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気づき

ここ5年くらいすっかり忘れていた自分のある一面を久しぶりに思い出していて、「これが…本来の自分…?」という気持ちもあるけど、別にどっちも自分の『ある一面』でしかないんだと思う。

「本来の自分」て何でしょう。
よく(?)鬱病治療で「薬を飲んだら本来の自分が失われちゃうんじゃ、、、」みたいなことが言われたりしますが、
というか実際わたしもそう思ってて、1回目の鬱病ときは処方された薬を飲まずにひたすら実家でダラダラすることで無理やり治したんですが(カス)、
今かかってるお医者には「飲んだだけで人が変わるような薬があったら苦労しません」と言われて(た、確かに〜〜〜)になったんだよね。

何の話だっけ?
そう、だから普段の状態=本来の自分、鬱病の状態=状態異常、みたいなことなんだと思うけど、別にこれって切り離さなくてよくて、どっちも自分の一側面で良くないか?という話。

「私はこういうタイプの人間です」「真面目な人間です」「暗い人間です」「明るい人間です」「ひょうきんな人間です」とかの就活自己アピールで言わされる台詞集って他者に分かりやすくするためのものでしかないから、本来一人の人間の中身はもっと複雑でカオスで良いし、実際そうだと思う。
暗い人間にだって明るい瞬間はあるだろうし、ひょうきんな人間にだって真面目な瞬間はあるのだ。
それどころか、例えば神経質さと粗雑さとか、愛情深さと冷たさとか、怠惰さとまめさとか、外向的な性格と内向的な性格とか、矛盾するように思える特徴・特性でも、一人の人間の中に余裕で同居できる。
どの面が見えてるかと、どこから見ているかの問題。
(これを図解したのが、トップの絵です。)

例えば、ってこれちょっと違うかもしれないけど、私は自分のことを「適応能力が低い」「社交性が低い」と思ってるんですが、本当に適応能力と社交性が低い人間はこんな滅茶苦茶な人生を送ってないんじゃないか、、、という、気づき、、、
すべては相対的にしか語れないのだ。
Aさんよりは真面目だけど、Bさんよりは不真面目な自分が真面目か/不真面目かというのは見方によって変わるのだ。
見る方だって、観測者の中に蓄積されている人々の傾向とか、観測者自身の好みとかによって解釈・判断するから、
例えば真面目な人に囲まれてきたCさんから見たら不真面目だけど、不真面目な人に囲まれてきたDさんから見たら真面目、ということが起こる。
この世には無限の指標があり、無限の人間がいる・・・・・
すべての面で、すべての指標で、すべてが突出している人なんて存在しないのだ。

だからこそ絶対評価とか数値化できる指標が重要なんだ、と今になって理解した。(今?!)
俺は面談で上司と喧嘩して泣いたこともあるくらい数値化目標とかのことが本当に理解できなかった。
他者のことを理解するための、他者に自分を理解するための、ものだったんだね・・・・・
そして、別にその評価とか指標がnot goodでも、自分にとっての意味とか数値にできない価値にはまったく影響しないもんね。
あくまでも1つの側面・測り方でしかない。
だからまぁ社会とか、他者の中でどんだけ評価されないとしても、ボロクソ言われたとしても、
自分にとっての価値、自分指標は全然揺るがない。貶められない。それは独立していて、守られていて、これからも大切にして良い。
(そして、不思議なことに、ありがたいことに、自分にとっての価値を認めてくれる他者もまた時には存在する。)

という気づきを得た日でした。

気づきというのは、学びと経験の積み重ねの上に、突然降ってくる。
2018年は「人はそれぞれ違う」ことを、2021年は「結婚の意味」「保険の意味」「販売という仕事の意味」などに気づいた。
3年周期?
誰かに教えてもらったとしても、自分で気づくまで本当には理解できない。
みんながいつの間にか知ってるようなことに、一人で気づいて感動してるのも、なかなか楽しいですよ。


ところで、適応能力と社交性、低いっていうのは自虐思い込みなんじゃない?!と先に書いたけど、
ワンチャン本当に適応能力と社交性は低いが、自己分析能力も低いため事故的に滅茶苦茶な人生になっている可能性もありますね。(最悪すぎる)(すべては相対評価だから・・・・・)


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