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やってみたいことがあるひとたちのやってみたいことを、ちょっとみてきたのだけれど

お-ばけ【御化】
①(比喩的に)異様なもの、奇怪なもの、人間ばなれをしたさまなどをたとえていう。
②つぎはぎの多い衣服。生地のいたんだ古着。ばけもの。(出典:滑稽本・浮世風呂/式亭三馬)

コトバンクより

何故、ビジュアルがおばけと衣服だったのか、いま合点がいった(いったのか?)
※スクロールしたら分かると思いますが、めちゃくちゃ長いですので、全ての用事を済ませた暇を持て余した方だけどうぞ(コントの感想のみ読みたい方は目次の[はじまり]をタップで)


ー彼等のコントライブを観ながら、初めて涙を流してしまった。色々な感情が込み上げてきても、今までであれば堪えながら舞台を注視する事が出来ていた。

だが今回は違った。
色々な感情や想いが込み上げてきてしまった。表面張力を保っていたコップの水にとどめの一滴を落とした瞬間に溢れ出すかの如く、嬉しさや、喜びや、これからへと歩んでいく彼等に対する期待感の様なもの…舞台の上で終わりへと向かっていく物語を目に焼き付けながら、そんな色々が溢れてきて抑えることが出来ず、笑いながら泣いていた。

[前置]

2022年末、M-1グランプリの決勝で音符を運搬するという漫才を披露し、とんでもない爪痕を残した男性ブランコ。ファイナルラウンドも終わり、1組の王者が生まれた瞬間を見届けた直後、公式Twitterからこんな報せが届く。

詳細は明記されていないが、男性ブランコのコントライブ『やってみたいことがあるのだけれど』第1弾の告知である。

久しぶりのコントライブという名の“単独公演”だ。『てんどん記』ぶりの“単独”コントライブなのだ、嬉しくないわけがない。

ちょ待てよ、昨年毎月開催されてたコントライブはどうしたんだよ。

と思われる方もいるかもしれないが、その辺りに関しては浦井さんが『浦井の枕もと(#100 06:47〜参照)』の中で説明されているので割愛する。

「やってみたいことがあるのだけれど」だなんて、なんて素敵なタイトルだろうか。
やってみたいことがありつつも、そんな勇気もなく自分に自信を持てないが故に、直面する困難から逃げ続け今に至るチキンから見れば、実行に踏み出せる時点で素晴らしいなと思う。

それはさておき、告知ツイートと共に添付されていた最初の画像に描かれていたのは、どこかの地形と、複数のトルソー。その後、元日に更新された画像にはアルファベットと思われる羅列の下半分が上部に書かれている。

この時点で、「場所は横浜と京都で確定だろうな」と、最初に観た画像に描かれた地形と照らし合わせながら推測していた。

まあ正解だったのだけれど。
会場を知り、今回は本当に“本当の意味での”単独公演なのだと思う、益々嬉しくなる。

昨年の毎月単独も何度かご縁はあったものの、自力ではほぼほぼチケットが手元にはご用意されなかった事もあり(大配信時代のありがたみ)、正直取れるとは毛頭思っていなかったので、当選通知が来た時は一瞬意味が分からず、ポカンとした。

帰ったら有休取らなきゃ…と、帰省中の実家で我に帰る。

ー当日は、昔住んでいた桜木町近辺やみなとみらいを久しぶりに散策したいと思い、散歩も兼ねて早めに家を出た。天気が良く、風もあって気持ちが良かった。ただ最高気温21℃とは聞いていたが、ちょっと暑すぎやしねぇか…?と思ってしまう程度には陽射しも強く、会場から少し離れた場所にある山下公園の辺りに着く頃には汗だくになってしまった(ガンダム見たくて行った)、桜木町を離れて10年経つが、そこまで街並みも変わっておらず、みなとみらい周辺は相変わらず良い空気が流れている場所だなと思う。

あとずっと昔からある建物が好き
(コレは銀行だったらしい建物)

時間も近づいてきたので、軽く腹ごしらえを済ませ、会場へと向かう。
開場が始まり、物販の列に並びながら、ホワイエまで続く通路のあちらこちらから「こんにちは」してくれていたおばけ達に気が付いたので、ご挨拶がてらスマホを向け写真を撮る。

いる。

物販でグッズを買い、客席へ。
目に入った舞台の真ん中にあったのは、サンパチマイクだった。

おばけがなにかをいいたそうにこちらをみている


「お、漫才のコントから入るんだ」と、その時は何の気なしに思う。
この後、彼等が“漫才”をする姿を目にし、あんなに泣かされることになるとも知らずに。


開場中のBGMに高田渡さんの曲が使われていた。

フォークのゆったりとした心地と相反し、こちらの内心はワクワクしつつも少しドキドキしている…緊張と緩和。
しばらく待っているとBGMが変わった。ギターの音色にトニーフランクさんの色を感じる…そして徐々に暗転していく。開演前から気になっていた、上手側に置かれたイーゼルとボードに照明が当たる。そこにトニーさんがギターを抱えて登場する。

