マーク・フィッシャー『ポスト資本主義の欲望』

Utopia, J.D.Wetherapoon tea spoon(2014)

 ロンドン証券取引所の占拠運動が始まって間もなく、小説家から保守派の政治家に転身したルイーズ・メンシュは、BBCのテレビ番組「Have I Got News For You?」に出演し、この占拠によって「スターバックスの過去最大の行列」ができたと言ってデモ隊を嘲笑した。メンシュが言うには、問題は占拠運動の参加者が企業のコーヒーを買ったことだけでなく、iPhoneも使っていることだ。提言されているのは明白だ。すなわち、反資本主義とは、無政府原始主義であることを意味するのだ。メンシュの発言は、少なくとも番組内で嘲笑されたが、提起された疑問はそう簡単に捨て去ることができない。資本に反対することが、反テクノロジー、反大量生産の姿勢を維持することを必要としないのであれば、なぜ──メンシュのような反対派が作り出した戯画と同様に、その支持者の心のなかでも──反資本主義は、この有機主義的ローカリズムと排他的に同一化されてきたのだろうか。ここで私たちは、レーニンのテイラーイズムへの熱意やグラムシのフォーディズムへの賛美、あるいはソビエトの宇宙開発競争における技術の受容から遠く離れている。資本は長い間、欲望の独占を主張しようとしてきた。例えば、1980年代のリーバイスジーンズの有名な広告を思い出せばわかるように、10代の若者が不安そうにソ連の国境検問所から一本のジーンズを密輸しているのが映っている。しかし、消費者向け電子製品の出現によって、資本は欲望とテクノロジーを混合するようになり、iPhoneへの欲望が自動的に資本主義への欲望を意味するように見えるようになったのだ。ここで私たちは、もう一つの広告、アップルの悪名高い「1984」コマーシャルを考える。このコマーシャルは、パーソナルコンピューターを全体主義的管理からの解放と同一視していた。
 チェーン店コーヒーの消費と消費者向けテクノロジーへの依存について、占拠者たちを嘲笑したのはメンシュだけではなかった。ロンドン・イブニング・スタンダード紙では、あるコラムニストが次のように騒ぎ立てた。「デモ参加者が着る服、寝るテント、食べるもの、ポケットの中の電話、組織化に使うソーシャルネットワークを生み出したのは、資本主義とグローバル化なのだ」※1。メンシュとその仲間の反動主義者たちが占拠運動に対抗して行った議論は、1990年代のニック・ランドによる並外れた反マルクス主義のテキストで示された議論の別のバージョンであった。
 ランドのセオリーフィクション的挑発は、欲望と共産主義が根本的に相容れないという仮定によって導かれたものである。左翼がこれらのテキストを反マルクス主義的な荒らし以外のものとして扱う価値があるのは、少なくとも三つの理由があるからだ。第一にそれらのテキストは、左翼が現在直面している問題の規模と本質を薄気味悪くさらけ出しているからだ。ランドは、資本が完全に勝利している彼の思い描く近い未来、私たちの知っている近い過去に早送りし、この勝利が、かつて公共の場を荒廃させた記号論的な無用の長物を持つ広告会社やPR会社のリビドー力学にどの程度依存していたかを強調する。「市場の外を通過するものはすべて、資本の公理によって着実に網目模様をつけられ、その陳腐化であると烙印を押された印のなかにホログラムのようにちりばめられる。蔓延する否定的な広告は、公的で、伝統的で、敬虔で、慈善的で、権威的で、あるいは真面目なあらゆるものたちを脱リビドー化し、商品の艶やかな誘惑でそれらを嘲笑する」※2。この「蔓延する否定的な広告」について、ランドは確かに間違いないことを言っているが、問題はこれとどう戦うかだ。反資本主義的な「ノー・ロゴ」が記号論的生産性からの退却を求める代わりに、ポスト資本主義的なカウンターブランディングという名で、記号論的-リビドー的生産のあらゆるメカニズムを受け入れてはどうだろうか。「ラディカルな上品さchic」は、そこから左翼が逃げるべきものではない。むしろ逆に、それは左翼が受け入れ育てていかなければならないものだ。左翼の失敗の瞬間は、「ラディカル」と「上品」が相容れないものであるという認識が広まったときと重なるのではないか?同様に、私たちは「デザイナー社会主義」などを矯正し、ポジティブに嘲笑う時である。なぜなら、「デザイナー」を「資本家」と同一視することは、資本が唯一可能な近代であるかのように見せかけることに大いに貢献してきたのだから。
