恐竜元年:始まってからの二日間の物語

07:ロード・奥羽とキユラ・奥羽と六郎佐

「お館様、火急の件でございます」
午後、第二師団皇帝拝謁の立会いを終えて帰宅し、湯浴みを終えて寛いでいた奥羽の足元、壁を隔てた奥庭に密偵がいた。その私室には彼一人、そして壁の向こうも恐らくは、ひとり。
「五郎佐か」
シージップ邸に送り込んである密偵。表向きは彼の膳所に勤める下男のゴローだが、何代も渡って奥羽家に仕える生え抜きの一人。隠密行動を生業とするその一族は住む国を滅ぼされ追われ、その血族ごと先々代が引き取り、養い育てて各地各家にと散らばらせた。蒔いた種は確実に根を張り芽吹き、今ではエルデスで最も広く信頼できる情報網であり、奥羽を支える柱の一つと言える。
「シージップ、アトル皇子の後見となりました」
「ほう」
落ち着いた相槌。だが手に取っていた杯が、ゴトン、と荒々しく盆に戻され、彼の動揺を代弁する。
「アトル皇子が王の象具を手に入れ、シージップに後見を求め、宰相もそれを受けました。宰相はアトル皇子の擁立を目指す所存」
冷静でいられるわけがなかった。が、
「他には?」
「以上でございます」
「……よし、去れ」
声だけは落ち着いたままで、強い自制。
「アトル皇子が……あの皇子がアーシェント王の資格を得ただと? そして、皇帝となる?」
密偵の気配が消えたのを感じ取ってから、彼はらしくない程に動揺している声を発する。伝説の象具の事は知っていた。その為に多くの密偵を放ち、その在処も持ち主も探していたのだから。アーシェント王家が護り、それを手にする者に世界を制する力を与えるという象具、王の力を象徴する器。それを求め、エルデス皇帝がアーシェントを攻めてついには滅ぼしてしまったが入手できていない。生きた象具と目されたアーシェント姫も「ハズレ」で、長く行方の知れなかったもの、正体さえも分からなかったそれを、まさかそれをあの皇子、宮殿で殺されるのを待つだけの先帝の息子、アーシェントの血を引くとはいえ、直系ともいえない傾いた男が手に入れるなどと誰が予想しただろう。
「やはり、早めになんとかしておくべきだったのか……」
後悔。だが
――シージップが後ろに着いたとて、そう簡単に、愚直に動くとは思えんぞ。あれは何より、血を嫌う。
内戦にはなるまい。民を愛すると公言する宰相が口火を切ることはないし、勝算のない挑発もするまい。なら、奪う手筈は取れるだろうか。
「いや、それだけが手段ではないはずだ」
クロトン擁立をめぐり、バードルとシージップに結託の気配が見えたとき、彼は先を見据えて娘の一人シェラを送りこんだ。そして目論見通り、彼女が彼の子を身ごもったことでさらに立場は強まろうとしている。アーシェント・祥子とトキヤ皇子を後見するバードルとは近い将来、あいまみえる可能性があるが、相変わらずあの掴み所のない宰相はその間で何を考えているのか。
「シージップは……敵にはできんな」
ニヤと笑う。確かにその通りだ。アトルがその力でエルデスを御するか、いやその前に、第二師団というさらなる武器を手にしたクロトンが兄を排除してしまうか。
――これが知れれば、バードルは確実にアトル皇子を排斥するはずだ。そして奴の象具を、トキヤに。
トキヤが象具を手にすれば、まさしくそれは、名実ともに「世界の支配」。幼児であるうちに手の内にすれば傀儡としても役に立つだろう。それを見越してバードル・ダブスは、アーシェント・祥子とトキヤ皇子の後見に入った。若く男盛りで幾人かの妻や愛人を持つが、子ができない彼にとって、それが持て得る限りの最大解であることに同情する。これから先に子をなす可能性はまだあるとはいえ、現状では何も出来ない。
「シェラが男子を産めば、その子が世継ぎとならねばならんしな」
アーシェントはいずれ不要。だが、世界をエルデスを完全に制するための道具にはなる。つまり、消すにはまだ早い。が、このままにもできない。どうすれば?
