ニック・ランド『絶滅への渇き』第四章「復活祭」

 「復活祭」

ある意味では、世界はいまだ、根本的な仕方で、明確な限界のない内在である(それは存在が存在へと曖昧に流れており、私は水の内にある水の不安定な現前を夢見ている)。それは、世界の内にある、事物のように限界づけられ規定された「至高の存在」の位置が、まず第一に貧しさであるような程度に、そうなのである。「至高の存在」の発明には、他のどのようなものよりも大きな価値を定義しようとする意志が間違いなく存在する。しかし、この発展への欲望は、その結果として減少を伴う。[VII 301]

神がイエスを捨て去ったのは虚構の上でのことにすぎない。[VI 85]

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 ジーンズに刃をふきつけてバーに入った。 午後の半ばで、とても暑く、じっとしていた。バーは閑散としていた。私はウイスキーを注文した。バーテンは血を見て尋ねた。
「神か?」
「そうだ」
「いつも親父の力を自慢している偽善者の小僧を誰かが始末する時が来たようだな...」
 彼は、陰口を叩くように歪んだ笑みを浮かべ、わずかな吐き気が私の中で震えた。私は弱々しく答えた。
「少し気持ち悪かった。反撃も何もせず、私に触れようとしてきた。足を犯そうとする犬のようにね。私の中の何かが切れた。泣き言が私を低くしすぎたのだ。私は本当にあの信心ぶった薄気味悪い奴が嫌いだった」
「で奴を殺したのか?」
「そうだ、殺した。奴を刺して命を奪ったんだ。一度やり始めたら狂乱状態になってしまった。エクスタシーだった。こんなに嫌いになれるとは知らなかったよ」
 私はとても落ち着いていて、少し頭が軽くなった。ウイスキーは喉の奥で煙っていて、いい味だった。しばらくの間、私たちは黙っていた。
 バーテンは落ち着いて私を見たが、彼の目の端は不安で少しゆがんでいた。
「困ったことになると思わないか?」
「どうでもいいんだ。脅しはもう散々聞いた。どうでもいいんだよ」
「みんながあいつの親父をなんて言ってるか知ってるか?冷酷野郎だそうだ。残忍な...」
「あいつを傷つけたことを願っているよ。あいつがまだ存在するならな」
「私も彼に逆らいたいんだ」と彼は呟いた。
 私はこう言いたかった。「ああ、まあ、そこが私たちの違いだ」と。しかしそのためのエネルギーはなかった。扇風機はぐずぐずと回転し、部屋全体に蜘蛛のような影を落としていた。私たちはさっきよりも長く、黙って座っていた。バーテンが先に口を開いた。
「つまり、神は死んだのか?」
「あいつがしたのならそうなんだろう。あのクソガキは毎回嘘をついていた。今回は本当だといいが」
 バーテンは舌で歯をなぞって、不安そうに言った。
「大罪だよな? どんなことかわかってるだろ。警官の一人が倒れる時、やつらが犯人を見つけるまで全てが中断されるんだ。お前はひとつの法(law)を破っているだけじゃなくて、法(LAW)を破っているんだ」
 ジーンズに沿って指を擦り、バーの上にかざすと、濃い血の塊がウイスキーの中に落ち、溶けていった。私は微笑んだ。
 「大罪かもしれない」とぼんやりと思った。「いや何でもないことかもしれない...」
 「...そして我々は彼を殺してしまった」とニーチェは書いているが、──共同体を失った──私は、彼と共に過ごす時間を一人で切望している。
 完全な交わり(communion)の中で、私は神の血で泡立ったダガーを舐める。
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 この本は、神のように、復活祭で終わるはずだった。もう少し続くだろう。
 神はため息をつく。彼はそれをまとめることができない。時間が過ぎていく。彼は時間に対するあらゆる感覚を失っていく。磔刑は、心をかき乱す夢のように過ぎていく。釘、少しの血。そのどれもがあまり真剣なことではないように思われる。
 ‘蟻がこの痛みのわずかな滴りで私を侮辱する。私は地獄の創造者ではないのか?’
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 キリストは十字架の上で叫んだ。「父よ、あなたの倹約にはうんざりです。これが死なのですか?」彼は自分が見逃した堕胎のことを、安宿の床で血まみれのボロ布にくるまって横たわりながら、思い浮かべる。死すべき大罪のうちにいる母のこと、そして自分が知っていた以上に過酷な愛のことを考えて、彼は興奮した。彼女の胎内から神の実を摘み取る喜びを、どうしてなしですませることができようか?(それが宗教の契機(chance)だった。)「見よ。人々が、子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ、という日が来る。」[ヨハネ23:29(ヨハネとなっているがルカの間違いか?)]。
 代わりに、「醜い喜劇」[Ⅵ 85]、イースターのうわべだけのメロドラマがあった。
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痛みを伴うドロドロとした灰、私の狂喜は抑えがきかない
母よ、あなたはまだ血を流しているのか?神は問う
彼のはらわたがゴミへと掻き出た
虫のような黄ばんで脂ぎった汚れ
死はいつも他人のもの
そしてあなたの愚かな笑顔
産卵している濁った目の奇形獣
