ニック・ランド『絶滅への渇き』第五章「死せる神」

「死せる神」

涙にむせぶ亡霊
おお 死せる神
窪んだ一つの目
濡れた口鬚
一本だけの歯
おお 死せる神
おお 死せる神
このわたし
わたしはおまえを追った
底知れぬ
憎しみで
そしてわたしは憎しみで死にかけた
一片の雲が
崩れるように [Ⅴ 121p]

わたしは哲学者ではない。むしろ聖人やおそらく狂人なのだ。[Ⅴ 218n]


 バタイユは哲学ではなく、「死は‘味わ’われうる」という譫妄的で否定的な福音を発している。一神教は常にこのメッセージを先取りして再構築してきた。「それを知ることができるということなのか。」
 バタイユの『瞑想(省察)の方法』が何であれ、それはデカルト主義の暴力的な汚染でもある。このタイトル自体は、デカルトの『方法序説』と、おそらく彼の原理的テクストである『省察』から圧縮されたものだ。この参照は偶然ではない。というのも、デカルトは孤立の限界点であり、『内的体験』においてバタイユが明示的にそのような観点からデカルトを論じているからだ。デカルトは神を知り、その知識を哲学的に利用しようとしていた。このようにして、表象の牢獄の中に自分自身を決定的に封じ込める哲学者によって、宗教のある種の神学的抑圧が完成させられるのだ。
 デカルトの思考は、(実際には偽物であるが)イデオロギー的には「根本的懐疑」の観点から自分自身を理解しており、知的生産物の紛れもない出発点としてその懐疑に奉仕するように設計されているし、そうしてその新トマス主義的(neo-scholastic)弁明的性格を隠しているのだ。懐疑の腐食性の力は、近代哲学のプロジェクトの開始において先取りする形で使い果たされ、そうして建設的な理性によって遅滞なくマスターされ/放逐される。事実、デカルトの懐疑の極端な臆病さ──その慎みのない敬虔さ──であるものは、直接的な神学的性格によって必要とされている。というのも教会の視点からすれば、根本的な問いのわずかなヒントは‘邪推’であるためだ。このような「懐疑」は、世俗的な方法においてキリスト教の希望である見せかけの謙虚さを再生するに過ぎず、それを認識論的に提供しながらも、偽善的で独断的な性格を維持している。信仰は、知ることの確実性という形をとっていて、頑固に迷信的なものであることをやめていない。
 不可侵な基盤として機能するデカルトの自我は、理性と実在を平衡化させる役割を果たすし、あるいはむしろ、この平衡化の継承された問われることのない確実性を世俗的な理性へと前進させる。実在する知のこの一貫性は常に存在論の明白な原理、すなわち知ること/存在することの調和した相互関係であると哲学では考えられてきた。プラトンからスコラ哲学を経てデカルトに至るまで、そしてデカルト以降も、思考は実在を前提とし、追認てきた。それはちょうど実在が神の観念におけるその起源へと証拠を運ぶようにそうしてきたのだ。存在論は、存在の最高形態──非存在への降下をもたらす堕落や退廃のプロセスから断絶された存在の最高形態──にふさわしい存在によってのみ完成され得るし、そのために最終的には神のイメージ(どんな仕方であれ都合よく人間に似た)においてこそ、不滅の魂が精製されなければならないのだ。不死の実体だけは、物質の沼で必然的に失われることなく、純粋存在を反省的に把握できる。その物質の沼とは、存在と絶滅が危険に圧縮された塊であり、悪意を持って変容し、伝染性をもち、絶えず苦しみを与え、時間とともに腐っていくものなのだ。
