恐竜元年:始まってからの二日間の物語

14:タツマと韻

――オハヨウ
いつもの朝、いつもの変わりない竜が機嫌よく隣人に鼻面を寄せる。彼らにとって相手の髪の色がどう変わったとしても、それは何の問題にもならないという事なのだろう。
(おはよう)
食べたばかりの草の香りに包まれた息を頬に受けながら、タツマはそっと顎の下を撫で
「ご機嫌だね」
穏やかに笑う。
――ウン、クサ、オイシイノ、ミズ、オイシイノ
心に満ちてくるひととき。
「……」
そんな彼をどう見るのか、ユェズは
「水、汲んできます」
軽々と桶を持ち上げ、はずれの井戸へと立ち去っていった。昨夜、見事な黒髪、ユェズと同じ色に染まったタツマを見て以来、今まで事務的な事を除いては全く口をきかず黙々としている。
(ユェズ、本当にすまない)
見えなくなる背。あの瞬間、髪を染め姿を偽りたい事を棗(なつ)に頼んだ瞬間に確かにタツマは心を閉ざし、ユェズの心からの叫びと懇願を無視した。力持たないユェズがそれに気づいたのかどうかは判らないが、今までとは違う亀裂、小さなものなのかもしれないが、二人の絆に確実に楔が打ち込まれた、それは判っている。このエルデスにたどり着いてからの日々、多くの人と知り合う一方でユェズとの距離が離れていくのは仕方の無いことなのだろうか。長く二人だけの旅をし、お互い以外は竜しかいなかった頃から遠ざかり、変わっていく自分への戸惑いと後悔と……。
(この気持ちも……恐らくはアーシェトなら持たない心なのだろうな……)
人がそれを「寂しさ」と呼ぶのだ、とふと思う。
「タツマ!」
今では聞き慣れた主の声。
「タツマ、娘から聞いてはいたが……全く、驚かせくれる!」
振り向くと、落ち着きの無い、らしくないような声で韻がこちらに歩み寄っており
「韻様。申し訳ございません」
タツマも思わず自分から走り寄ると礼儀正しく頭を下げ、詫びた。その真摯な態度に溜飲を下げたのか、
「いや、そうならそうと……お前が実はユェズとは兄弟なのだと始めから言っておいてくれれば、こうも驚かなかったものを」
(やはり、そうなのだな?)
ふと揺れるような韻の心が見え
「……」
タツマはそのまま静かに目を伏せる。
「タツマ、ちょっと奥へ来なさい。私にこれ以上の隠し事をしてもらっては困る」
誰もいないはずの庭、ではあるが、その目の配り、確かに韻は誰かを憚っている。
(ロードの密偵……やはりここにもいるか)
判らない単語を発する彼の心の言葉。そこに感じ取る強い警戒に、
「はい」
タツマは大人しく従い、
「タツマ! 韻様!」
戻ってきたものの何事かと戸惑うユェズに、
「ユェズ、私はタツマと話がある、お前は外にいなさい」
かつての将の片鱗に気圧された奴僕は自然と頭を垂れ、了解した事を態度で示すしかなかった。

始めて足を踏み入れるだろう宮廷の一室、近衛第一師団の応接室は磨かれた石の床と壁に飾られた刃の鈍い輝きが包む冷たい静寂に支配されていた。ふと部屋の空気に一瞬の血の匂いを嗅ぎ取りながらも、タツマは静かに韻に従い、正面に座った彼に睨まれるようにしてその指し示す位置へと立つように促され
「偶然とはいえ、アーシェントに似た姿となってしまった事は不運だった、そうだね? タツマ」
誘いうける言葉と鋭い目。
「娘から聞いている。南のよからぬ連中に襲われた、と」
「はい」
「全くの濡れ衣、誤解だという話だが……何があった」
(だいたいの予想はついている。そなたは知らぬだろうけれどもな)
「それは……」
答えに詰まる。その彼の予想が正しいと判るだけに。
「タツマ!」
容赦なく主は口を開く。
「隠し事はするな。私はお前の主だ」
威厳に満ちた言葉。
(そなたは本来であればこのような扱いを受けるべきではないのだろう? だが、ここは……)
同時に裏腹な彼の苦悩もまた、タツマに響く。
(ロードの密偵、奴らに今余計な情報を与えてはならん、なんとしても……判るだろう、お前なら)