 ランドのテキストが重要である第二の理由は、そのテキストが、革命に対する急進左翼のオフィシャルな関わり方と、政治的で形式的美学的な保守主義に向かう彼らの実際の傾向との間の不快な矛盾を暴露しているためだ。ランドの著作では、欲望の準水力的な力が、保存、保護、防衛を目指す左翼-クヌート派の衝動に対抗するように設定されている。ランドの溶解という譫妄は反転した自律主義のようなものであり、そのなかではマリオ・トロンティやハート/ネグリがプロレタリアート/マルチチュードに与える即興的で創造的な活力を、資本がすべて引き受ける。必然的に、資本を管理しようとする「人間のセキュリティシステム」によるすべての試みを圧倒し、資本は本物の革命的な力として現れ、すべて──いわゆる現実そのものの構造も含めて──を液化のプロセスに服従させる。液化についてランドはこう書いている。「メルトダウン。惑星型中国症候群、技術圏への生物圏の溶解、末期の投機バブル危機、濾過性病原体、(崩壊したセキュリティの核心部分にいたるまでの)キリスト教的-社会主義的終末論をすべて取り除いた革命」※3。他なる未来の名において自信をもって語ることができ、既存の社会性と領土の崩壊を嘆くのではなく、公然と祝福できる左翼はどこにいるのだろうか。
 ランドのテキストが注目に値する第三の理由は、そのテキストが、現在政治が作用している、あるいは作用せざるを得ないある領土を想定しているからである。もしその政治が効力を持つならば、ある領土のうちでは、テクノロジーが日常生活と身体に埋め込まれ、デザインとPRがユビキタス化し、金融の抽象化が政府を支配し、生活と文化がサイバー空間に組み込まれ、その結果データハッキングがますます重要になるのだ。加速された資本のアバターであるランドは、結局のところジジェクの次のような主張を裏付けることになるように思われる。すなわち、ドゥルーズとガタリの作品が後期資本主義の脱領土化の流れのためのイデオロギーであるという主張だ※4。しかし、ジジェクの批判の問題は二つある。第一に、それは資本を自身の言葉で受け取り、惰力と領土主義への自身の傾向を割り引いていること。第二に、この批判がそこから出てくるような立場は、レーニン主義/スターリン主義への回帰という欲望される姿とその可能性へ暗黙のうちに依存していることである。伝統的な労働者運動の衰退に続いて、私たちは、少なくとも(国家を統制し、資本の支配を制限したという意味で)機能していた禁欲-権威主義的レーニン主義と、新自由主義のヘゲモニーにほとんど挑戦しなかった政治的自己組織化の諸モデルの間で誤った選択をあまりにも頻繁に強いられてきた。私たちが構築する必要があるのは、1960年代の様々な「文化革命」によって約束されながら実際には実現されなかったもの、つまり、反権威主義的で効果的な左翼なのである。
 ドゥルーズとガタリの作品が現在でも主要なリソースであり続けているのは、ドゥルーズとガタリが順々に影響を与えたイタリアの自治主義者たちの作品と同様に、この問題に具体的に取り組んでいるからだ。いま重要なのは、ドゥルーズとガタリを擁護することそれ自体ではなく、彼らの提起した問題──ポストフォーディズムの文脈における政治と欲望の関係──が、左派の現在直面している決定的な問題であると受け入れることだ。ソ連圏の崩壊と西側における労働者運動の後退は、意志や規律の失敗によるものだけではないし、それが主な原因でもない。それは、フォーディズム経済とそれに付随する「規律」構造の消滅そのものであり、また次のことを意味している。すなわち「政治制度の古い形式や労働者階級の社会組織の様式を同じまま続けることはできない。なぜなら、それらはもはや資本主義のアクチュアルかつ同時代的な形態と、それに付随しかつ/あるいは異議を唱える高まっている主体性に対応していないからだ」※5。間違いなく、「流れ」と「創造性」という言葉は、資本主義の「創造産業」が利用したせいで、疲弊した性質を持つ。しかし、ドゥルーズとガタリの概念のいくつかが後期資本主義のレトリックに近接していることは、彼らの失敗の印ではなく、ポスト・フォーディズムのもとでの政治的組織の問題において何かを購入できたという成功の印なのである。フォーディズムからポストフォーディズムへの移行、あるいはフーコー=ドゥルーズの用語でいう規律社会から管理社会への移行は、確かにリビドーのある変化──信用によって賄われるfunded by credit、消費財への欲望の強度化──を伴うが、だからといって、労働階級の規律を主張することによって対抗できるわけでもない。ポストフォーディズムは、旧来の労働者階級の解体を見た。その解体は少なくとも北半球では、もはや製造業に集中しておらず、その結果、労働争議行為の形態はかつてほど効果的ではなくなっている。同時に、消費資本主義のリビドー的な引力は、単に反リビドー的な減衰だけではなく、カウンターリビドーで満たされる必要があった。
