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タモリ倶楽部と見立ての文化

40年続いた"流浪の番組"タモリ倶楽部がついに2023年3月に終了するというニュースを見ました。

勝手にタモリ倶楽部は永遠に終わらないと決めつけていた自分にとって意表を突かれたニュースではありましたが、番組が40年も続いていたことを知って、むしろ感謝の気持ちが強く沸き上がってきました。

またタモリという人の知的好奇心や教養の深さを、彼特有の(時にシニカルな)笑いに包みながら披露してくれる貴重な番組は他になく、オープニング映像に象徴されるような「知的な下ネタ」という大人の楽しみがありました。

鉄道、坂道などへの偏愛や、ミュージシャンとしてのこだわり、歴史や文学、地理などあらゆるジャンルの知識といった、大学教授や博士のような広大な彼のバックグラウンドを楽しめる素晴らしい番組だったと思います。


空耳アワー


ただ何といっても有名で記憶に残っているのは「空耳アワー」で間違いないと思います。

ある意味本当にくだらない、海外の曲から空耳で聞こえる日本語をひたすら紹介し続けるという内容で、好き嫌いが分かれるコーナーだったかもしれませんが、その面白さは今さら説明する必要はないでしょう。

「だれが言ったか知らないが、言われてみれば確かに聞こえる空耳アワー」

という掛け声とともに、タモリと安斎肇氏がただ投稿を紹介しづつけ、本当にそう聞こえる傑作や、あまりに下品だが思わず笑える作品、こじつけが過ぎて逆に感動したものなど、視聴者であれば思い出せる名作が必ずあると思います。

個人的にはマイケルジャクソン、ジプシーキングスの例のネタが、点数の多さ、日本語の見事さ、映像とのマッチングなどで一番印象に残っています。

私は洋楽が大好きなので知っている曲がしばしば取り上げられましたが、いい意味でくだらない空耳として紹介されることが多く、原曲との激しい落差によって多分人の2倍は楽しめました。


見立ての文化


ところで、「見立て」という日本古来の表現手法は皆さんご存じだと思いますが、空耳アワーはまさにその見立ての手法を知らず知らずのうちに用いた高度なお笑いだったのでは、と気づきました。

見立ては「対象を別の似たものになぞらえて表現すること」と定義されていますが、和歌、茶道、歌舞伎などの多くの表現に、その見立てによる意味の再定義と再発見が行われています。

洋楽の歌詞を、空耳という体で日本語のまったく別のストーリーに変換し、一度目は普通に楽しんでいた洋楽の曲を、二度目はまったく別のコメディとしてもう一度楽しむ。

もちろん伝統技法としての見立てとは多少異なりますが、「外国語の歌詞を同じ音だが別の意味の日本語に見立て、その面白さを再発見する」という意味ではよく似ていると思います。


必要なのは音楽の知識とリスペクト


とはいえ、さすがに空耳アワーがそのような高尚な意図で始まったとは考えられず、きっと音楽好きのタモリやその周辺の人たちがこの偶然の産物を面白がって始めたんでしょう。

しかし、この空耳はひとつ間違えるとただの原曲イジりとなってしまい、見た人が悪意しか感じないという最悪の状況さえありえたはずなのに、まったくそうならなかったのはタモリや安斎肇氏の力によるものだと思います。

二人の音楽に対する造詣の深さから来るリスペクトが常にあり、どれだけひどい下ネタやダジャレが披露されても原曲のファンも気分が悪くならず、別の新しい見方として楽しむことができていました。

その意味で、ちゃんとお笑いのフォーマットとして成立させた番組の演出も素晴らしかったですし、それらが相まってこれだけ長い間愛され続けるコンテンツとなったのだろうと思います。


最後に、年に一度くらい開催されていた「空耳アワード」で印象的だったのは、タモリを筆頭とした「洋楽を愛してやまない日本勢」とともに、洋楽を自ら生み出し取り扱う側のJ-waveのDJクリス・ペプラーやギタリストのマーティ・フリードマンが参加していたことです。

もちろん彼らは日本語が分かるし日本文化も非常によく知っていると思いますが、英語ネイティブの視点からこの空耳を解説してくれるという、ある種メタ視点の面白さがありました。

そもそも日本人が洋楽を聴くという行為は、歌詞の意味が分からないまま楽しんでいるという矛盾をはらんでいて、その変な部分を天才タモリが目ざとくお笑いに変えたというのが空耳アワーの本質だったのかもしれません。




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