スピーカーから聴こえていたBGMがシームレスに生音へと切り替わり、柔らかなアコースティックギターとブルースハープの音色が耳に入る。

トニーさんは連日、チーム各人のTwitterに『見学』と称して登場しており、今回も音楽はトニーさんであろうと想定していたので、それだけで嬉しかった。
しかも、リアルタイムで演奏すると分かった瞬間、過去に観たコントライブ『ねてもさめても宇宙人』を思い出した。
2020年12月、∞ホールにて開催されたこのコントライブは、開場からラストまで全編を通して、トニーさんの(おそらく)即興による演奏で展開された配信無しのコントライブである。このコントライブもとても素晴らしい内容であったことを記憶している。
詳細の感想は過去のnoteに記してあるので、酔狂な方は目を通して下されば幸い。

以降、『栗鼠のセンチメンタル』『てんどん記』といった大きな単独公演の際、音楽はトニーさんが担当している(『トワイライト水族館』もそう)
そんな過去に観たコントライブを想起させる演出に、この時点で既に心の中では【ボトルメール】の佐藤ばりに沸いていた。

そして、本日の主役達が登場し、サンパチマイクの前で語り始める。


[はじまり]

いつもの心地良い温度感で繰り広げられる掛け合いも程々に、浦井さんが
「ちょっとね、『やってみたいことがあるのだけれど』」と切り出す。

タイトルにも使われているこの
『やってみたいことがあるのだけれど』と、
『おばけ』が今回の公演のキーワード。

何故あのキービジュアルだったのだろうと疑問だったのだが、このnoteの冒頭に引用した一文を見つけて、まずはそこで膝を打った。おそらくはそういう事(だと思うが、あくまで推測)
まずは【観光案内】所の人をやってみたいと浦井さんが言う。サンパチマイクから離れた彼等は両サイドにあったパーテーションのようなものを裏返す。

そこに現れたのは、左右6体のトルソーに掛けられたそれぞれの衣裳。

映像化されている過去の単独公演『Denki Ifuku  Yé-Yé』を彷彿とさせる演出…しかも、全てがこの為だけにきちんと彼等のサイズに採寸され、縫製された衣裳…“それ”が可能な状態にまでなっているのだなと嬉しくなり、この時点でかなりグッと来ていた。
もしかして、最初の告知が5ヶ月前といつも以上に早かったのには、こういう事情もあったのだろうかと素人ながらに思う(ハコの問題な気もする)

余談だが、今回販売されていたパンフレットにも衣裳に関するプロセスが一部掲載されている。知らずに家でパラパラと捲っていたらそのページが目に入り、思わず感極まって泣いてしまった(さよなら情緒)


今回の単独を観た直後は、彼等の“これまで”と“これから”がこの約2時間に凝縮されたような、そういったものを観ていたのかなという印象だった。
昨年のキングオブコントとM-1グランプリは、彼等にとって大きな大きなターニングポイントであっただろうと思っている。
公演終盤に感じた事だが、このスタイルから始まったことに関しては少し気になっていたので、普段はやらないのだけれど、観終わってから珍しくずっと深く深く考え、この事について脳内で掘り下げていた。
その辺りについては後ほど触れることにする。

舞台が暗転し、両サイドのトルソーに照明が当たる。トニーさんが奏でるギターを聴きながら、そこから衣裳を手に取り、その場で着替える御二方…舞台袖の見えない所にはおそらく姿見が有るのだろうと思いながら、浦井さんが身なりを整える様子を見つめる(観劇位置は↑の舞台写真参照)…シンプルながらも粋を感じる。こんな手法で幕間を繋ぐだなんて、なんと洒落たことをしてくれるのだろう。
もしかして、ここで衣裳をローテーションしていき、最後の衣裳を着てコントをやって「はいおしまい」といった塩梅だろうか、それとも…などと想像を膨らませながら、この時点では舞台の上にいる御二方を観ていた。


見ず知らずの人に「あなたの思い出の地を巡ってみたい」なんて唐突に言われたら、当然の如く戸惑いしか無いと思うが、【観光案内】所を訪れた亮太の言葉に、野宮も戸惑っている様子。
戸惑いながらも案内した野宮にとっての始まりの地…その場所を耳にした時、このお話は彼のルーツを辿る旅のように感じた。物語が進むと、それは予想通りだった、ていうか苦行て。