 このことは、(とりわけ)フロイト、シュルレアリスト、ラカン、アルチュセール、ハラウェイ、そしてドゥルーズとガタリによって記述されたように、リビドーの本質的に無機的な本性と政治が折り合いをつけることを必然的に伴う。無機的なリビドー、それはラカンやランドが死の欲動と呼ぶものだ。つまり、フロイトが涅槃原理と呼ぶところの、死への、欲望の消滅への欲望ではなく、むしろあらゆるホメオスタシス調整から逸脱する傾向によって定義される、死の能動的力active forceである。私たち自身は欲望する生き物であるので、有機的な均衡を乱すものなのだ。アンチオイディプス的な歴史の説明の新しさは、この無機的なリビドーの説明と、歴史が方向性をもつというヘーゲル=マルクス主義的な概念とを組み合わせたところにある。このことは、歴史的に機械化された無機的なリビドーを元の箱に戻すことが非常に困難であることを示唆している。欲望が歴史的に機械化された力であるなら、その出現は「現実」そのものを異化するのだ。したがって、それを抑制するには、歴史の大逆行か、大規模な集団記憶喪失か、あるいはその両方を伴うことになるだろう。
 これはランドにとって、「ポスト資本主義は、終焉へ向かう変化の動力ということ以外に真の意味をもたない」※6ということを意味する。このことが私たちをメンシュに立ち戻らせる。そして私たちは課題が、死の欲動に見合うポスト資本主義を想像することであることを理解するだろう。現時点では、あまりにも多くの反資本主義が、完全な静止状態という涅槃原理を志向する社会システムの追求という不可能なことを、すなわちメンシュのような人物が嘲笑する、神話上の原始主義的平衡状態への回帰を目的としているように思われる。しかし、原始主義への回帰には、アポカリプスか権威主義的な仕方で押し付けることが必要だ。それ以外にどうやって欲動を追放するというのか。そして、原始主義的な平衡状態が私たちの望むものでないなら、私たちが望むものは何かを明確にするarticulateことが決定的に必要である。これは技術と欲望を資本から切り離すことdisarticuratingを意味する。
 そう考えると、スターバックスやiPhoneへの欲求は、果たしてどこまでが資本への欲求なのか、今一度考えてみる必要があるのではないだろうか。スターバックス現象について不思議なのは、このチェーン店に対する非難が、共産主義に対するステレオタイプな攻撃と薄気味悪いほど響き合っている点である。スターバックスはジェネリックで、均質で、個性や企業を押しつぶす。しかし同時に、スターバックスの成功の根源は──平凡で高価なコーヒーではなく──このようなジェネリックな空間であることは明らかだ。そうすると、スターバックスへの欲望と資本主義との間に必然的な適合があるどころか、スターバックスは、まるで何らかの暫定的で不満足な方法でしか出会うことのできない欲望を養っているように見え始める。もし仮に、煎じ詰めるとスターバックスへの欲望が、共産主義への阻まれてしまった欲望であるとしたら?スターバックスが提供する家でも職場でもない「第三の場所」は、共産主義そのものの劣化した予示でないとすれば何であろうか。ジェイムソンは、その挑発的な論文「複製としてのユートピア」──原題は「ユートピアとしてのウォルマート」──の中で、反資本主義的嫌悪の典型的な対象であるウォルマートに、私たちをあえて接近させ次のように述べる。「思考実験としての──レーニンの粗野だが実践的なやり方に倣って、(革命後に)『この優れた装置を資本主義的に骨抜きにするものを切り落とす』ことができるものに直面している制度としてではなく、むしろ、レイモンド・ウィリアムズが残滓的なものresidualに対して勃興的なものemergentと呼んでいるものとしての──霧の中から迫ってくるユートピア的未来の形。私たちはそれを、道徳化された判断の機会や逆行するノスタルジアの機会ではなく、ユートピア的想像力をより完全に発揮する好機としてとらえなければならない」※7。ジェイムソンがウォルマートに関して要求している弁証法的両義性──「絶対的非難を伴う賞賛と肯定的判断」──は、ウォルマートやスターバックスの顧客によってすでに示され、その顧客の多くは、これらのチェーンを常用しながらも、最も厳しい批判をする者たちである。敬虔な消費者の反資本主義は、メンシュが反資本主義のデモ参加者に見出している資本との共謀の裏返しである。