 あらゆる存在論の固有の傾向に沿って、このように、デカルトの自我は分離の極限である。すなわち神によって媒介された関係以外のすべての関係を剥ぎ取られた簡約的実体であり、自己から神を通じて、弱々しく抱かれた異質性へとただ厳密に連続のなかを動いているだけだ。それは、その存在が知るという行為そのものにおいて接触の危険から留保されていることによって、表象を通じた冒涜的な世界との無垢な関係を見出す。このような教義と一致しているのは、否定(negation)がそのなまの物質性から浄化され、表象の機能として、論理的な操作として考えられ、一連の知的な肯定(affirmation)や拒否(denial)の中で、その肯定性(positivity)が無関心に繰り返される主体による、主体のためのテーゼの拒否であることなのだ。
 デカルトの哲学においてこそ、懐疑は存在論的な知の自我によって超越された絶望として、決定的に冒涜的な意味で示されている。この大洋的絶望の冒涜──哲学における近代の幕開け──は、スコラ哲学的推論を覆すものではなく、むしろそれを満たすものである。というのもそれは宗教に対する神学の勝利であるからだ。このような仕方でバタイユは、近代的思考の貧しさ診断する際に、あらゆる種類の汚い歴史的後退を提唱しているわけではない。なぜなら、肯定するに値するスコラ哲学の唯一の特徴は、その無効さであり、その根底には、驚くほど粘り強いことが証明されている奴隷的な愚かさがあるからだ。絶望は神学のモチーフではなく、神学の中の欠落である。絶望とは不信でも懐疑でもない。どちらも存在論的に石化されたテーゼに論理的記号の適用において両義性を伴うものであるが、いかなる可能な認識論の範囲からも逃れ、教義的な知解可能性をすべて欠くほどの過激な無知である。絶望は、主張、躊躇い、否定、不確実性として定義され得ない。それは放棄であり、考え得る宛先をもたない嘆願であり、‘存在の価値’が壊滅的に消失することから生じる砂漠化である。絶望とは、謙遜的なものではなく傲慢なものであり、少なくとも敬虔なものではなく‘悲劇的なもの’である。
 ニーチェは『悲劇の誕生』の中で、悲劇の核心にある問題は‘共同体’であることを示している。──ニーチェがまだワーグナー的な国家の高揚に固執していた時代に書かれた──初期のテクストであるにもかかわらず、このテクストの中にある共同体の感覚は、民族的、政治的、社会的統一の思想と表面的にしか一致していない。悲劇的共同体とは、集団的なアイデンティティの肯定ではなく、むしろ、破局と祝祭の、個人化された自己の破局と匿名の流れの祝祭の、境界を持ち得ない運動におけるあらゆる識別可能な特徴の溶解である。聖なる合一は(単なる経験的な集合体とは対照的に)政治的に制限されることはできない。というのもそれは制御可能な集合のプロセスによってではなく、自立性の目に見えない沈下によって進行するためだ。それは、集合的に投じられた個人の、つまり悲劇的英雄、王子、神の供儀という形をとる。それゆえその象徴は、(指導者、祖国、文化、人種、信条への)大衆の崇敬ではなく、街頭での王殺しと噴火である。
 ヨハネの福音書の第一節からヘーゲルの『大論理学』に至るまで、そしてそれを超えて、西洋の歴史は、タナトロジー的なプラトーを横断してきた。人間は、自分が死ぬことを知っている動物であり、その本質においてその特有の様式として不滅にする昇華をもつ知識によって決定されている。
 大規模で圧倒的な集合体の中でキリスト教的宗教は、死という不測の事態だけでなく、その‘不可能性’を説いてきた。例えば、神は、──その信憑性に縛られている限り──メロドラマ的に全能と謳われているにもかかわらず、死ぬことは‘できない’。これは天使たちを通して引き伸ばされている無才さ(infacility)である。人間は少なくとも、死期を迎える際に滑稽なふりをすることができる(キリストとは死ぬふりをする人間のふりをする神だ)が、獣だけは真に死を迎えることができる。それはおそらく獣たちだけがそうすることを許されているからだろう。