しかし、疑問だ。苦行だなんだと言いながらも、なぜ亮太は野宮のルーツを辿りたいのだろう…それは再び始まりの地に辿り着いた時に明らかになる。
これは時空を超えた親子の、その先へと続くお話…とあるアニメの親子を思い出す。
時間差ドンピシャリ、地味に好き。

そして「ああそうか、だから亮太は苗字を名乗らなかったのか」と時間差で気付く。


……それだけのことをやってきました

凄く重たい罪を背負った人から出てきそうな言葉の様に思うけれど、今思えば亮太のこの言葉は、父親が音楽を辞めた事に対して凄く責任を感じていた事によって出てきたものなのだろう。「自分が生まれたことにより、お父さんの楽しみを奪ってしまった」くらいの気持ちを抱いていたのかもしれない。
そして、未来の野宮は良い父親なのだろうなというのは、亮太を見ればなんとなく分かる。父親を思いやる事ができる亮太は優しい。

少し話が逸れるけれど、自分の親のルーツを辿る旅ができる未来なんて、個人的には素敵だなと思う。
唐突に私事を書くが、ここ数年「自分の父親はどんな人だったのだろう」と考えることが増えた。出張が多く、家に居ない事が多い人だったので、肉親にも関わらずその人物像をわたしはほとんど知らない。
こんなシステムが構築される未来が生きているうちにもし訪れるのならば、活用してみたいなとふと思う。

そして亮太は、父親に【音楽家】をやって欲しいとお願いする。野宮は訝りながらも承諾する。
亮太が話していた事を思い出し、野宮には翌日以降その記憶が残らないのかと思うと、少し切なくなった。亮太なりの親孝行、或いは償いだったのかな。


生活の為(?)に人間の寿命が欲しい悪魔と、ギターテクニックが欲しい【音楽家】の話。

小競り合いが人間くさすぎるのよ。
平井さんのことば遊びが楽しめるコント。

悪魔って、傍若無人で粗暴な振る舞いをしそうだなというイメージを個人的には抱いているけれど、『ごまたのおろち』で観た【ヘルクッキング】のように、平井さんが描く悪魔は人間くさくて生活感があって、愛らしくて、憎めなくて、そしてどこか優しいところもあって…本当に悪魔というよりは、アクマという感じがしてとても好きだ…………………てか、お辞儀深〜い。
観劇していた際は見えず、配信を観て気が付いたのだが、三叉路のアクマが着ているローブの袖にちゃんと三叉路の矢印が施されていてとても細かい。
「3年って結構だよ?」と何度も言っているのを聞き、台本を読み返し、頭の中で振り返り、自分が生きている世界での貨幣価値で換算(¥10,000/年)をしながら「ああ…まあ、でもサラッと言ってたけど、こうやって考えると3年無いってたしかに死活問題よなぁ、うん…」とアクマ側の視点に立って思ってみたり。
自分の存在自体が無かったことになってしまうリスクを抱えているにも関わらず、川松にとっての『おもしろい楽しい』を優先させようとしたアクマ…そのやさしさで、今までもこんな感じで色々と手放してきたのかなあと一瞬過ぎってしまう。

「人間になれるとしたら、どんな人間になりたい?」と、川松はアクマに問うたけれど、「(アクマの存在そのものが)なかったことになる」と知り、何か思う所あったんだろうか。
「普通がどういうのかわからないが普通のおっちゃんになりたい」と答えたアクマに【普通のおっちゃん】をやってとお願いする川松、ちょっと好奇心旺盛な人なのかも。

川松のギターのマイム、ストロークだけでなくコードを押さえるところまでしっかりとやっていた。
普通に音楽のライブを頻繁に観に行っていても、全員がギターの持ち方を当たり前のように理解しているとは限らないし、ギターのストロークは真似できてもコードを押さえるところまで頭がいかなかったり…なんて事もあると思うのだが、やはり身近にギターを弾く方が居ると、その様子を何気なく観察していたりするのだろうか、などと思ったりした。


『変身大阪ウミウシ』の時にやった【来ました】や、『トコトコGOGOタツノオトシGO』の【おじピク】などといった、男性ブランコがやるおいちゃんの掛け合いコントが大好きなので、冒頭からこのふたりの【おっちゃん】のやりとりがずっとツボに入り笑いっぱなしだったのだけれど、途中からあんな演出や展開を目にすることになるとは思わず、涙が溢れてしまった。自分の中で位置づけしている男性ブランコの泣きのコントの中では3本の指に入るくらいの、とても大好きなコントとなった。

