「私」の存在価値
やあ、おかえりなさい。
突然だが、「存在」とはなんだろうか?
有り体に言えば、この世界に生命を持ち続けている生き物や、認知されている物質に充てられる「認識化されているもの」と言ったところだ。そこに在ることそのものが存在である。
しかし私は疑問に思う。
「存在自体がヒト特有の物差しなのでは?」と。
ヒトという生き物は存在に対し、それに加えて価値を見出そうとする。
ヒトの個性や功績、物質の有用性や利便性等。
おそらく他の生き物には無い、ヒトの習性ではないかと思っている。何故かって?生きていく上での思考時間や思考高度が多く、高いからだ。
他の生き物は我々が想像しているよりはるかに生きることに必死なのだ。
まあ、ヒト以外で生きた記憶は無いがね?
難解な前置きだが、しっかり本題に繋げよう。
「自分自身の存在価値」
今までの人生で考えた者も多いのではないだろうか?物心つく頃には当たり前のように存在し、当たり前のように食事をし、当たり前に通勤・通学をしている。
そんな私とはなんなんだろうか?とね。
私自身、これをよく考えてしまう。
今まで裏切られてきたことも多いし、私という人間を蔑ろにされてきた事もあった。それらに付随して不自由な自分が周りに迷惑をかけっぱなしな時は、私という存在価値を見い出せなくなった。
私という存在に価値が無いのならこの世界をあとにしても誰も何も言わないし、なんなら気づかないだろう。
そこまで考える時期もあった。
それ故にSNS、連絡手段を定期的にリセットする癖があったくらいだ。今ではこんな症候群があるらしいが。
それでも付いてくるような、私の存在を認めてくれるような人間に依存しているのかもしれない。
しかし、最近になって気づいた。
「私の存在価値」を決めるのは私ではないなと。
意外と、自分で自分の存在価値は見えないものだと思ったのだ。
非常に仲良くさせて頂いている友人に私の事を訊いた時、本当に面白いもので自分では分かっていなかった長所や価値を教えてくれる事がどんどん出てくる。非常に驚いた。
自分で自分の姿を見るには何かに自らを映すしかない。鏡で自らを確認するように、内面も誰かに投影して貰わなければ見えないのだ。
つまり何が言いたいかって?
「考え込み過ぎないこと」だ。
自分に対して存在価値を考えてしまうのは、ヒトの高度な思考力の現れではある。だが、それにのめり込み過ぎず、変に悩む必要は無い。
私自身も気づいたのは最近だ。
中々考えてしまうことも多いが、考えたところで変わらないことの方が多い。
心配しなくとも、普段関わり合う者には自分より存在価値を認めてくれている。そういうものだ。
今までの自分がすべて作用した結果、今に繋がっている。そんな自分を卑下する必要はない。
もっと楽に生きていいんだ。
程々に考えながら、前を向いて信じて進んでいき、その足跡が人生になる。
自分を信じて、今という存在を大切にして。
いつにも増して取り留めのない文章だったが、伝わってくれるだろうか?文章力をもっと磨きたいものだ…
最後まで黙読して頂きありがとう。
さあ、いってらっしゃい。
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