恐竜元年:始まりの三日間の物語

20:アトルと竜子(りこ)

「全く、アーシェントがいるのかと思った……。」
朝から韻の新しい奴僕をからかったつもりだったが、驚きの方が大きい。出会った奴僕、タツマという名の男は、どこかしら不思議な雰囲気をもつ、そう、あのアーシェントの巫女姫にとても似ている。
(まさか、ね)
そう思いながら、微かな苦笑。
(あのような低い身分の王族などいるわけがない。王族が皮を着るなど屈辱で耐えられない事だ。あれはきっと偶然だ)
「……っと!」
揺れる枝が油断した顔を掠め、気を戻した青年は柔らかな仕草でその細い葉を払うと、その先にあるだろう泉をめざす。入口からさほど距離のないここは、まだ明るい光が木々の隙間から降ってきて見通しもあり、わずかだか風も感じる。都市を見守る森、丘を越えた向こうにある巨木の世界は今日も静かにそこにあって自分を取り囲んでいた。肺に吸い込む丸い空気は少し湿気を伴い、生命の重みと臭いが蒸せる。こんなにも濃い草木の息吹を都市で知ることは無いだろう。歩き続けながら、時折小さな何か、おそらく虫の類、が当たるたびに思わず頬を撫で、
――かさり
乾いた音。ゆっくりと頭だけを巡らせてそちらを見ると、幹の間から、円らな瞳が覗いているのが判った。両端の瞳を抱え、草と森の色に同化した皮膚が手前に伸び、その先にある小さな縦の鼻の孔。その生き物は、穏やかな空気をもって、相手はこちらを見ている。
(《狩人》(ラプトル)!)
狩られるのか、と一瞬肝が冷えたが、なぜか、そう思わない。
――ふしゅうぅ
溜息なのだろうか、それとも、挨拶なのか。視線を外さないまま、その獣脚竜はゆっくりと息をひとつして、首を垂れたまま器用に後ろに歩き奥へと消える。とたん、ガサバサと周りが動き、この時、はじめて自分が彼らの群に囲まれていたことを知り、戦慄、と同時に、朝の夢が現実なのだと自覚した。ここに来るまでにも、途中、朝の空腹を抱え身体が温まった《暴君》(レックス)や《双瘤》(ケラトサウルス)といった「人を食う」竜たちに出会っていた。それも、さっきと同じように、突然に、だ。だが、いつものなら襲い掛かってくる飢えた猛竜が、今日は何故か自分を食おうともせずにどこかへ行ってしまうのだ。視界に入っているだろう自分を獲物と認識していないらしい。彼らにとって今の自分は樹木や石ころと同じなのだろうか。
「どういうことだろう……」
独り言に答える者は無い。歯朶葉(シダ)の葉擦は自分の歩いてきた道を隠しながら揺れて、何かが甲高く通る一声で鳴いたが、その位置はかなり離れている。前にも後ろにも道なき道、だが足は止まることなく引かれるように規則正しく動く。
「あの泉……なぜだろう、位置がわかってる気がする」
真っ直ぐに自分の思う方向へと進む。木々の向こうに空は続き、降る光が遮られつつ弱まるとますます深くなる森、高さを失いはじめる若い植物の茂み。柔らかな低い緑をさらに掻き分けるように歩くと、目の前を小さな恐竜達が怯えるように走り、枝を渡る毛玉のような小さな生き物、薄い羽を広げる大きな昆虫たち、足下を避けていく長い虫、そして……。
「……あれか」
ついに辿り着いたその場所、一周りはとても小さいだろう、恐らくは湧水、もしかするとこの地の水源かもしれない小さな泉に、確かに、目指すその子供がいた。一頭の巨大なトリケラトプスの背に、蒼い髪をたなびかせる少女。年の頃なら十あるかないかといったところで、よく見ると紅の瞳が美しい。その彼女を囲むように、それは信じられない数の大小取り混ぜた恐竜、動物、昆虫達が自分を見上げ、見下ろし、取り巻いている。これだけの数の生き物がまだこの森に居て、暮らしていた。人の手によって、家畜となる竜は拉致され、危険とされた竜が殺され、もうどれくらいの恐竜が残っているのだろうかと危惧されていたはずの生き物たちが、人が入らぬ森の奥深くに逃れて彼女と共に生きていた。