これ以降、涙は拭いつつもマスクの中は鼻水ダラダラという、なんともみっともない姿でコントを観ていたというのは、ここだけの話。

衣裳をリバーシブルにする事により、幼少期への回想へ、回想から現在へと向かう演出は、凄くシンプルであるにも関わらず郷愁を感じ、回想に入る場面では、目の前にあった景色がセピアがかったような気がした。声色を変えられると胸がギュッとなる…ずるい。
ふたりは助け助けられしながら、互いに生きてきたんだろうなあ。
せいちゃんは心配もあるんだろうけど、回想でも語られていたようにかっちゃんに助けられた恩があるから、肉体を失っても彼のことが心配だから、彼のしあわせな未来を見守ってから旅立ちたかったのかなと思ったり…見えてないおばけはただのおばけ。

平井さんの死生観がほんの少し垣間見えるコントが好きだし、平井さんが演じるちょいと与太郎風情ある不器用なおっちゃんが大好き。
せいちゃんとかっちゃんは性格真逆だったりするのかなと、やってみたいごっこ遊びの会話を聞きながら考える。せいちゃんは気弱だから正義の味方に憧れ、かっちゃんは正義感が強くて、ちょっとやんちゃそうだったから、知的な【研究者】に憧れていたのかもしれない。

リバーシブルの衣裳、おっちゃん達が着るにしてはとても色合いが綺麗でファッショナブルだった。舞台は近所にお洒落な洋服屋さんでもある街だったなのかな(おや誰か来たようだ…)


もう、設定も展開も大好きですありがとうございます…衣裳の白衣がSF映画にある近未来的な匂いを感じ、とてもスタイリッシュで好きだった。
コーヒーゼリーから純度の高いゼリーを生み出す為にコーヒーを抽出するだけの装置の完成に勤しむ【研究者】たち…画期的なものというのは、使い方によっては善にも悪にもなりうる。最近そんなテイストの某機動戦士系アニメを観ては気持ちを落ち込ませている(面白いんですけどね)
そして、先日ゲストで出演されていたドラマを観た矢先の観劇だったので改めて思ったが、浦井さんの悪い人の芝居がわたしは大好きである。そしてその悪い人が終焉を迎える時の芝居も…闇に堕ちた久保が振り回される時のマイムに見る力加減なんかも絶妙だった。

なんか…見えるのよ、機械が。
こういう場面を観る度に、映画作品などを鑑賞しては常に観察されているのかなと感じる。悪い人や犯人役は御本人もやってみたいと話していたので、これから先そんな機会が訪れるなら嬉しい話(心の声を失礼しました)
ちょっと変わり者の平井さんの博士も最高だった。この時に登場した(?)ちゅうしゅっちゃんが思わぬ形で回収されることになるとは思わず、後ほどそこで爆笑する。

因みにこのコント、最後の展開に震えた。
ちゅうしゅっちゃんが意思を持ったことによるとはいえ、そんな綺麗なジャ○アンみたいになってしもうてあーた…などと久保の姿を目にして、そう思いながらクスクス笑っていたのだが。

人間には業や煩悩があり、澱みも持ち合わせている。
清廉された人などいないであろうし、そういった部分がないともう生きられない、くらいの考え方で基本的に生きているタイプの人間なのだが、もしそんな澱んだものがなくなり清廉されたならば、実際人間ってどうなってしまうのだろうと考えることが時にある。
コーヒーゼリーという有機物では黒い部分を100%抽出できなかったのに、人間の黒い部分となったら抽出率100%かましちゃって装置として完成形に至るだなんて、なんとも皮肉な話だ。
ラストの博士の振る舞いを目にした瞬間、人を殺めた後にしばらく家に居座り、普通に食事を摂ったりするタイプの犯罪者を映画や小説などで目にしたことがあるが、ラストが正にその様相を見ているようで少しゾクッとして、コントであるはずなのに、とても怖い話だった様に感じた。だからこそ、わたしはこのコントもすぐさま気に入ってしまったのだけれど。

久保の方が正常に見えて、ラストの博士の方が狂っている様に映ったわたしは、人として末期なのかもしれない。

でも多分、どっちも狂ってる。

“純然たる人”の姿と化した久保に、博士はちゅうしゅっちゃんを用い【絵描き】成分の注入を提案する。第三者巻き込んでるのこわ。


汚名を着せられ世間から非難を浴びている【絵描き】と、彼に資金援助する父親をもつ青年のお話。
禅さん、人間的にすごく好きだなぁと観ながら思っていたけれど、世間的に何を言われてもどこか他人事だったり、敬太の前では飄々としていて、敬太に向ける言葉を聞いていると、彼は自分の軸をしっかりと持っている人なのかなと思う。

『禅』と聞いて、まず浮かんだのは仏教だ。
大乗仏教において『禅』の考え方の基本は、『マイナスのものをプラスに転じて考える』ものらしい。
禅さんの名前ってそこから来ているのだろうかと思ったり。
だから、汚名や濡れ衣を着せられているネガティブな状況も歌い飛ばせるのだろうか。
だから、敬太が次期当主でなくなり、「自分には何もない」と肩を落とす姿を目にしても、禅さんは「お前はお前でしかあり得ない」と言い切れるのだろうか。
だから、どれだけ敬太にお金の心配をされても、「そんな事などどうでもいい」と言わんばかりに彼が自由になれることを喜べるのだろうか。

