恐竜元年:始まりの三日間の物語

23:タツマと棗(なつ)

すっかり日が落ちた下宿の庭。馴染んできた皆との夕食を終えたひととき、タツマは濡れ縁に独り居て、繁る羊歯と棕櫚、鱗木、都市の中にあるには珍しい銀杏や杉の瑞々しい若木を見つめながら静かに世界の音を聞いていた。
――あーしぇんとノケハイ、ヒサシブリ
ふと植物達の喜びが流れ込んでくる。その木陰で、小さな毛玉哺乳類が細長い羽虫を捕え、頬を膨らませて生命の連鎖を営んでいた。
――あーしぇんとガ、イルネ
――ココハ、アブナクナイヨネ、コワイノ、イナイヨネ
――オイシイネ、オイシイネ
紡がれていく自然が、不自然なはずの人の世界、都市の中、にも確かにしっかりと息づいている。
(私は、アーシェントを捨てたんだ。答えることはできない。)
そっと目を閉じ、そんな彼らの歓喜を押しつぶすように深呼吸。すると、生きている者たちの甘い空気、満ち溢れる生命たちの気配が肺に優しく満たされていくのを感じる。それらはアーシェントにとって何にも代えがたい薬、人によって無造作に触れられては傷つけられていく心を優しく癒してくれる傷薬になる。
(でも、ありがとう。)
素直に心で深く頭を垂れる。世界に満ちる生命達への尊敬と感謝は、いつも彼を充分に満たし、包んでいく。
「タツマさん、どうなさいましたの?」
突然の声に、小さな生き物たちは驚いて走り去り、植物達が沈黙する。声の元へ視線を流すと、棗(なつ)が大きな桶を両手に抱えて庭に居た。闇に黒く影を映す中、月明かりに照らされてそこだけが光っているかのような印象。
「あ、棗(なつ)さん」
思わず庭へ降り彼女の手から桶を奪おうとして、
「おっと、これから、水汲みでしたか?」
桶は空だった。いきなりで失礼だったか、と気まずい顔をすると、ゆったりと相手は微笑んでいて怒ってはいないようだ。
「これから汲みに行きますの。井戸は庭の奥ですから」
敷地内に井戸を置く。それだけでもこの下宿が非常に贅沢な建物だと判る。皇帝直属近衛師団の隊長の私有地とはいえ、その彼の愛娘の暮らす家が都市の北でなく、市民が暮らす「壁向こう」にある方が不自然なのかもしれないが。
「よろしければ、手伝わせてください」
あら、と彼女は
「今日は一日中働いてクタクタでいらっしゃるのではありませんか? エルデスでは、家の事は女がするべきことなんですのよ」
働き者の彼女らしい言葉が返る。
「けれど、力仕事は男だと、蒔(まき)から聞きましたよ」
ユェズが聞いたら、逆の事を言うだろう。
――アーシェントの世継ぎの君が水汲みなんですか?
結局、今日の仕事も大半はユェズが片付けてしまっていた。タツマがやったことと言えば、竜たちを磨いただけ。
(小さな頃から従者だった彼に、いきなり主従を捨てろというのは残酷なんだろうな)
自分をタツマだと言いながら、なかなかうまくは切りかえられない不器用さがユェズらしい。ふと浮かんでしまう微笑。
「タツマさん?」
その表情を、彼女はどう読んだのか
「……わかりました。では、お手伝い願えませんか?」
爽やかな笑み。
「賜りました。」
恐らく、自分は今彼女と同じ表情をしている。
――不思議な方ね
無邪気で優しい彼女の本音。タツマは聞こえないフリをして、では、と桶を受け取り、彼女の後を追った。