「む……」
この光景を、何と言えば良いのだろう。さすがに彼もちょっと怯んだが、すぐに背を伸ばし
「私を呼んだのは……あなたですね?」
相手はそっと頷く。緊張した身体で、彼が一歩動く途端、小さな恐竜たちは無言ですぐさまに姿を隠し、大きな者達はじっと彼を見据える。
「……」
小さな人間は大きく一呼吸。その固くなった肩から力が抜けていくと同時に、大きな恐竜たちがゆっくりと踵を返し、思い思いの場所へと戻り始めた。その空気、動いていく風と土と動物の匂いが、彼らの大きさと自分のちっぽけさを改めて教える。
「お出迎え……有難う」
自然と礼がこぼれる所が彼らしい。その反応に満足したのか、少女は角竜の背から軽くふわりと草地に降り立ってゆっくりと視線を来訪者に向け、無言のままだった。
「私を呼んだのは……貴方ですか?」
答える代りなのだろうか、彼女が小さなその手を伸ばすと、思わず走り寄った若者はその手を取った。
――そうよ!
触れた瞬間、その瞬間で彼を取り巻くのは森でもなければ恐竜でもなく、何も無い闇と、目の前の青く小さな一つの宝球が浮かぶ世界。白い微かな帯を纏う美しい瑠璃色をしたそれは所々に緑色や茶色の模様を描き、彼の目の前で規則正しくゆっくりと回っていた。
「……美しい……」
鷹揚な彼らしさなのか、周りの激変に驚くことなく目の前にある石に心惹かれ、そのままずっと眺めていたい、そんな優しい思いで心が一杯になっているようだ。が、刹那、宝石に向かい、小さな光が走り寄ると吸い込まれるように消え、最初の一滴だった光が数個に増え、次第に数を増やしながら波を描いてその表面を蔽い
「何が?」
光に包まれた青い石はその靄が晴れた後には濃灰赤色に変わる。輝きを失い恐らくは死に絶えたかのようなそれを、その理由が判らないままに彼は思わず両手に引き寄せていた。胸に抱きしめる小さな宝玉。心臓くらいの大きさをもつ宝珠は微かなぬくもりを抱き、息遣いまでもが聞こえそうだ。アトルには正体も判らぬそれが何故か愛おしく、その変わり果てた姿に胸が詰まり張り裂けそうになるような哀しみさえ覚える。
――?
途端、その腕の中、灰色の石がゆっくりと光りながら形を変えはじめた。彼の手の中から横に伸び、形をなしながら、遂には、
「剣!」
気が付くと森の中だった。泉には誰も何もいない。さっきまでの体験は、現実なのか、夢なのか? 若者はもう一度その剣を見、
「いや、私はわかっている」
気配を感じて振り向くと、下草の向こう、確かに彼女がいた。そう、竜子(りこ)。謎の子、竜の子、蒼い少女と人が噂する、森の神秘の子供。
「それを、あなたに託すわ」
その声は人ではない。本能でそう気づく。
「なぜ、私なのです?」
「その答えは、あなたが探して」
若者は返答に困った。
「あなたは……誰なのです? 何なのです?」
答えない相手はそのまま背を向け、恐竜達の待つ森へ消える。
「待っ……」
「その剣を託したら……もう、私は止めない。」
「!」
「人の群れの主の子よ、あなたにそれを託すわ」
心に響く声は自分を知っている。
「いかにも……私はエルデスの皇子、アトル・アトリウム……アトリウム妃の息子、エルデスの皇子……!」
汗ばむ手の中の古びた剣をそっと握り直し、重さを知り、確かにそれが現実だと、もう一度、深く息をする。
「……あの夢のとおり……」
もはや秩序の無い宮廷に身を置くことにさえ嫌悪を覚えている自分がここに導かれたのは偶然ではないのだろう。
「しかし……私は……。何を……何を私に望むのです?」
膝から崩れ、うずくまるような彼に森は答えない。
「これは、いったい何なんですか!」
遠い叫び、恐竜達の嘆きに似た彼の叫びは、木々の呼吸へと掻き消えていた。


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