サラッと「パトウさん」って言えちゃう軽さと、マトリョーシカの大きさ間違えて作ってしまったりするうっかりな所も憎めなくて好き。それにしても、はぐれマトリョーシカ…前科ありでしたか…。

あと、敬太が禅さんから贈られた絵につけた『深海のトルソー』という題名がすごく好きだったな…『蒼穹のファフナー』のよう(違う)、洋服好きからトルソーを連想する辺り、好きから来る視点って大事だなあと思わされた場面だった。

けれど、実際はイカだった事に思わず笑う。

でも敬太のセンスを、禅さんは怒ることも笑うことなく受け入れる。
禅さんくらい大きな人間になりたい。

敬太が禅さんに『やってみたいことがあるのだけれど』と伝える。暗転とともに照明はトルソーのみを照らす。舞台はクライマックスへと向かっていく。
その中で浦井さんが次の衣裳に手を伸ばしたのを見た瞬間、懐かしさとさみしさが合わさったようなトニーさんの演奏を聴きながら、「あぁ、もうすぐこの時間が終わってしまうんだ」と、急にさみしくなった。


古い洋館を訪れたひとりの男と、そこで【服屋】を営む不思議な店主の話。
平井さんの短髪女性、個人的に結構好きだったりする(ジェンダー的な部分も一瞬過ったが、今回はいつものように女性役と認識して観ていた)…洋服屋の全貌が分かった瞬間、「ほぇ〜」と見惚れた、今までコントで使われた衣裳をこんな演出で使うなんて
「服は記憶である」…なんだか、写真に通ずるものがあるなと感じた言葉だった。

アドリブのところ、この日はこんな感じだったのかあと、夜にも関わらず観ながらめちゃくちゃ声を出して笑ってしまった(THE 近所迷惑)
それにしてもまさか一番最初に着ていた衣裳に立ち帰り、漫才をやっていた場面に戻るなんてね。
漫才で始まり、そして漫才に回帰するコントライブ…その時、ふと彼等の昨年以前の大きなトピックを少し思い返していた。

一昨年の単独の動員を目の当たりにし、平井さんが心折れてしまったこと。
同じ年のキングオブコントで彼等のコントを観て彼等を知る人が沢山増えたこと。
昨年のキングオブコントで上手くいかなかったこと。
そして、それを乗り越えたM-1グランプリでもっと沢山の人が彼等の漫才を見て存在を知ってくれたこと。


…このコントに登場する男の欠落した記憶は13年分。
思うに、13年という数字はおそらく彼等にまつわる年月…もしかすると、最初の衣裳である、つぎはぎされたあのジャケットは、彼等の13年が凝縮されたモノなのかなと感じた。
基本的にアホの子なので、この事を考えると「あれ…どっちやったっけ…?」とよく分からなくなるのだが、男性ブランコの結成年は2011年となっている。今年の彼等は13年目。活動時期は2010年から。そこから数えると、13年…どちらだろう。
あのジャケットには色が入っていない部分がある。今回の単独ビジュアルに使われた、unpisさんのイラストの部分。あそこだけが線画の状態で衣裳に組み込まれていることを考えると、前者で見る方が妥当だろうか。

最初に着ていたジャケットに浦井さんが袖を通し、舞台の真ん中に立つ。横に目をやると、平井さんがあまりに突飛な格好をしていて驚きのあまり声を張る姿にめちゃくちゃ笑ってしまった。

毎度思うが、浦井さんが声張るとなんであんなに笑ってしまうんだろうか、面白すぎるのよ本当に。

そして明るくなった客席に向けて「すいません!」と慌てふためきながら平井さんに着替えを促し、舞台袖からサンパチマイクを持って来る浦井さんという構図を目にした瞬間、溢れてくる感情を抑える事が出来なくなってしまい、笑っていたいだけなはずなのに、しばらく涙が止まらなかった。

これから先の未来、彼等が日本全国の劇場で今回のコントライブの様に、楽しくて素敵な作品たちを引き連れて、沢山の人達にこんな時間や空間を届けられるようになる日がもうすぐそこまで来ているのかなと思ったら、嬉しくなって。嬉しくて堪らなくて、どうしようもなくなって、笑ってるんだけれど、そうじゃなくもっとゲラゲラと笑いたいのに、それよりも涙が止まらなかった。
(因みに、この場面を心の中で思い出す度に、未だに泣いてしまう…もはや末期である)

