恐竜元年:始まってからの二日間の物語
09:ダブ・バードルとエルーメラとミササギ
「いかんな……」
アトル皇子が奥羽の末娘を正室に迎える、この話が伝わったのは夜半の事だった。持てる手段の全てを使って皇位への干渉を明言する奥羽に対して、愛人も妻も多くあるにもかかわらず、手駒とも言える子供を望めども望めない自分は一歩も二歩も遅れを取っていると言って良い。
「世継ぎはトキヤ様だ、どうあっても」
後見するアーシェントの遺児。アーシェントの呪いによって皇家が危機になったのだと公言した自分がその子を擁立した理由。風見鶏と揶揄されようとも、あの子供が成人するまでこの均衡を破られるわけには行かない。だが、一つだけ救いがあるなら、アトル皇子もまたアーシェントの血を引く、ということだろう。アーシェントはアーシェントに危害を与えることが出来ないと聞く。それが真実なら、彼が自らトキヤへ危害を加えることは恐らくできないだろう。それでなくとも、鷹揚として気鋭に欠くあの皇子では実力行使など考えられない。
「かと言って、このままではな……」
奥羽の娘達、二女は現帝の子を身ごもっており、末娘がアトル皇子の子を成すとなれば、どちらに政局が転んでも奥羽には有利なのだ。面白い話ではない。だが、その奥羽の真の弱点、喉元に食らいつくための切り札がこちらには、ある。
「殿……」
そんな悩む彼にしなだれかかり、女はゆったりと話しかけると空になった盃に香り良い酒、希少な棗酒を注ぐ。
「トキヤ様が次の皇帝ですわ……」
情報をもたらしてくれた彼女と、今、まさに彼は逢瀬を楽しんでいた。後見する后に仕える女官の一室、後宮での夜は日増しに回数が増えている。本来であれば不敬といわれるであろう行為も、三権者の一人であり、世継ぎトキヤ皇子の後見である彼には問答無用の事。仕える女官と自然と男女の仲となるのも無理のない話なのだろう。だがそれさえも表向き、その女官がその心の奥底に研ぐ刃、真の力を知る者は、その彼女の故郷を攻め滅ばした彼のみなのだ。
「ああ、そのとおりだな、エル」
肩にかかる豊かな亜麻色の髪に指を滑らせながら
「その為の後見、その為の、お前だ」
ええ、と女は笑いながら彼女は瞳を閉じる。
「トキヤ様のご養育をそろそろ、考えねば……な」
意のままにはならない、かの気高い巫女。アーシェントの純血を持つ高貴な彼女は決して誰にも心開かず、誰のものにもならない。彼女とある限り、幼い皇子もまた、意のままにはならないだろう。彼が物心つくまでには、 必要な手駒となるよう摺りこんでおく必要がある。教育という言葉だけなら、宰相、そして正妃という最適な人材があることは判っているが、それを推すにはまだ根回しが足りない。何を考えているか判らない不気味な兄妹は敵にせず、時が満ち、老いるのを待つのが得策だろう。
「先の長い話だ」
煽る酒の味。媚薬とも思えるような甘さ。喉を通りすぎて鼻の奥に残った後、男は満足げに女の肩を抱き寄せ、女は
「いえ、きっと遠い話ではありませんわ。私が必ずや……」
近づき、耳に届いてくる彼女の言葉。
「全くお前は……」
呆れたように、だが愛しさにあふれた彼が
「どうしてそう……」
見下ろすと艶かしい瞳。
「おまかせくださいませ、殿。すべては殿の思うままに」
「そうか?」
(エルデスを支配することは、この世界を支配する、ということ……もう、これ以上はうんざりですもの……)
互いの脳裏に、互いの切り札がある、二人の思惑は交わり、時間は瞬く間に過ぎて行った。
「おかえりなさいませ」
夜半遅く屋敷へ戻った彼をいつものように侍従と侍従士、下男下女達が迎える。
「変わりないか?」
「はい」
毅然と通り過ぎ、幼いころから主として君臨する屋敷の鱗廊下を抜ける。雨季が終わり、ほとんど雨が降らなった庭は、絶やされることのない竜脂の灯に囲まれた相変わらずの明るさで、ゴロゴロと置かれた岩に開けた地面が広がって乾いた表情をしていた。何も変わらない毎日。これでよいのか?とふと心に影が降りる。先ほど思い描いた未来が絵空事でよいのか?と。
「おかえりなさいませ!」
考え込んだ頭に下宿人たちの声が響く。庭の奥、彼らの部屋のところまで自然を足が向いていたようだ。
「うむ」
自然な主人の呼応。だがふと、今日の主役であった二人がいないことに気づき、
「トゥシとヴァシェは?」
「まだ街に出ておいでです」
答えたのはミササギ。今ではすっかり見慣れた傷跡が生々しく顔を縦に割っており、気にしたくなくとも自然と目が向く。
「そうか。では、夜が明けたら私の部屋へ来るよう伝えてくれ。新しい屋敷の鍵と証文を渡したいのでな」
怒槌家の屋敷は、先日の皇帝への貢ぎを拒否した侍従を解任することで接収した、バードル邸のすぐ隣の小ぶりなものだった。主の命に背き、竜の皮を着せられて壁の外へと放逐された一家一同のことなど、もはや彼の記憶にはない。その名前も顔も思い出せない程に。
「は」
一方のミササギは恭しい礼。
(全く、生まれ変わったように大人しくなったものだな)
元々気性の荒い男であることは承知だったが、雷竜と呼ばれる男と接することで何かの緩衝を得られればと思っていたのは確かだ。彼とヴァシェとの間で起こった悶着は与り知らぬ事とは言え、こうして結果を見るにつけ自分の判断が正しかったのだと思わず自答する。
「頼んだぞ」
つい自負が顔を覗かせて微笑しそうになり、覆い隠すように念を押す。
――そうしていらっしゃると、殿はまるでお子様のよう。威厳なくして兵を率いてはいけませんわよ
ふと心に零れる女の言葉。つい先ほどまでの自分と、今の自分は違う。
――そろそろ……本気で考えるか……
動かねばならない時が近づいている。それもすぐ近くに。そんな予感が静かに首をもたげると少し背筋が震える。
――だがやり方次第だな
あの雷竜と幼いアーシェントはその時の為の力でもある。未来に負ける気はしなかった。
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