「タツマさんは、旅は長かったのですか?」
庭の井戸、石を組合せた掘り下げの手水に手桶を沈めながら、彼女がふと、問い掛けてきた。
――私、貴方がどこか他の方と違う気がしますの
「そうですね、三年ほど、でしょうか」
三度の雨季を数えた二頭の竜とユェズとの旅。その間にたくさんの生命と出会ってきたが、終ぞ人の群れ、「生きている」都市や村といったものに会うことは無かった。それが、自分をエルデスに向かわせた切っ掛けと言えないこともない。
「そんなに長く……」
――でもご無事で良かったですわ
貴族の娘である彼女は恐らく都市の外のことを何も知らない。命のやり取りと連鎖によって存在する自然に追われ脅えることの無い、平穏な日々を当たり前のようにすごしてきたのだろう。
「いかがですか? このエルデスは」
朗らかな女の声。
「人が多くて、正直、まだ戸惑っては居ますが……とても良い所だと思います」
ごまかすように笑い、沈黙。エルデスに入り、多くの人を知り、確実に言えるのは自分は……。昨日今日とタツマは多くの人の意識を感じとり、同時にその力の恐ろしさを思い知らされていた。アーシェントの多くが同種族で集まりあまり人と交わることがないのは、恐らくはこのように流れ込んでくる多種多様過ぎる強い意志の力、人の心のせいなのだ。実際、人という特殊な存在に囲まれている環境で生きていくには、アーシェントの精神力はあまりにもか弱い。恐らくはユェズや今日出会ったアトル皇子のようにその可能性を秘めながらも目覚めぬままか、姉のように失ってしまうかのどちらかでしか、自我を保って生きていくことはできないだろう。
――人であるアーシェントは有り得ません。そうあるには、我らの力は余りにも強すぎ、そして弱く脆いものなのです。
大ユェズから聞かされていた、父の言葉。
(確かに、そうだ)
水面に浮かぶ月と星が、ふと触れた棕櫚の葉先の波紋に揺れる。静かに流れていく時間。
「……タツマさん」
――こんなこと、話してもよいのかどうかわからないのだけれど、誰かには聞いて欲しくて
棗(なつ)の心の悲しげな声。耳に届く彼女はどこまで明るく活発ささえ感じるのだが、そこに秘めているものまでも彼は感じ取ってしまう。
――ただ、ただ聞いて欲しいの
滑り込む、彼女の悲痛な声。
「なんです?」
「……明日で、夫が亡くなって丁度二年目に当たりますの。この水は、明日の為のもの、これで、あの人が好きだった煮物を作ろうと思っていて」
――私を遺して逝ってしまった、憎い人の。
裏腹な言葉。
「夫?」
「ええ、私、結婚していましたのよ」
「そうでしたか」
ゆったりとした相槌。それに何を感じたのか、彼女は続けた。
「夫は……奥羽夫人が趣味で買いつけた角竜に殺されましたわ」
――どうして夫でなければならなかったのかしら
「竜は、皇帝陛下以外には持てないと聞きましたが……」
「それは、今のお話ですわ。当時、貴族の間で角竜を飼うのが流行りましたの。大きくて角の多いものほど良いとかで、奥羽夫人はとても大きくて角がたくさんある角竜を買いつけてこのエルデスへ連れてこさせたのです」
「……」
「ところが、その角竜は都市に入ったとたんに暴れだし、巻き込まれた子供を助けようとした主人は……」
――どうしてあの人はそんなことを
「……優しい、勇気ある方だったんですね」
何気ない彼の言葉に、ふと、彼女の瞳が潤み、
――無謀で馬鹿な方ですわ。私を置いていくなんて
「な、棗(なつ)さん?」
不意にもたれかかってきた彼女は、その細い肩を震わせている。
――私を置いていったのです、一生添い遂げるとお約束しましたのに、あの方は!
「……」
――私を一人ぼっちにしたのです! 酷い人なのです!
女の、子供のように泣いている心。彼女はその夫の死を毅然と受け止め、恐らくは「人前で泣くような、はしたない真似をしない、忍耐強い誇り高き貴族の娘」を必死に演じてきたのだろう。夫を奪われた怒りと哀しみをどこにも吐き出せずに。
「……棗(なつ)さん、その方は、とてもご立派ですよ」
見下ろしたうなじと後れ毛、肩で受け止める軽い重さと身体の暖かさ。タツマは普通の男なら保っていられないような理性も平然と、たしなめるように彼女の両肩にそっと両手を添え
「貴方をこうして泣かせてしまうのは、いただけませんが」
精一杯の言葉。
(そうか……この屋敷は、その彼と貴方が暮らした大切な場所なのですね?)
触れた途端に流れ込んでくる、棗(なつ)の思い出なのだろう暖かな心の感触、脳裏に滑り込んできた見知らぬ人の笑顔。恐らくは、この笑顔の主との日々はとても短かったのだろう、だが十分に満たされていたのだろう幸せな時間が確実にこの場所にあった。突然に奪われてしまうその時まで、確かにここにあったと判る。
――私、本当は辛かった、哀しかった、泣きたかった。独りじゃなくて、誰かに聞いてほしくて、慰めてほしかった
