新郎新婦を見たことがありません!」カジュアルというかくだけてるというか、笑っちゃう言葉だった。実際そうなんだけど。表情はとても明るくふっきれた表情だった。別れてから半年も経ってないのに、いったいどうすればそんなに早く心の整理が可能だったのか。その件でのちに彼女が一言。「彼、大人だもの。」

確かに彼は大人だ。最近のインチキ自称大人たちとは全く異なる。彼女たちカップルが幸せになるようにと顔の広い彼のコネを使いまわして、かなり年収の高い転職先を新郎に紹介した。「これで彼らは一生食べていくのに、決して困らないはずだ。」と。彼女の夫さんは、彼と彼女の過去を一切知らない。夫さんにとって、彼はとても面倒見がよくなんでも相談できるお兄さんといったところ。大人の事情である。

私が東京に住んでたおよそ5年間の間、彼女も夫さんも元カレさんも、時々会う機会があり、いつも変わらず親切だった。彼女は何でもできる人で、夕食も手の込んだおいしくゴージャスなものを用意してくれたり、バイトや見合い相手まで(苦笑)紹介してくれたり、使わなくなった中古の冷蔵庫やテレビをくれたり。皆、私には過ぎた人たちだった。そのうちに彼女は妊娠した。

そして私は渡米することになった。彼女たち夫婦は手紙を手渡してくれた。中にはお餞別1万円札が入ってた。「返そうなんて思わないで。応援の気持ちよ。頑張ってね!」その封筒と手紙と「お餞別」と、彼女が美しい手書きの文字を筆ペンで書いたのし封筒がつい昨日、私の懐かしい手紙の束の中から出てきた。私はその10年後に離婚して帰国になったのだけど、26年前に書いてくれたその手紙。

出会った時から、最初から最後まで思いやり溢れる彼女。渡米してから彼女は出産。彼らを足して2で割った、かわいい赤ちゃんの写真を送ってくれた。

以来、アメリカで引越しを重ね過ぎ、精神的にきつかったりして、私の筆不精は進んだ。不義理過ぎる。10年のうちに連絡が途絶えた。というか途絶えさせたのは私が原因だ。

ネットでふと彼女の名前をけんさくしてみたら、出てきた。福祉業界でかなりのキャリアを積んでいるようだ。写真もあった。昔とまったく変わらない美しさと優しい笑顔。

そして元カレさんのキャリアも華々しい。うわ、こんな大物になっちゃったのかと!器の大きい人は、若い時から大きいんだな。なるべくしてこうなったんだなと。

私みたいな馬の骨は、もう彼女に近づいちゃいけない。そっと遠くから見守ってゆくことにする。今後ますます幸せでいますように!本当にどうもありがとう。









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