Still From: Office Space, Mike Judge(1999)


 ドゥルーズとガタリにとって資本主義は、それが同時に脱領土化のプロセスを生み出し、阻害するという仕方によって定義される。彼らの有名な定式によれば、資本主義は脱領土化すると同時に再領土化する。つまり、神経症的個人化(オイディプス化)を通じた相互的再コード化の経由なしに抽象的な脱コード化のプロセスは存在しない。それゆえ、21世紀初頭、一方では巨大な抽象的金融資本、他方ではオイディプス化したセレブ文化という不一致が生じたのである。資本主義は封建制からの必然的に失敗した脱出であり、世襲的社会階層化を破壊する代わりに、階級構造における社会的階層化を再構成するものである。ドゥルーズとガタリの「プロセスを加速せよ」という呼びかけが意味をなすのは、このモデルを想定しているからにほかならない。それは、資本主義が崩壊することを期待して資本主義においてあらゆるものをやみくもに加速させることを意味しない。むしろ、資本主義が妨害せざるを得ない脱階層化のプロセスを加速させることを意味する。このモデルの長所の一つは、資本を、そのプロセスの敵対者ではなく、抵抗と管理の側に置いていることである。資本主義内部の反動的要素は、都市近代化、サイバースペース、家族の衰退を、神話的な有機的共同体からの転落としてしか考えることができない。しかし、出来合いの食品、ファストフード店、匿名ホテル、崩壊しつつある家族生活といった消費資本主義の文化を、まさにL・M・サブソヴィッチのような初期のソビエト人プランナーが想像した社会場の前兆であると考えることはできないだろうか。
 「サブソヴィッチは、社会主義者が夢見た家庭内集産主義の伝統に基づき、生まの食品を完全な食事に変えるためにすべての食品製造作業を調整し、都市のカフェテリア、共同食堂、職場で、サーモスコンテナーを使ってすぐに食べられる形で住民に提供することを想像した。食材の買い出しも、調理も、家庭の食事も、台所もない。洗濯も、仕立ても、修理も、そして(電気器具を使った)家の掃除も同様に工業化され、各人は睡眠と生活のための部屋を持つことができるようになり、あらゆるメンテナンスの心配から解放されるのだ。ロシアは、事実上、広大な無料ホテルチェーンとなるのである。」※8
 ソビエトのシステムはこのビジョンを達成することができなかったが、おそらく次のようなことを受け止めたなら、その現実化はまだ私たちの前にある。すなわち、私たちが何のために戦っているのかといえば、対面での交流という本質的に反動的な条件への「回帰」のためでも、「永遠に同じ区画の土を掘る人種的に純粋な農民の列」※9への「回帰」のためでも、マルクスとエンゲルスが「農村生活の愚かさ」と呼ぶものへの「回帰」のためでもなく、むしろテクノロジー、大量生産、非人間的な管理システムが、再生された公共圏public sphereの一部として展開されているようなオルタナティヴな近代の構築のためであると受け止めたならば、そのヴィジョンは目の前にあるのだ。ここで、公的publicは国家を意味しない。そして20世紀型の国家の中央集権化を超えた公有制public ownershipのモデルを想像することが課題なのだ。フレデリック・ショーバンが撮影したソ連圏の瀕死状態の建築物の中に、そのヒントがあったかもしれない。すなわち、「そこではSF的な未来派とモニュメンタリズムが結合する異なる世界の蝶番のように設計された建物」の中に、「疑似サイケデリック、クリプトポップcrypto-Pop」※10の中に。ショーバンは、これらの建物をソ連体制の腐敗がもたらした一時的な破開=開花と見ているが、私たちはそれを、欲望と共産主義が喜ばしく調和したまだ実現されていないポスト資本主義の未来からの遺物として把握できないだろうか。「モダンでもポストモダンでもなく、自由奔放な夢のように、四次元への指極星のように、それらは地平線上に浮かび上がってくる」※11。