「……そうだな、後添いは何とでもなる」
エルデスの貴族の娘達や未亡人はまだ何人かいる、侍従の血縁や侍女でもこの際構わないだろう。女が若ければいくらでも子供は望め、子供さえ取れればそれで良い。そうできるだけの権力と能力が自分の手にはあるのだし、自らの力を維持するのは、何も金と名誉だけではない、忌日の度に引き籠もって一人の亡き妻に操を護るらしいシージップと、子を望めど産ませられないバードル。始めから勝負はついている。
「六郎!」
「は」
呼んだ下男は、きちんと傍に控え、彼はその姿を見下ろす。
(そういえば、こやつの女装は確かに素晴らしかったな)
亡き父が囲い育てて毎夜のようにはべらせて楽しみ、今も身分相応に男女問わず淫らな関係が絶えない穢れた下男。だが蔑む一方で、あれほどの女があれば自分も、とふと思う。
「ご用命を、御主人様」
彼のくぐもるような低い声で現実に引き戻ると、
――ふさわしい嫁ぎ先、かもしれん
どちらに政局が転び最悪なことになったとしても、シェラとキユラ、どちらかが次代の皇母となれれば、事は成る。娘を持ったときからこの事は覚悟し、また、その為に産ませた娘たちでもあるのだと改めて
「……キユラを呼んできてくれ」
彼の決断は早かった。

「いや! 私どこにも行きたくない! ここにいたい!」
父からの命令を聞いた彼女の第一声は悲鳴に近い懇願だった。
「キユラ、お前の為を思って言っておるのだぞ! エルデスの皇子に嫁ぐ、これ以上の女の誉れがあろうか!」
「私のためなんかじゃないわ! お父様のご名誉の為よ!」
――パァン
いつもは静かなはずの彼の居室に、平手打ちの音が響く。何が起きたのか良く判らないまま打たれた頬をかばうキユラと、その娘を見下ろす父。
「……いいかげんにしなさい。何度も言ってきたはずだ。お前は奥羽家の娘であり、しかるべき相手に嫁ぐのだと」
「……」
「そのしかるべき相手に、私はエルデスの皇子を選んでやったのだぞ? 何が不満だ!」
「……」
豹変、といっていい父の言葉。娘は呆然と立ち尽くす。
「これから先、この国を支えていくべき人として、アトル皇子にかかる責が重くなってゆくのは判るだろう? だからこそ、そなたがその方に嫁ぎ、未来のエルデスを共に担うのが、私が考えてやったそなたの行くべき道だ、違うか?」
「……お父様……」
「シェラは皇帝陛下に嫁ぎ、今は後継ぎとなるお子を身ごもっている、己の役目を果たしておるだろう? 女はしかるべき家に嫁ぎ、跡取りの子を産んでこその一人前だ、己の立場をわきまえず、どうするというのだ? 判らんか!」
姫はその頬をそっとなぞり
「今まで……こんなこと、無かった……」
「そなたを思うからだ」
ぴしゃりと父。
「だって……痛い……」
「人を殴る時、殴る手もまた痛むのだ、それが心と言うものだ、判れとあれほど言うたであろう!」
父の講釈にも納得がいかないらしい。その言葉に出せない不満が瞳から溢れ、ゆっくりと、だがダラダラとその頬を伝っていく。
「……お父様……こわい……ごめんなさい、だから、ぶたないで……」
鼻の奥が熱くなったのだろう、口を大きくゆがませて、ひっく、ひっく、としゃくりあげはじめる。こうして見ると、情けないほどに幼いままで器量もない娘は頼りなく、はたして本当にあの皇子の妻としてふさわしい女と言えるだろうか?