国と部下を思う心。今エルデスに自由の身のアーシェントがあるとなれば、何が起こるのか正直判らない。考えてみれば迂闊な話だった。あのスグリムの襲撃があるまで、確かにタツマは気づいていなかった。エルデスがアーシェントを攻めた理由、姉である祥子の境遇の根源と、自分を取り巻いている世界は平和な一方で、張り詰めた糸が巡らされた危険なものでもある、ということを。
「……韻様。旅先で気まぐれに髪を染めたのですが……それで私をアーシェントだと思い込んだ者がおり、その者に命を狙われました。全ては誤解、私はユェズと兄弟で小さな村に生まれ育ち、竜の襲撃から逃れてここまで来ました。これが私の本当の姿です、私はアーシェントではありません、お騒がせご心配をおかけし、大変申し訳ありませんでした」
正し、片膝を折って床に傅くと両手を下腹に当てて深々と頭を下げる。エルデスにおいて、そのもっとも深い謝罪、目上に対する完全服従をも含んだ姿勢は、ここに来てから学んだものだ。ユェズは今日の今日、ついさっきの瞬間まで彼がその態度を取ることを拒んでいたが。彼の態度に大いに満足したらしい主は満足を示して、上げよ、とだけ呟き
「世においてアーシェントの姿を知る者は少ない。彼らは国はおろか、その居城から出ることもない神秘の人々で、皇帝の加護無き者がその姿を見れば、心が狂い死を迎えるからな。いかエルデスとはいえ、その内に彼らが入り込めば、人は無事ではいられまい。耐えられるとするなら、今であれば、アーシェントを攻めた私と、祥子様を知る三権者だけであろう」
含み聞かせている。この部屋に二人以外の他人がいるのかのように。
「だからこそ、私も何も言うべきではない、と黙っていたのだ。実際、お前はエルデスにあって、私の奴僕として働いているし、それで何か不都合が起きたこともない。それが何よりの証拠」
――韻様、アーシェントには呪う力も、狂わせる力もありません。けれど、今なら判っています。人は、そう信じることで、心を保とうとしている。アーシェント無き世界で生き残るために、そう思うことが必要だと。
「とはいえ、あり得ないとはいえ、万が一のことは考えるべきであったし、お前だけを一概に責めることはできんのだよ、正直な所は、な。はじめてお前を見たとき、まさかと思ったのは事実だが、見込み通り、やはり違っていたのだな。心配させる……」
(その祥子様でさえ……人前にその姿を見せたのは先の皇帝陛下の暗殺の詮議の場の一度きりゆえ、アーシェントの直系が本来どのような姿でどのような者であるのかを判っている者はそうそうおらぬ。幸いだった)
――え?
長い溜息。その本当の意味。
(アーシェントは皆、豊かな心を持つ温かで平和を望む人々だった。人を狂わせる、ましてや呪うなど、出来るわけがない。そして何より、あの王、彼は……)
ふと滑り込んでくる、ショウ・韻という武将、アーシェントを攻めた将軍の後悔。
――貴方は……父を知る人なのですね……そして私の故郷を奪い、両親を、一族を殺した……
人であれば「憎しみ」と「恨み」を知っただろう。アーシェントとして純粋すぎるタツマには、その感情が生まれることはなかった。それよりも願いに似た感情、故郷の事、両親の事をもっと知りたい、もっと聞きたい、湧き上がってくる思いをタツマはぐっと飲み込み、
「韻様、私はアーシェントのことは、正直、よく判りません」
その言葉尻と態度に、韻はこの青年とアーシェントには関係がないと確信したのか
「そうだろうな。お前はまだ産まれておらぬやもしれん昔の話だ」
柔らかい返答。
「私は多くの事を知りません」
「知らぬ、ということを知っている、それだけでもそなたは賢いぞ、少なくとも、愚かではない」
「私は、愚かです」
口答え。逆らうことは許されない、判っていてもタツマは譲れず
「この都市に来て、最初に韻様と出会い、こうしてお仕えし、お話をお伺いできることに、私たちに居場所を下さった韻様のご厚意に本当に感謝しています。だからこそ、にもかかわらず、私のとった軽率な……」
呑んだ想いとよく判らない感情たちが言葉を奪い、視線が床へ、透かして大地へと移っていく。
「もう良い、ほれ、顔をあげよ」