 ニーチェが概説する神の死は、部分的な予想がないわけではない。人類の最も病的な宗教が神の行為によって開始されたとすれば、そのような行為は失敗した自殺未遂と表現されるのが確かに最善だろう。多くの場合そうであるように、これは‘ジェスチャー’であり、注目への懇願であったというのはあり得ることだ。ユダヤ-キリスト教の神の肖像画は、病的な不安の典型的スケッチである。神は愛されることにどれほど絶望していることか!彼自身には大変不十分であり、彼は大変孤独なのだ。このように永遠に生きていくことは何と病的なことだろうか。自分の匂いから逃れることなど夢にも思えない。神ほど神を憎む者はいない。これほど何かを憎む者はいない。自身のカルトたちがニヒリスティックに破滅するのを目の当たりするときの、彼の興奮を想像するのは難しいことではない。ついに解放の見通しが立った!諸存在の原理として仕えるという責任から解放されたのだ!彼の中に出現した超流動性は、全く持って存在しなかったような性的危機の力(power)で彼の中に湧き上がってくるべきなのだ。
 神への憐れみが圧倒的になる時がある。神よりも下劣な非存在に耐えなければならなかったものはない。‘理由なしに’存在しないために(聖アンセルムが実証したように)、神の本質はこの不履行を神に言い渡した。これ以上に屈辱的な閑職があるだろうか?1888年から1889年にかけて神の代わりが求められたとき、ニーチェ──同情の狂人(maniac)──でさえ、そのポストを受け入れることに消極的であった。 [N III 1351]
✳︎

 ‘狂気の人’──朝の明るい時間帯にランタンを灯して市場に駆けつけ、「神を探している!神を探している!」と叫び続けた狂気の人のことを聞いたことはないだろうか──。ちょうどその時、神を信じない人たちがたくさん群がっていたので、彼はひどい物笑いの種となった。神が行方知れずになったのか?ある人が言った。神が子供のように道に迷ったのか?別の人が聞いた。それとも彼は隠れんぼしているのか?彼は私たちを恐れているのか?彼は船ででかけたのか?それとも移住したのか?──彼らは大声を上げて笑った。
 狂人は彼らのなかに飛びこみ、孔の開くほど彼らを睨んだ。「神がどこに行ったかだって?」と彼は叫んだ。「おれがお前たちに言ってやる。‘おれたちが神を殺したのだ’。──お前たちとおれがだ。おれたちは皆神の殺害者なのだ。だがどうしてそんなことをしたのか?どうしておれたちは海を飲み干すことができたんだ?地平線をのこらず拭い去る海面を誰がおれたちに与えたのか?この地球を太陽から切り離すようなことを何かおれたちはやったのか?地球は今どっちへ動いているのだ?おれたちはどっちへ動いているのだ?あらゆる太陽から離れ去ってゆくのか?おれたちは絶えず突き進んでいるのではないか?それも後方へなのか、側方へなのか、前方へなのか、四方八方へなのか?上方と下方がまだあるのか?おれたちは無限の虚無の中を彷徨するように、さ迷ってゆくのではないか?寂寞とした虚空がおれたちに吹きつけてくるのではないか?いよいよ冷たくなっていくのではないか?たえず夜が、ますます深い夜がやってくるのでないか?白昼にランタンをつけなければならないのではないか?神を埋葬する墓掘人たちのざわめきがまだ何も聞こえてこないか?神の腐る匂いがまだ何もしてこないか?神だって腐るのだ。神は死んだままだ。それも、おれたちが神を殺したのだ。」
