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洗面器の水を眺める

今、この瞬間を生きてるって感じられたら。
息してる「生きてる」じゃなくて、息ももちろんしてるんだけど
お目目がお星さまになってるような
心が弾んでるような「生きる」。

こんなこと考えてしまったのは
今朝のこちらのnoteに触発されたから。

すでに、たくさんの社会経験を積んでこられた寝た子さんから
このような新鮮な熱烈な思いを吐露されて、
おまえ、もっと「その気」になれんのかい?って
喝を入れられた気持ちになった。
いたたまれず、つらつらと文字を打っている。

ただ、私の「その気」はなかなか一筋縄では、やって来てくれない。
まずは自分の性分をどうにかしなきゃならない。

その性分とは、「先の事ばっかり心配している」。
きっと自律神経も緊張しがちで、冷えたり肩凝ったり。
頭の中はいつも先の事でみっちり詰まっているんじゃないだろうか。
そいつが緩まないことには、「その気」が入る隙間もないように思う。


たまたま、最近心がけるようになっていたのが、お風呂に入った時
「洗面器にお湯が溜まるのをじっと眺めて待てる」こと。
ごく普通の、ケロリンよりも浅い洗面器だが
ここにお湯が8分目くらい入るまでの時間を待てない。
無意識のうちにそのわずかな時間を埋めるなにかの動作を入れてしまう。
だからお風呂は忙しくなる。

そんなのに、ほとほと嫌気がさしてのことだった。
長男がショートでいない夜くらい、不定形に時間を使ってみようよと。


「性分」を改めて行くのは難しい。
ただなんとかそれを続けてみて思うのは
この、ぼんやりとお湯が溜まるのを眺めるのって、快感。
快感ってほどの前向きさじゃないか、あ、リラックスできてる。
これは私にとってはいい発見なんじゃないかな。

こんなにいい時間を小さな「やっておくこと」や
「考えておくこと」で、みっちみちに埋めてしまっていた。
埋まらなければ、もっと先まで行って探して持ってきていた。

先の事のために、今を使っている自分。
その「先の事」が済めばまた次の先の事が待っている。
生活ってそんなもんだ。
私の性分では、死ぬまでそんなことを続けて行くことになる。
なんかうんざりした。


私は父親似だと思う。
父(86)は、朝も暗いうちから起き出して、仏壇にロウソクをあげ(午前2時)、一旦また横になるが、またゴソゴソ動き出して、外は暗いのに雨戸を明け(午前4時)、またゴソゴソ洗濯機をまわし(あとで干すのは母)、前日に用意した朝ごはんセットを出してくる(多分ここらで5時)。

(※朝ごはんセットは、大き目のお皿にチーズや野菜、ソーセージ、黒酢ドリンクなど乗っけた、ワンプレート朝ごはん。家族3人分(父、母、弟)を前日に準備するのが父が自分で決めた役目)

ここまででも、高齢者が大半の町は眠っている。
母はもう付き合うこともシンドくなっているので、横になっているが
父が目の前でこんなことしていて、眠れるはずはない。
慢性的な睡眠不足状態である。


話がそれたけど、つまり父は、先のために動いている。
朝ご飯や洗濯に限らず、一事が万事、そういう頭で動いている。
準備怠りなく、思いつく限りのことをしないと安らげない人のようだ。
こんなところが、私に遺伝しているように思う。


それがこの頃嫌で仕方がない。自分のそういう所が。
これじゃ、先の事ばっかり考えて一生終わるじゃないか。
ぜんぜん今が楽しくない。
準備ばかりしてたって、ほんとは全然落ち着かない。


だから、洗面器に溜まる水を眺めてみることにした。
ただ無心に。


考えてみれば、子どもが生まれて以来、無心になる時間なんかなかった。
無心になっていては後が大変だとわかっているから、なれなかった。
子どもの手が離れたら、そこからチャレンジ出来たのかも知れない。

でも、いまだに手が離せない長男がいる。
切り替えが下手なせいもあるだろう。

それでも、お風呂で洗面器の水をぼんやり眺めてみる気になれた。
眺めていると、こんな時間もっと広げて行けたらいいなと思う。

そしてそこに「その気」がつるんと入り込んで来てくれたら。
ふふふである。








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