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 エロイ・エロイ・レマ・サバクタニ──主よ、なぜ私をお見捨てになったのですか[マルコ 15:34]。応える声はない。あるのはただ太陽という純然たる暴力だけだ。
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 私はニーチェの貴族主義に大変賛成する。キリスト教徒たちのなかで暮らす者が民主主義を好意的に捉えるべきだということを、私は明らかとは思わない。野獣たちが自分の名のもとに立法してくれたなら、品格が落ちることも少ないだろう。
 この「理性」のために、私は自分の社会と戦争をしていると考えている。私の支配的な気まぐれに都合の良い限りにおいてのみ、その法令に応じる。私は、キツネが狩りを認める仕方を除いて、その行為者(agent)も権限(authority)も認めない。国家はすでに嫌悪感を抱くのに十分な対象であり、キリスト教と同盟を結ぶものは言うまでもない。
 それは、私が奮闘している勇ましい闘争ではない。私は頭痛をほぐしながら喘いでいるが、希望はない。自分が年老いて、まだ生きていて、小太りで、キリスト教徒であることを想像する。吐き気がして、私は突き進む。ひざまずいて涎を垂らしながら......救われることを切望している自分を想像する。
 このような不愉快な行為を楽しむことよりも、私の不信仰を徹底的に証明するものはなんだろうか...?
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 キリスト教との唯一にして正気で健全な関係とは、完全な無関心だ。私の場合そのような関係をもてていない。キリスト教の信仰に対する私の嫌悪感は、私の存在を疲弊させるだけでなく、それ以上のものである。私はキリスト教の神に対する暴力として自分を満たすために、その神が実在することを切望している。私に苦悩が訪れるのならば、私は望む。私に残酷な実験をしている神を。地獄に無気力はいらない。活力と想像力が欲しい。そうだ、なんとも全く惨めなことだ。私がキリスト教に感謝しているとすれば、それはただ一つ、‘憎む’方法を教えてくれたことに感謝しているのだ。
 神は私の憎しみの毒をエロティックな熱情で飲み干す。というのも彼の無慈悲な拭い去りは、私にとってよりも彼にとって貴重だからだ。滅ぼしたいという情熱の中で深い降伏を味わった後、神はどのようにして忠順の卑劣な世界への、つまり‘実在する義務’のある世界への帰還を喜べるだろうか?神よりも後に、──あるいはそれよりももう先がないように──宗教へと来るものはないのだ。
 私は人生において一秒たりとも有神論者ではなかった。小学校のはじめの集まりで、最初に有神論的な馬鹿げた話が出てきたとき、「大人が嘘をつくのは当然だが、大人がこれほどまでに知性を侮辱する必要があるのだろうか」と思ったのを覚えている。信じたいという願望ほどに私に相入れないものはない。なぜなら人類が病だということ──創造物などではなく──ほど明白なことはないからだ。人類の推測している神性の不在が、世界を背中で支えている巨大な亀の不在よりも不穏なものであるべきなのは、なぜだろうか?どちらかといえば、後者の方が慰めになり、宇宙論をより豊かにし、より知的に洗練されていると言わざるを得ない。一神教者たちというのは、あなたが面倒見ることを‘強要される’、つまらなくて凡庸な子供のようなものだ。煎じ詰めれば、彼らは無視されなければならないし、そこに議論の余地はない。結局のところ、彼らはそのようなものを信じることができるのならば、一体何を信じられないのだろう?衰退する末期の陳腐な似非宗教は、それに幻滅した信者たちが確実に起こす活力のある馬鹿げたことよりも安全かも知れない。
 自分が存在していたということを信じろと言われていたのだと理解した最初の瞬間、私は 自分が‘なぜ’そうするよう言われていたのかすぐにわかった。人を脅して善人になるように仕向けるために、もっとわかりやすく残忍な方法はないのだろうか?私には思いつかない、どんなに努力しようとも。父なる神......一神教の精神分析よりも挑戦的でないものとはなんだろうか?妄想とは、隠れたりすること、自分自身を覆い隠したり複雑にしたりすること、その冗長な精神異常を妥協することを拒むもので、その批評家たちは──解体の作業を始めて間もないのに──いつもあくびをしていた。このカルト教団の偉大な防衛メカニズムは、戦うにはあまりに面白くない。道徳性は比類ない熱気で精神異常にしがみついていたし、最も嫌われていた異端者とは常に、宗教に思想、探求(enquiry)、またはスタイルを導入するぞと、またその単調さを密かに傷つけるぞと脅した者たちだった。教会によって焼かれるには、神の全能性に疑問を抱くだけで十分だったのだ。
 時々、私はこの本を書くのに何をしなければならないのだろうかと考えることがある。私は特に勤勉な人間ではない。学問のプロトコルはいつも私を混乱させてきた。朝の3時10分、壁にもたれかかると、指が石膏の線を越えて走り、亀裂、解離...
 瞬間的に私は一つのことを知っている(一人で)。
 バタイユの最も信頼できるサイン(signiture)は、精神的な病気だ。
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 私は、神の怠惰によって私から奪われた、まったく十分受けるに値する天罰を夢見るのだ。

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