 「殺害者中の殺害者であるおれたちは、どうやって自分を慰めたらいいのだ?世界がこれまで所有していた最も神聖なもの最も強力なもの、それがおれたちの刃で血塗れになって死んだのだ。おれたちが浴びたこの血を誰が拭いとってくれるのだ?どんな水でおれたちは体を洗い浄めたらいいのだ?どんな贖罪の式典を、どんな聖なる奏楽をおれたちは案内しなければならなくなるだろうか?こうした所業の偉大さは、おれたちの手にあまるものではないか?それをやれるだけの資格があるとされるには、おれたち自身が神々とならねばならないのではないか?これよりも偉大な所業はいまだかつてなかった。そしておれたちのあとに生まれてくるかぎりの者たちは──この所業のおかげで、これまであったどんな歴史よりも一段と高い歴史に踏みこむのだ」
 ここで狂人は口をつぐみ、あらためて聴衆を見やった。聴衆も押し黙り、訝しげに彼を眺めた。ついに彼は手にしたランタンを地面に投げつけたので、ランタンはばらばらに砕け、灯が消えた。「おれは早く来すぎた」と彼は言った。「まだおれの来る時ではなかった。この恐るべき出来事はなおまだ中途にぐずついている。それはまだ人間どもの耳には達していないのだ。電光と雷鳴には時が要る。昼の光も時を要する。所業とてそれがなされた後でさえ人に見られ聞かれるには時を要する。この所業は、人間どもにとって、極遠の星よりもさらに遥かに遠いものだ。‘にもかかわらず彼らはこの所業をやってしまったのだ’」
 なおひとびとの話では、その同じ日に狂人はあちこちの教会に押し入り、そこで彼の神の‘永遠鎮魂弥撒曲(Requiem aeternam deo)’を歌ったということだ。教会から連れ出されて難詰されると、彼はただただこう口答えするだけだったそうだ。「これら教会は神の墓穴にして、墓碑でないとしたら、一体何なのだ?」[ニーチェⅡ 126-8p]


 神はどこにもいないのに、まだこんなにもたくさんの光がある!眩しさと狂気に満ちた光、鮮烈で冷酷な光。宇宙は巨大な墓場のようにこだまするが、星はまだ燃えている。なぜ太陽は死ぬまでにこんなにも時間がかかるのか?あるいは月が地球に忠実さを保っているのか?新しい暗黒はどこにあるのか?最も偉大な未知なるものはどこにあるのか?死そのものが私たちに‘臆して’いるのか?
 神の非存在の輝きは、シニカルな笑いの波を引き起こす。神の最後の行為がこれほど愉快なものであるとは、何と奇妙なことか!良いジョークだが、今となっては古い。それは市場で流通している無数の洒落を産んだ。最後の遺言は、商品交換の喧騒の中に散逸していったが、すぐに消えてしまった。神の死とは何だったのだろうか?株式市場でのわずかな高揚感?精神の適度な明るさ?くつろぎ?安物のシャンパンの気だるさに迎えられた、三文脚本の劇の終わりか?
 長い間、市場で話すもっと重要なことがあった。それは高価なシャンパンのために取っておいたのだ。神の死を見て少しは笑うこともあるかもしれないが彼らは飽き飽きしている。神の剥製師でさえも、とにかく彼らのうちの最上のものである彼を見捨ててしまった。残ったのはほとんどが無職で、二流で無能だったり無気力な者たちである。だから神はさらに劣化していき、虫食いのできた不条理になっていく。彼らが少しでも笑うとすれば、それはヤハウェが、剥げて片腕が取れかかり片目がどこかに行っている放置されたテディベアのように見えるようになったためだ。彼らは子供の頃、熊の話に怯えていた。今は違うのだ。
