恐竜元年:始まってからの二日間の物語

10:タツマとユェズと棗(なつ)

「戻りました」
疲れた声で戸口を空けたタツマ以下三人を
「おかえりなさいまし」
と足音も無く、即答の棗(なつ)が出迎える。表情は暗がりで見えないが、板の間の玄関で帰りを待っていてくれたのだろう。
「あまり遅いので心配しておりました」
「その心配が取り越し苦労でなかったって所がなんともなぁ……」
ぼそと蒔が答え、あら、と棗(なつ)が反応する前に
「あ、でも大丈夫! 全く大丈夫ですよ、棗(なつ)さん! 誰も怪我していないし、返り討ちにしてきましたから!」
誤魔化すように急ぎ付け加え、気の利いた弁解ができているようで出来ていないのが彼らしい。
「蒔(まき)とユェズのおかげです。全くの言いがかりでしたから……もう、大丈夫です」
タツマはそう答え、
(大丈夫、きっと)
自分に強く言い聞かせていた。
「よかった……」
女の安堵を感じる。何か予感でもあったのだろう彼女が胸をなでおろしているのが良く判った。
「蒔(まき)さん、有難う。お風呂を沸かしておきましたから汗を流してくださいな」
女主人の気遣い。名を呼んでねぎらった上に一番風呂をさりげなく彼に譲るところは、何かと一番をとりたがる彼の気性をよく理解している。
「いやぁ有難いっ!」
嬉々と蒔は走るように駆け出すと、
「悪いな、タツマ、ユェズ、先に行ってくるわ!」
とバタバタを音をたてて奥へと消えた。
「あいかわらず落ち着きがないなぁ」
疲れた息のユェズ。
「いつものことですわ」
棗(なつ)も弟を見守る姉のよう。だが、そんな和やかな空気にあっても、タツマは重い。
「……棗(なつ)さん」
ゆったりとした声に、棗(なつ)が何でしょう?と返すと
「私の髪を……染めてもらえませんか?」
――!
灯りがあれば、ユェズがどんな表情をしているのかすぐに判っただろう。
「タツマさんの髪を?」
もったいない、とでも言いたげな彼女の言葉に
「ええ。この紅い色……この色がそもそもの原因、ですから」
――違うでしょう!
叫びを喉に呑み、
「染めてどうなるというのです? タツマ?」
精一杯の抵抗。それだけ大きな動揺と怒りと抑えきれないものがあるのだろう、思わず出ている、主従の言葉尻。ユェズの素直な性質は時に迂闊なことになる。護られている自分ではあるが、同時に、そんな彼を、彼らを護る自分でもあるべきなのだ。
「少なくとも今日のように、あらぬ疑いと争いごとに巻き込まれなくて済む。まだ今なら」
――アーシェントであることが、そんなにも重荷だとおっしゃるのですか!
ユェズの怒りの感情が容赦なく突き刺さる。
――その姿さえも捨てるとおっしゃるのですか! 皇子!
この痛み。他人の感情によって受ける激しい心の痛みをユェズが知る事ができたなら、こんな言い方を自分にするまい。力持たない者の言葉が、力持つ者にとってこんなにも恐ろしい凶器となっているのだと知ったら、彼はどうするのだろう?
「お願いします」
纏わり付く想いを振り払い、タツマはまっすぐに暗闇で表情の見えない彼女の輪郭を見つめ、あえて叫びを無視する。
(ユェズ、すまない、堪えてほしい)
心の隅で深い贖罪。今ここでユェズに心を向けてしまえば、恐らくは自分の力、強い決意を秘めた力が、力なきアーシェントの精神そのものをズタズタに引き裂く危険がある、そう思える。
「……判りました。父にはなんと?」
――事情がありそうね。本当は勝手はダメなのよ。お父様への言い訳、考えておかないと
主人の命無くしての奴僕の勝手な行動は御法度であるが、娘である彼女の「決め事」であれば、多少の無理も利く。そして韻家において、彼女には父と同等の裁量も任されているのだ。貴族の姫、一人娘からすれば、奴僕の髪の色など感情の一つ、感性の一つでなんとでもなるだろう。
「戻した、と」
――そうね、それでいいと思うわ
「ええ、ようございます。では、私の一存で、タツマさんの髪を『戻し』ますね」
姿を偽りたい、という彼の願いを、いともあっさりと彼女は汲み取っていた。
「はい。ありがとうございます」
どういたしまして、と彼女の明るい声。
――嬉しいわ 私を頼ってくれるなんて!
痛みごと包み込んでくる優しく暖かい感情。人に頼られた、という事実が彼女をここまで喜ばせているらしい。
(人と人が助け合う、こんな簡単なことがどうしてアーシェントには凶器なのだと言うのだろう)
幼いころ大ユェズが自分に繰り返していた言葉。
――皇子、人に心を開くことは、アーシェントにとって恐ろしい毒となります。時にそれは媚薬となり癒薬となるやもしれませぬが、それゆえにまた、蝕む毒でもあるのです。どうか、それを、お忘れなきように。
今自分に満ちている穏やかな想い。これが毒となるというのだろうか。
(いや、もう、それは、いいんだ)
自分はアーシェントを捨てる、と誓っていた。今更何も躊躇うことはない。
「……タツマ……」
悲痛なユェズの聞こえない叫びが聞こえる。
「ユェズ、今日のようなことは、もうあっちゃならない。ひいては韻様、棗(なつ)さんや蒔(まき)にも迷惑がかかるかもしれないんだ」
「……」
(判ってくれ)
悲痛に近い願い。
――貴方の望むままに……アーシェントの王よ
不意に形無き手が心に触れ、癒しの光が振る。先ほどまでの痛みがかき消え、その背中を優しく押された途端、追立てられて震えていたはずの自分が再びを背を伸ばし、行こうと決めた「人として生きる」道を歩き出した。
(今のは?)
誰なのか。ただ、記憶の片隅にすでにあった存在、近くにある同族の感覚が刻まれている。優しく暖かく柔らかく、背中どころか自分の心ごと包んだ一瞬の邂逅。いや、再会、なのかもしれないが。
(姉上?)
もし、まだ世にアーシェントの巫女がいるなら、きっと、そう自分に答え、背中を押してくれた。タツマにはそれが判っていた。

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