ほんの数呼吸の間、だったのかもしれない。
(泣きたい時には、泣くのが自然です、きっと……)
――泣いても、良いのですね
タツマに心開いた彼女もまた、タツマの何かを感じ取っていたのだろうか。震えるようにそっと身体を預け、そのまま、何分、何時間も過ぎてしまったかのような間、彼女は泣いていた。実際には数十呼吸程だったのかもしれない。落ち着いたのだろう彼女は溢れてしまった涙をゆっくりと拭い、
「ごめんなさい、はしたない真似を。つい、思い出してしまって」
顔を上げ、一歩、離れる。
「でも……ありがとう、タツマさん」
――貴方は聞いてくださる、そんな気がして
「私でよければ、いくらでもお聴きします」
彼女のなで肩から彼の両手が自然と戻り、穏やかな笑み。この場に、かの大ユェズがいれば「父君と同じだ」と感涙するほどに優しく、愛する民に向けるだろう王のそれが自然と出る。
――貴方は、やはり他の方とは違いますのね
(仕方ありません。自分が望んだわけではないのですが)
「……ありがとう、本当に」
そして細い腕が桶を引き上げようと伸び、咄嗟にタツマが代わりに取るとその水を桶へと流す。ザァッと響く音と共に先ほどと同じ位に距離が縮まると、ふと、彼女から爽やかな心地よい夏葉が香る。人であれば、それを魅惑というだろう。
「その時、夫を始め、奥羽夫人やその侍従たち、市民にも多くの犠牲が出ました。それで夫の師であった宰相様が、父と供に皇帝陛下にご注進くださって、竜は皇帝陛下以外に持つことはならぬ、と取り決められたのです」
ぼんやりと過去を見通す桶の月。
「そうだったのですか」
「父は、仕事が増えてしもうた、と申しておりましたけれど」
優しい父と勇気ある夫、多くの人から恵まれ、愛されてきた彼女。その豊かな心から多くの人の愛情が溢れているのが判る。都市の人に生まれ、生きて、死んでいく生命の流れがここにもある。そう、同じように、この世界に生きる恐竜達、植物達、動物達、昆虫達、目に見えぬものたちまで全てにある潮流を、アーシェントは見守り、時には……。
――私、お父様が私のかわりに、私の恨みを晴らしてくださった、それが嬉しかったのです、あの恐竜を殺してくださって、とても嬉しかった
不意に滑り込んできた、異質な彼女。明るく無邪気な、喜びさえ混じるその些細な刺。
「韻様の、お仕事?」
(恨み? 晴らす? 殺す? うれしい?)
あえて、聞いてみる。
「ええ、陛下の竜であると決められたもの以外は全て、お父様の師団が殺してくれましたのよ」
触れてしまった、禁忌。
「殺したのですか?」
「だって、外に出しても私達に危害を加えることは変わりありませんし、家畜竜でもありませんから、食べるわけにもまいりませんでしょう? 都市にいても困るだけでしたから、骨と皮と脂を残して、いらないものは処分いたしましたの。数が多くて大変でしたのよ、当時は」
都市の人間としての明るい言葉。瞬間、タツマの背中に逆立つかのような、ぞっとする恐怖が走り抜ける。
――竜は夫を殺したのよ、だから、お父様が仇を取ってくださったの
「特に大きなものは細工して宮殿に向かう回廊に飾られてますわ。あの角竜もそこにおります。なぜでしょうね、わたくし、それを見たとき、とても綺麗だと思いましたの。きっと、お父様が仇を取ってくださって、私の中で、吹っ切れたのでしょうね」
笑顔。
「それに、その時にたくさんの脂が取れたおかげで灯りを持てる家が増えましたし、家畜囲いも作り直すことができたのですって。だからきっと、悪い事ばかりではありませんよね、きっと」
(それは……)
「夫の事は辛いですわ、でも、そのおかげで皆に良いことができたのであれば……きっと、夫も……」
それでも水に満たされた桶を支えている両手。
「タツマさん? どうかされまして?」
瞬間で変わった顔色をどう見るのか、不思議そうに覗き込んだ女に、
「いえ、何でもありません」
(そうか……エルデスにとって、人間にとって、アーシェントも竜も……)
消費するためだけの生命。糧でもなければ、必然でもない、「生きること」を奪い、生命を踏みにじる事への躊躇いなき衝動とそれをやり遂げることで得る快感と喜び。なぜ人間は聖域とまで呼ばれたアーシェントを攻めることができたのか。タツマはその理由を理解し、苦い屈辱と知ってしまった後悔が混じる哀しみの波に打たれながらもそれに耐えた。
「さ、参りましょう」
促され、
――オヤスミナサイ、あーしぇんとノヒト
動かぬ植物達に送られながら、茫然と最後のアーシェントは再び屋敷へと戻っていった。

今夜はどうやっても、眠りに落ちることができないだろうな、と思いながら。


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