そして、彼等の漫才は、いつもの様に深いお辞儀で幕を閉じる。


映像を一切使うことがなかった今回のコントライブ。
暗転したアクトスペースの傍らで奏でるトニーさんのギターとスモーキーな歌声が会場に響いていた。

お笑いのライブでカーテンコールが観られるだなんて思ってもいなかった。
その瞬間、お笑いの枠を超えた、演劇の舞台とも違う、また新しいかたちのエンターテインメントを、わたしは目撃していたのかもしれない。
鳴り止まぬ、割れんばかりの拍手の中、客席にお辞儀をする御二方、そしてトニーさんに最大の賛辞を込めて、スタンディングオベーションを贈りたかった。そして、約2時間のコントライブを舞台袖に捌けることなく、ほぼ出ずっぱりの状態でやり切った彼等の表情は凛々しく、頼もしく、そして…こんな言葉を送っても大丈夫だろうかと思いつつ書かせてもらうが、素直にとても格好良い人達だと思った。

終演後は元々そうするつもりだったが、会場から横浜まで徒歩で向かった。
笑顔で帰りたかったのに、あのラストシーンを思い出しては嬉しくて泣きそうになり、マスクの奥で表情が歪む。
ずっと心の中にあるエモが燻っている様で、そんな状態を繰り返しながら、小雨降るみなとみらいの街をゆるりと抜け出し、傘も無いまま歩き慣れた道をひとり歩いた。
(雨降るなんて聞いてないし)


[後日、思ったことをつらつらと綴る]

観る前は変な深読みはしたくないなと思い、頭の中を空っぽにした状態で観ている割に、その最中や直後は、頭の中ぐっちゃぐちゃになって物語の整理が全くできない人間なので、今回は時間をかけて記憶を思い起こしながら整理した。

言い訳がましくなってしまうが、考察めいたことは読解力や汲み取る力がある方でなく、前に進めず抜け出せなくなる事も考えてしまうので、基本的にほとんどやらない様にしている。
ついでに書くと、頭の回転が決して早いわけでもなく、点と点が線で繋がらないと物事の構造を理解するまでに物凄く時間がかかる難儀な人間なので、誰よりも着地が遅い方だと思っている。

ここから先は、そんな人間が抱いた「なぜ」に対する自分なりの答えに辿り着くまでの様を、時の流れほぼそのままに記したもの。
誰かが既に最適解として色々と気が付いているであろうことを、もしかしたら以下にドヤ感出して書いているかもしれないので(そんなつもりは毛頭ないが)、その辺りはご容赦いただければ幸い。

**********

今まで“自分達ではない誰か”を演じてきたはずなのに、
“浦井のりひろ”と“平井まさあき”で始まり、
“浦井のりひろ”と“平井まさあき”で終わった今回のコントライブ。
サンパチマイクが置かれた舞台が目に入って以降、何故この形にしようと思ったのだろうと、今回ずっと考えていた。

直近のインタビューで、昨年の毎月単独がきっかけだっただろうか、
「コントのキャラクターと自分自身との境がなくなってきており、それに伴いコントの作り方も漫才に寄ってきている(要約)」
と話しているのを目や耳にした事を思い出す。

この記事の[はじまり]でも書いたように、観終わった直後は「コレは男ブラさんのこれまでとこれからを詰め込んだものなのかなぁ」と思考をふわつかせながらコントを観ていたが、後々頭を巡らせるうちに、そう考えるだけに留めるにしてはどうしても引っかかるものがあり、「これはそんな単純な話で終わるものなのだろうか」と疑問を抱いてしまったが最後、目に焼き付けた記憶を頼りに、脳内の自分は思考の奥にある精神と時の部屋の扉を開けた。
…というわけで色々と考えが巡りに巡って、なんとなくだけれど、“コントライブ”を観に行ったと思っていたが、実のところあの場所でシンプルに彼等の“漫才”を観ていたのだろうなあと、そんな気がしている。

あの場所あの空間で、音符運搬の延長の様な2時間ほどある1本の“漫才”をわたしは観ていたのだろうと、数日経った今は思っている。

お笑いの細かいことは未だによく分かっていないが、彼等の漫才はしゃべくり漫才やどつき漫才などではなく、コント漫才にカテゴライズされる。
劇場に行った際、芸人さんの漫才を観ていると、つかみの後に「ちょっとね、やってみたい◯◯があるんやけどね…」などと、どちらかが切り出す場面を目にする事がある。
「ぼく(もしくはわたし)がコレやるから、あなたはソレやってもらってもいい?」と続き、相方が同意してネタに入っていくことも時にある。
あと劇場の寄席ライブは持ち時間が長めな分、芸人さんによってはその時間の中で複数の漫才を観られる機会がある。