原注
1:Tan Birrell, “Why the St Pauls Rebel Without a Clue Can’t Simply Be Ignored”, London Evening Standard, 18th October 2012, online at http://www.thisislondon.co.uk/standard/article-23999696-why-these-rebels-without-a-clue-cant-simply-be-ignored.do

2:Nick Land, “Machinic Desire” in Fanged Noumena: Collected Writings 1987-2007, Falmouth/ New York, Urbanomic/ Sequence, 2010, pp341-342

3:Nick Land “Meltdown” in op.cit, p442

4:スラヴォイ ・ジジェク『身体なき器官』参照。(Organs without Bodies: Deleuze and Consequences. London: Routledge : 2004)

5:Éric Alliez, in “Deleuzian Politics? A Roundtable Discussion Éric Alliez, Claire Colebrook, Peter Hallward, Nicholas Thoburn, Jeremy Gilbert (chair)”, New Formations 68: Deleuzian Politics?, p150, online at http://www.lwbooks.co.uk/journals/newformations/articles/roundtble.pdf

6:Nick Land, “Critique of Transcendental Materialism” in Land op.cit., p.626

7:Fredric Jameson, “Utopia as Replication” in Valences of the Dialectic, London and New York: Verso, 2009, p.422

8:Richard Stites, Revolutionary Dreams: Utopian Vision and Experimental Life in the Russian Revolution, New York/ Oxford: Oxford University Press: 1989, 199

9:Nick Land, “Making it with Death: Remarks on Thanatos and Desiring-Production” in Land op.cit, 281

10:Frédéric Chaubin, CCCP: Cosmic Communist Constructions Photographed, Taschen: 2010, p15, 9

11: Ibid, 15

この文章は、フェデリコ・カンパーニャ、エマヌエーレ・カンピーリオ編『What We Are Fighting For: A Radical Collective Manifesto』(プルート・プレス、2012年)に寄稿されたものである。

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