――三権者の娘を正室に迎えるのだ、皇子が断ることはできまい
顔立ちは姉たちに遠く及ばず、都市の女性の中でも下になるだろう程にに劣り、知性も教養も品性も身につかず、人の心が判らず我儘で子供のままの娘。だが、奥羽の娘である、という事実のある限り、やはり今彼女が嫁ぐべきは、その相手しかいない。
「良いな? キユラ、判ったな?」
娘は力無く頷き、
「……そのかわり……お願いを聞いてください、お父様」
「お前が言う事を聞くなら、何なりと叶えてやるぞ」
それでも彼にとって、末娘が愛しい事に間違いは無かった。

 六郎佐は、その場にあっても落ち着いていた。主人の命令で湯浴みをし、薄い上質の綾を羽織り、決められた部屋、中央に褥だけが置かれたその奥の小部屋で待つようにと言われても何らの戸惑いも見せてはいない。
――また、か……
他人事のような、溜息。かつて、毎夜がそうだった。辟易するほどに、多くの見知らぬ老若男女が自分を通り過ぎ、それを代価に主人は多くの益を得てきているのだから。肌に傷をつけぬよう外への任務が少ない理由、幼い頃からその技を徹底的に仕込まれてきた理由、全ては、先代奥羽が抱いた愚かな嫉妬と歪んだ恋の結果に他ならない。ただ、その人の子に生まれたというだけで、その人がその人の子を産んだというただそれだけの理由で、自分は何もできぬままに追われ、ここに囲われ、そのためだけに育てられた。欲望を満たすだけの器として。その先代亡き後、彼は奥羽夫人の情夫となり、彼女亡き後は過去を知る密偵たちや欲望に乾いた下男、下女、侍従、侍女、奥羽屋敷にいる誰もが折を見て、はけ口にする。今の主人も必要とあれば、自分をこうして差出し、贄にするだろうことは判っていた。
――どこまで、自分は堕ちていけば気が済むのだろう
純真な独楽や奔放なスグリムが羨ましい、いつもそう思っていた。籠に捕らえられ、弄ばれるだけ辱められて朽ちていくだけだろう自分には遠い世界、自由で明るく光あふれる世界に彼らはいるのだと、自分は決してそこへ行くことはないのだと、強い劣等感が支配する。
「哀しそう、六郎」
ふと入ってきた人影。昼の光の中、女性が立っている、が、その声は覚えあるものだった。逆光で影だけにあるが、彼女は……何も身に着けてはいない。
「六郎、私も悲しいのよ」
近づいてきた相手、意外とも言える相手に六郎は身を硬くした。
「……どういうことです?」
キユラがそこに居た。惜しげもなく身体をさらし、問に答えず、彼女はそのまま歩み寄ると六郎の頬を両手に抱き、その顔を覗き込んだ。
「お父様に私がお願いしました。六郎を私にもらう、って」
まだ育ちきっていない、子供のままの針金のような体つきの少女が、張りのある肌そのままに視界に飛び込んでくる。
「私、六郎の主人なのよ」
――だから?
「……六郎、私は、初めての相手は、六郎でないといや」
「姫……」
――冗談を……
冷めていく心が判っていた。その反応をどう見たのだろう、
「私、アトル皇子に嫁ぐの。知らない人の妻になって、その人の子供を産むの。……それが、奥羽の女のするべき事だから……。でもね、私は六郎が好き。六郎でなくちゃ、いや……」
静かに身体をあずけ、抱きしめろ、と態度が言う。だが、彼の腕は動きそうになかった。
「それで、ここに?」
「主人には逆らわないでしょ? お父様が反対したくても、六郎は私の侍従士になったのだもの、誰も反対できないわ」
我ながら良い案だと思っているのだろう。下男が侍従士となるのは異例であり、必ず噂の的になる。何も考えない娘の天然と、婚姻を公にしたい父の計算が見事に嵌まったというところか。
――愚かな……
かつて自分の母親が同じ事を言って、同じ部屋で同じ男に何をしたのか、彼女は知らない。いや、知らぬ方が良い。
「六郎、私を……六郎以外の人からは……いや」
薄い布を通し、彼女の身体が当たり、その線が判る。無防備な少女はゆっくりと足を開いて腰掛けたままの彼にまたがるが、
「……姫、人は、ものではありません。心を持っています。」
されるまま、彼は動かなかった。
「そんな話、しないで」
細い腕が首に回り、黒髪にもぐりこむ。息がかかるほどに近づき、
「六郎、好きよ」
近づく唇。
――六郎、好きよ。
咄嗟に走ったのは、彼女の母の声とその感触。避けようとした彼と、さらに近づこうとした彼女の重みで、ドサッと二人は白い海に倒れこんだ。狙いが外れたキユラは不満げにそのまま腕を抜き、それでも覆いかぶさるとじっと見つめ、年不相応な顔で
「……六郎、これは命令よ。逆らうのは許さないから」
その手が、綾紐にかかる。
「これでもね、女官たちからは色々と聞いてるの。それなりに、知ってるんですからねっ」