音符運搬も平井さんからの「芸人以外でやってみたい仕事がある」というひと言から始まる。そして、今回のどのコントもそんな漫才で起こる様なやりとりがあった後、次のコントへと流れていく。
今回の単独はそんな“男性ブランコの漫才”を主軸に、その中で繰り広げられる“コント漫才の一部”をコントとして観ていたのだろうなと思う。

観終わった直後は、漫才の部分を現実、コントの部分をイメージといった感じで、何故かは分からんが切り離した形で考えていた為、頭の中では点と点の状態となり、最後のあの場面はコント(イメージ)から漫才(現実)に帰ってきたとばかり思い込んでいた(故に“回帰”という表現を使っている箇所がある)
舞台から捌けることなく、約2時間出ずっぱりだったことも、それ故に着替えが上半身と帽子のみだったことも、キービジュアルのスーツデザインも無地ではあるが、ウインドウペーンのラインが印象的な2代目漫才衣装に寄せたものであろうと考えると、ジャケットの形も浦井さんがダブルで平井さんがシングルであることも全て、“コントライブではなく、男性ブランコの漫才を観ていたのだとしたら”と仮定した瞬間、自分の中で今回のこの形すべてがストンと腑に落ちた。
単独公演のキービジュアルはいつもその時着用していた舞台衣装だった印象があった為、今回無地のスーツだった事に対し「珍しいな」とは思ってはいたが、思い返せば今回もちゃんと舞台衣装に沿った形になっていたのかと今は思う。

観劇から数日経った時からつらつらと書き出し、ぐちゃぐちゃになっていた点だったものが線で繋がり、冒頭に観ていた漫才のやりとりからコントも含めて、そしてオチへと向かうあの瞬間まで、ずっと現実として、ひとつの漫才として続いていたのだと、胸の支えが取れるに至るまでに2週間を要した。
京都公演千穐楽の終了直後だった(時間かかりすぎじゃねえか…?)

先日観た『やすとものいたって真剣です』の中で、矢野・兵頭の兵頭さんは「漫才を審査する際、どういったところを見ているか?」という平井さんの質問に対して「演じる力」と答えていた。
これを聞いて、漫才も演技力を要するという意味ではコントと同じなんだろうなと分からないなりに思う。

少し脱線するが、おばけと漫才について少し調べていたら、『ゲゲゲの鬼太郎』のアニメの中で【おばけ漫才】というタイトルの回がある事を知る。
白山坊という妖怪が、売れない漫才師に「チート使って賞レース勝たせてやっからお前らの魂くんろ」って持ち掛けて契約通り話は進むんだけど、その漫才師のファンだった鬼太郎のおやじが「そんなんせんでもコイツらおもろいんじゃ」って言ってから色々あって漫才師は魂取られずに済んだ(ざっくり要約)というお話らしい。
話の筋しか読めていないが、当事者の漫才師はチートを使わずどつき漫才で爆ウケしたんだそうな…ちょっと気になるがな。


脱線はこの辺にしておいて。
ここまで書いておいてなんだが、これはあくまでわたしの推測に過ぎないし、先ほども書いた通り自信ありげに書いてはいるが全くもってそういった事はなく、そもそも裏テーマ的なものがあるのかすら分からない。すべては彼等のみぞ知る所。
もし仮にそんなテーマめいたものがあるのだとしたら、12年コントを愛してきた彼等が、奈落の底に落ちた心を救ってくれた“コント師なりの漫才に対する恩返しと昇華”だったりしてな、などと勝手に思っている。
自分が観た限りではあるが、今回の公演は、いつもの様にエンディングに少しトークをするなどといったことは一切なく、彼等はシンプルに謝意を述べ、頭を下げた。この“謝意”が誰か(なにか)に向けたものであったと仮定するならば、それは“漫才”に対してだったのではないかと考えている(頭がおかしいのでもうしょうがない)

ただし、あくまで自分の中で辿り着いたひとつの結論にすぎないし、想像の域は出ていない。
しかも、キービジュアルのキャッチコピーには[おばけじゃないよ コントだよ]と添えられている…やっぱりわたしはコントを観ていたんだろうか(コントライブなのでそれはそう)

だけど、もしあの時漫才がなかったら、今頃彼等はどうなっていただろう。
あの時、彼等が漫才に切り替え救われたからこそ今があり、こうして彼等の『やってみたいこと』を、いま見届ける事ができているのかもしれないなと思う。

そして、最後に着たあの衣裳を見るに、彼等の『やってみたいこと』は、これまでも、そしてこれからも、地続きになっていくのだろうなあとも思う。


[余談も余談]