今度は素直に従うと
「お前たちは本当に生真面目で気持ち良い兄弟だな。休めと言っても働くし、働けと言えばさらに働くし、従順かと思えばこうして時々、嬉しい逆らい方もする。全く、講義の遅刻に放棄、言い訳三昧で口達者な逃亡常習犯のどこかの誰かに爪の垢を飲ませたいわい」
少し遠くを見る主。タツマの脳裏を、あの落ち着きないどこかの誰かが走り抜け、主人は主人なりに、娘婿の弟をしっかり見ているのだな、と、すっと心が軽くなる。
「聞いてくれるか、タツマ。あやつ、また講義に出ずにほっつき歩きおってな、少し前には下女に無礼を働いたそうなのだ。宰相が私に文句をいうのだぞ、破門させたいが処遇に困る、と」
「蒔殿は、成績が優秀だと伺っておりますが」
「そうなのだ。だから困るのだよ、要領が良いのか何なのか、あれでいて同期では文武並ぶものがおらんのだからな。いっそユェズをあそこに送り込んでやりたいと何度思ったか」
蒔にとって、ユェズは鬼門で一生頭が上がらない存在となっていた。拳ひとつに伸されただけでなく、短期間の間に蒔が学んだ数式や文言、歴史や博学を彼から教わり追いつき、その覚えの良さと機転の速さでしのぐ勢いすらあるのだ。ユェズにやり込められている蒔を見ている棗(なつ)から、その光景が父へと伝わっているのだろう事はすぐに理解できた。この父娘は本当に仲が良い。
「タツマ、お前はその髪の色の方がずっと自然だぞ。あの紅い色はもういいだろう……?」
あった屈託のない視線に、先ほどの威厳はもうない。
「韻様……」
ほぐれた空気。冷厳に感じたこの部屋だったが、くりぬき窓から飛び込む日差しさえも優しくなる。
「お前は働き者だし、とても誠実で礼儀正しく、何より品性が高く見所がある、頑固なところが玉に傷だが。ユェズは人見知りが激しいが根は素直で機転も良く回り、心身ともに頼もしい。この半年のお前たちを見て来て、あの時、召し抱えてよかったと心から思っているのだよ」
「恐れ入ります」
話は終わり、なのだろう。と、タツマが呼吸を置いた矢先
「さて、では、私からの本題だ」
軽く咳払いした主。
「近々、大きな特別祭礼が予定されると、宰相殿より話があってな、忙しくなりそうなのだ」
「それは……」
「まだハッキリとは聞いておらぬが、宰相殿が陛下から『吉日の星見』の令を賜ったそうだ。詳しくは改めて陛下より詔が出るであろうな。どちらにせよ、我々は近衛師団、特別祭礼となればいつものようにはいくまい」
「大役を担われる、と」
「間違いなくな」
誇らしげな主の答え。
「そこで、だ、なにかと段取りもあるだろうし、忙しくなるだろうから、手が足りんのだ。良い機会だし宮廷での色々を覚えてもらう上でも、早めにと思ってな」
「早めに?」
「タツマ、お前は明日から、私の侍従として仕えなさい。竜はユェズに預けるんだ」
「え?」
風雲急。下男も侍従士も通り越し、主の権限を代行することも許される、右腕としての立場。かつての蒔(まき)の兄の地位に、奴僕の自分がつくということがどういうことなのか。
「反論は許さん、判っているだろう?」
視線が語る無言の圧力。主に逆らうことは決して許されない。
「下宿も引き払い、私の屋敷に来なさい。今夜、迎えをよこすから待っているように。ここに来る前に娘に話はしておいた。屋敷でもハセとベナートが、お前なら務められるだろうと諸手で賛成しおって、すでに根回しをはじめておる。私は何も命じておらぬのにな」
「……」
「良き友に恵まれること、またこれも一つの才。纏(まと)亡き後、なかなかこれという者がおらんかったのだが、お前なら間違いなかろう。さすがに侍従なしでは色々と不都合が増えてきている、一層働いてもらいたい」
「……」
沈黙でしか、答えられない。さっきまでの柔らかな空気が凍り、暗く堅く、そして
「判ったな、頼んだぞ」
何かが割れる音、あの小さかった楔から何かが大きく壊れていく音がはっきりとタツマに響いていた。

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