無理をする子供の口調。
――何もご存じないでしょうに。
呆れた彼はされるまま、その綾が解かれていく。
「本当に六郎は綺麗なのね……」
血のなせる業なのだろうか、彼女は母と全く同じ台詞を同じ響きで唱え、同じ髪の匂いに肌の臭い。湧き上がる嫌悪感と吐き気。視界は天井の組模様だけをとらえ、感覚が冷えていく。
「……」
ふと、相手の動きが止まる。声もなく、何もなく。
「?」
ゆっくりと六郎佐が視線で追うと、彼女がそのまま固まっているのが見えた。
「……姫……」
始めて見る、男というもの。慣れている六郎に彼女が魅力的に映るはずもなく、萎えたままの彼を前にどうして良いのかが判らないのだろう。
「ですから、人は、心を持っていると申し上げたのですよ」
苦笑。
「な、何よ! 知らないわよ、こんなの!」
離れ、キユラは拗ねるようにして正座。六郎はゆったりと身を起こし、同じように座すると向かい合い
「そういう事は、お互いがお互いに望んでこそ意味があるのです」
独楽と華奈、スグリムと碧のように。まぶしいとさえ思う、それぞれの相手を思いやる心の形と繋がり方。自分で言っておきながら、最も自分にふさわしくない言葉、自分が言ってはならない言葉じゃないか、と自嘲が口元に漏れていく。
「んもう! 何? なにかおかしいの?」
「いえ、何でもありません」
「だめ! 何を考えたの? 何を笑ったの? お前、いま笑っているでしょう?」
不満溢れる姫のそれに押されて、自嘲が今度は嗤いに変わっていく。
「お前は私のものよ、私はお前の主人なのよ、隠し事はだめ!」
「ああ、申し訳ありません……姫様が……あまりに可愛らしいので」
咄嗟に嘘を出せるのは長年の経験がなせる技。
「六郎!」
正座のまま全身が真っ赤になった少女は名前を言うので精一杯らしい。
「姫様、私が姫様のものとなったこと、承知いたしました。ですが、だからといって、心までもが思い通りになる、とは違います。どうか、それを忘れないでいただけませんか?」
「馬鹿にしてるの? 子供だと思っているんでしょ?」
いいえ、と即座に頭を振り、
「私の主人となられる方が、そう愚かな方であるはずがない、と申し上げているのです」
「……判らないわ、お前の言ってること」
ますます拗ねる、相手。
「あのね、六郎。私は、私はね……ただ――」
「私を好きとおっしゃってくださったこと、嬉しく思います、姫」
かぶせて、偽りの微笑みと心にも無い世辞。が、彼女はまるで花開くかのように広がるいつもの笑顔で
「うれしい? 本当に? 六郎は私のこと、好きなの? 好きよね?」
らしいといえば、らしいのだろう。憐れみと蔑みがとまらない。
「主人を好きと言わずして、侍従士は務まりますでしょうか?」
さりげない嫌味でさえも、彼女には甘美な言葉に聞こえるのか
「ああ! 六郎! お前は一生、私のものよ! 離さないからね!」
飛び掛るようにしてその膝にある彼の両手を取ると、
「六郎、屋敷を出るときは、お前も一緒よ! ずっと一緒、これは命令! 私の側にいなさい!」
――屋敷を、出る?
「私がアトル様のお屋敷に移る時にも、もちろんお前を連れて行くわ! お父様は絶対に約束を守ってくださるもの、だから、ずっと一緒なのよ!」
無邪気な姫の言葉。それは永きにわたる呪縛に差し込んだ光。六郎は姫からさらに距離をとって離れると、瞬時に床に降り傅いて深く頭を下げ、
「キユラ様、私は貴方のもの、どこまでもついてまいります。常に、御傍に置かれますことを」
――なら、出していただきましょう。貴方に。
浮かぶ、恐ろしいまでに冷たい笑み。
「六郎、私、あきらめてないからね。初めては、絶対、お前なんだから!」
今日は退散する気になったらしい。恐らく、彼を服従させられただけで満足なのだろう。
――私にその気はありませんよ、キユラ
耐えてきた日々。いかな美女を前にしても、自分自身を制御することは慣れれば容易い。無知にひたすらに自分を好きだと言いつづけている少女を生涯女として扱うことは無いだろう事、今ここで何も知らない彼女を騙すことに、罪悪のかけらもなかった。
――貴方が悪いのではありません。ただ、貴方の祖父と、母と、父と、この屋敷全てが、許せないだけです
渦巻く彼の横を、姫はゆっくりと通り過ぎ、
「着せなさい、六郎」
向けられた背中。その態度は名家の娘、奥羽の姫のもの。
「はい、姫様」
下男はすぐに、言われるまま、きびきびと『仕事』へと戻り、傍にかけらていた煌びやかな白綾を手に取った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?