①今回、公式アカウントからはグッズ販売・物販の情報だけでなく、劇場の周辺状況や交通機関の影響に伴う開演時間の変更、劇場の空調状況および観劇に際しての注意喚起などの情報が、公式Twitterで逐一アナウンスされていた。
特に注意喚起に関しては、構成を担当するワクサカさんや大澤さんからもTwitter上で発信されていた。これは彼等のコントライブを観てきた中で初めての事だと記憶している。
それだけ沢山の方が彼等に興味を抱き、彼等のコントを観てみたいと思う方が増えたという証であろうと考えている。

以前、浦井さんが『浦井の枕もと』の中で、
「(劇場に観に来ている)皆様も舞台を構成する一要素」であると話していた(以下参照)

色々と思うことはあるけれど、結局は持ちつ持たれつなんだと思う。
大切に創り上げた作品を観られるのは、平井さん・浦井さんをはじめチームの皆様によるホスピタリティやお心遣いあっての事だと思うので、敬意や誠意を忘れずに、節度を弁えた上で応援や観劇をするという形でお返し出来ればと常々思っている。


②パンフレットを捲りながら、ふと思ったことを少しだけ。

まず装丁がとても気に入っている。何度も捲りたい、読み込みたいと思わせてくれる、とても好きな少し硬めの紙質。仕事の合間に捲っては穴が開くほどに読んでいる。

すてきおばけ

読み込んでいったらきっと古の書物の如くボロボロになったりしていくんじゃないかな…これは丁寧に読み込んで、できる限り綺麗に保ちたいなあと思ったり。
印字が外側ギリギリなのも珍しいなあと思いつつ、内側の余白が大きめな気がしたので手元にある本を数冊を確認してみたが、然程変わりはなく、それは見開き出来る事もあっての錯覚なのだろうと一旦忘れる。

コデックス装という製本方法は図録や写真集などに適したものらしい。
図録…いつかこんな風に少しずつ大きくなっていく過程の区切りやなんかで、そういったものが見られるのなら、きっとしあわせだろうなあとついつい妄想してしまう。
手軽に持ち歩けるアートブックのようだとも思っているので、経年変化を楽しむ革財布の様に、今回のパンフレットは愛着が湧きそうだ…というかかなり湧いている(楽しみ方を間違えている気がする)

正直、保存用にもう1冊購入しても良かったのかもしれないと、コレクト趣味は無い方だがそんなことを考えてしまった。


そして内容は言わずもがな最高で、その中でも気になったのがゴーストライター氏が主に筆を執った小説だった。読みながら「ん?」と思っていたのが、次第に「えっ?」と思わず何度も声に出てしまった。内容は割愛するが、自分の「もしかして」が間違っていなければ、コレにもちょっとした仕掛けがあるような気がした(気のせいだったらごめんね)

もうひとつ。
キービジュアルの撮影を担当した齋藤葵さんのツイートで、以前お見かけした撮影時のエピソードを思い出してみて欲しい。

もしかすると、浦井さんのC-3POはボツになっておらず使われている可能性がある。
その箇所を見て「この写真、ソレっぽいなぁ」と思った後、ふとこのツイートを思い出し「もしそうなのだとしたら…」と考えたら、声を出して笑わずにはいられなかった。

因みに後日、このことをちらりとツイートしてみたら、齋藤さん御本人からリアクションがあったので、わたしの中ではそういう事であろうという認識でいる。


[あたまがおかしいついでにかいちゃうのだけれど]

ある方に一度、わたしの中で抱いている彼等に対する暑苦しいほどの想いをお伝えした事があるのだが(その全てに目を通して下さったかまでは定かで無い)、内容は恥ずかしいので流石にここではまだ書かず胸の中にしまっておこうと思う。
今回の公演は、これから先そんな景色がいつか見られそうな予感がする…そんな期待を抱かずにはいられない公演だった。

そして、あくまでわたし個人の、身勝手で都合の良い解釈に過ぎず、若干…いやだいぶ痛々しいと思う内容なので書くのを一瞬躊躇ったが、記録として一応記しておこうかなと思う。
最後のコントを観ている最中に、彼等が口にしたわけでは全くないのだけれど、


「今まで応援ありがとうございました。そしてこれからもよろしくお願いします。
ところで…やってみたいことがあるのだけれど、これからもこんなぼくらの事を見届けてもらえますか?」


と、聞かれた様に感じた。
我ながら普通に「コイツ気持ちが悪いな」と思うが、そう感じたのは事実であるのでしょうがない。
だけど、パンフレットに掲載されていた上演台本の一部【絵描き】のラストでは、ト書きにこう記されている。

二人のやってみたいことはつづく

そう。これからもつづくらしい。
だからついつい、そんな都合の良いことを考えちゃうし、思っちゃうわけで。

でも、もし、仮に。
仮に、そんな風に彼等から聞かれたとするならば、


返事は勿論、「Yes」である。
これまでも、これからも。ずっと、ずっと。

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