去り際の美学
先日、田村正和さんがお亡くなりになられた。
私の世代(私の記憶)、田村さんといえば、「パパはニュースキャスター」と、やっぱり何といっても「古畑任三郎」である。
「え~ぇぇ、ふるはたぁ~にんざぶろうです~」と似てもないモノマネが全国津々浦々で展開されてきたことであろう。そのくらいインパクトのあるドラマであって役キャラだったのだと思う。
「古畑任三郎」もここ最近はスペシャルなどもなかったし、田村さん自身、最近では全くテレビに登場しなくなっていた。それは彼の生き方や考え方によるもので、それを裏づけられるコメントとして「僕はもう十分やった。」と田村さんは言っていた。田村さんの悲報でこの言葉を何度も目にして、ずっと頭に残っていた。
私はいつまで仕事をしているのだうか。
全く考えていなかった。
もちろんタレントではないけれども、会社人から解かれた今、ある意味、需要があればいつまでも出来るわけだから、「私まだまだやってますよ~!」ってPRしていれば、何かと仕事はあるのだけど、60歳になってやれる仕事なのか?身体保つの?さすがに70歳は無理だろうな、いや、現場ではないプロデューサー職なら70歳もあるのか、そもそも私は何歳まで仕事をしたいのか。。
最近ずっとそんなことを考えていた。
去り際っていつがベストなんだろうか。
田村正和さんや、安室奈美恵さん、イチローさん、昔だと山口百恵さんが、よく「去り際の美学」として挙げらえるが、じゃあ、「一生現役」は逆に美学に反するという事になるのだろうか。。。たまに安室奈美恵さんと浜崎あゆみさんの生きた方を並べて取り上げられたりしているが、なんとも言えない感情になる。
年をとって現場にしがみついているのは見苦しいと世間は言いたいのだろうか。
ずっと考えて今出した答えは、田村正和さんの言葉に隠されていた。
「僕はもう十分にやったよ。」
去り際は年齢ではないのかもしれない。そして示した目標にゴールしても人生は終わらないのだから、その人それぞれでプランは違うものだ。
その仕事の始まりから今までの過程で詰まってきた自分の情熱や想い、それが満タンになった時、自然と「まあよくやったかな」って言葉出てきて、スッと座っていた椅子から立ち上げり次に歩き出せるのではないだろうか。
そして大事なのは進化を忘れないこと。
田村正和さんがそんな若くない時期から古畑任三郎を演じてはじめて、こんなにも沢山の方に愛されるドラマ、役になったのは、今に止まらない進化をされてきたからではないかと勝手に考えてしまう。
逆に、自分の意に反し、途中で現場から離れざるおえなかった去り方をしたり、過去の栄光にしがみつき進化のない空虚な今を過ごし続けるのは、終りの見えないトンネルを歩いていることに似ている。きっと気持ちが満タンになることはできないのかもしれない。
走り続けて気持ちや情熱を満タンにしていくこと、そして何より過去や今に驕らず、未来に進化していくこと。
そしたら、いつか私も「もう十分やった!」って言える日が来るだろうか。
「お手柄だよ~桃田君~」そう言われる日まで頑張ろう。
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