 この神ついて常に粗末な何かがあった。存在への、そして我々への道に迷った。少しの間、死への道ですら迷っていた。つまずき、知らずになっていた道化、彼のすることは全てがぶざまで、即興で、大げさだ。彼の過去は粗野さと癇癪が入り混じっている。どこにも早熟さの暗示はないが、しかし常に遅れていて、彼がマークを作るところはどこでも衰弱した学習障害の豊富な兆候を残している、‘遅い’子供。(神学者でさえも彼の「単純さ」を認めている。)彼の減少していく畜群(flock)は、もはや科学的な問題について彼に尋ねることはほとんどなく、彼らのほとんどはあえて自分自身に尋ねることはしない。彼は家族の密かな安堵のために、そのようなクラスをずっと前にやめた。しばらくの間、家族は彼には他の才能──筆舌に尽くせない才能──があると主張していたし、(母親の目が見えないこともあって)年老いた幼児の善良な性格を褒め称えていて、それがだいぶ落ち着いてきたと言っていた。笑うしかないだろう。
 私たちが彼の中に最悪の事態を招いたのかもしれない。神が私たちを恐れていることを 誰が疑うことができるだろう?神は全知全能ではなかったのか?私たちの手に錆びた短剣があるのをいつも見ていたのではないか?そして私たちは神に似せて創られたのだ!(自身への憎しみが受肉したのだ。)彼に残っていた自己愛の切れ端は、この光景でバラバラになった。‘人間’の原型としてあらゆるものを支配すること。哀れで十分な真実を露呈すること。
 人間と宇宙という総体との間のユーモラスな不整合性ほど、無限大に近いものはない。自分自身の中でこのような溝を広げることは、愚かさを生きることである。動物であるだけでなく、‘堕落した’動物、つまり堕胎した動物、病気の動物、錯乱した動物であること。狂犬病の動物を初めて見たとき、人はそれが人間になると思う。これは神性にとって頼れる基礎ではない。
 もし彼が我々から隠れていたとしたら、それは彼の目を隠そうとしていただけであり、我々を遮断しようとしていただけである。しかし,彼の全知という事故──あるいは非存在という事故──の中には,まぶたがないことも含まれていた。私たちは苛烈な星のように彼の眠りに飢えた網膜に焼きついた。私たちの殺戮が彼の皮膚を発疹のように這った。彼は私たちを見つめることしかできず、私たちの歴史は続いたのだ。死の恐怖に痙攣しながら。
 もちろん、彼は移住において無数の試みを行ったが、誰が彼を持っているだろうか?中古の神の哲学を欲している者は、彼の悪いマナーに対して最終的に反感を覚え、一時的な避難所を提供した。彼は彼が大工だった頃にどれほどノスタルジーを感じていることか。彼は一度放浪者となったのだ。
 神のために別の目的を求めて、倦怠に浸りたい誘惑に駆られる。彼は引退することを許されなかったのではないか?国は確かに彼にささやかな年金を与えただろう(カントはそのような政策の基礎を提供していないだろうか?)結局のところ、年老いた暴君が悲惨な犠牲者を作ることに異論を唱える者はほとんどいないだろう。神を殺すことは、犬が年老いて働けなくなったときに屠殺することよりも尊厳があるようには思えない。では、誰が依然としてニーチェの鷹揚さを持ち得るだろうか?最近では、神を屠殺することに誇りを持っている人を見ることは稀である。もっと一般的なのは、漠然とした不潔感である。人は下劣で堕落したものに悩まされて自信を汚してしまったのだ。神が私たちの間に住むことを許されていたということは、恥の源であり、よくてもぎこちなさの源である。多くの人が神について漠然と悪いと感じるのは理解できるが、神は少々弱く、年老いていて、殺すのは気の毒ではなかったか?私たちは神の非存在を性急に「もちろん」と言って迎えずに、もっと深刻なことに目を向けるべきではないか?神を犬のように一人で静かに死なせるデリカシーを、私たちは欠いているのだろうか?
 私たちが、供儀にするにはよりふさわしい神に値するというのは真実だ。ヘラクレイトスを産み出した宇宙には、西洋の一神教の気難しく年老いた猿よりも威厳のある統治者がふさわしいと想像するのも無理もない。それにもかかわらず、そのような後悔の念を抱くことは無意味である。それらの後悔は、私たちが神を探して買い物をする機会を得るずっと前に決定された、私たちの歴史の悲嘆に満ちた「あったかもしれないこと」に属するものなのである。
✳︎
 バタイユは「命題(Propositions)」と題された初期の論文を次の言葉で締めくくっている。「真の普遍性とは神の死である」[I 473]。 バタイユは、ニーチェの『悦ばしき知識』で発表された神の死が、宗教的な出来事として、実際には宗教の正の終わりとして(ゼロとして)考えられるべきものであると、その作品全体を通して主張している※10。バタイユにとっては──ニーチェにとって以上に──このようにして生み出された無神論は磔刑の「意味(sense)」に根ざしているという点で、特にキリスト教的な性格を持っている。バタイユは、キリスト教の世界史的な力(power)を、神の自殺という宗教を生み出した──神自身の──絶対的な供儀という擬似的に潜んでいる内容を通して読む。同時に彼は、キリスト教がこの思想を贖罪の神学の下に埋めることで、奇形化させ曖昧にしてしまったと考えている。一神教的な信仰の発展の中で、人間は「天の明らかな放蕩(prodigality)を自分を構成する貪欲さに代える傾向がある。このようにして、彼は少しずつ、感覚(sense)や自覚なしに天上の真実のイメージを消し去り、それを善の‘不変の’観念の(擬人化的性質の)化身に置き換えていく」[I 518]。死という聖なるカテゴリーを不道徳という合理的なカテゴリー(永続的な価値)に従属させることは、宗教の冒涜であり、供儀を有用性、交換、流通へと変容させることである。自分自身を完全に消尽することのできない神は、鉄の鎖で固執することに縛り付けられており、隷属と惨めさの形象である。「存在の超越的な保証である神──次の原理を前にして神の奉仕は失墜する。すなわちその存在は永遠で、不滅である」[IV 167]。
 バタイユは、ニーチェの神の死に関する思想は、供儀的であり、乱痴気であり、祝祭的であると主張している。キリスト教の信仰は、自己満足的な科学的実利主義ではなく、抑制のない浪費のエクスタシーの中へと移行しなければならない。神の喪失は自己の喪失、人間的イメージの決定的な粉砕であり、それは従順な人間性の永続的な自我が太陽エネルギーの流れの中に溶解されるようにそうなのでである。バタイユは救われることに少しも興味がなく、「私はエクスタシーを求め、見つけた」[V 264]と書いているように、極限に触れることだけを欲している。これは死ぬことではなく、過剰に、偶然として、保証もなく、散逸的な潮流を阻害することなく、(瞬間的に)生き延びることなのである。


 存在は、死に劣らないほど‘耐えがたい’卓越の中で、私たちに与えられている。そして死において、これは与えられると同時に私たちから去っていくため、私たちは死の‘感覚’の中で、私たちが死にかけているように思えるような耐え難い瞬間の中で、それを探さなければならない。なぜなら、私たちの中にある存在は、恐怖の充溢と喜びの充溢が一致するときに、過剰を通してのみそこに存在するからだ[III 11-12]。

✳︎
 神が‘意味し’得るものは一つしかない。ファルスである。存在論的議論の神は、その内で理性、存在、権威、善が一致するオムニファルスである。彼が永遠に存在するということは、完全な存在の本質に属している。十字架に磔にされた者が大きなペニスを持っていた(well hung)ことを誰が否定できるだろうか。しかし、おそらく人はそのようなことについて笑うべきではないのではない。神が滑稽であっても、自分の意志──とその神話──は確かに真剣に受け止められなければならないのだから。
 ヤハウェの著しく脈打つペニスに関していえば、それは最も重大な結果の問題である。それを通して彼は自分自身を最高の超越的な客体として確立し、結果として陰茎の萎えと宇宙の終焉をもたらす黒い痙攣を永遠に延期する。神が死を味わうために自分の勃起を供儀にすることがあれば、同一性の原理は焼け焦げた塵となって消滅し、存在はダークの中へと逆戻りしていくだろう。
 ファルスは──精神分析が常に言ってきたように──去勢と同じである。脅迫の不滅の器官であることは、忘却と逆戻りでねじれた運動から永遠に手を引くことだ。バタイユは『太陽肛門』の中で次のように述べている。「噴火の力が蓄積されている者は必ず低いところに(en bas)置かれている」[I 85]。神が屈してはならないものは、地表的連結の溶けたペニスである。女陰の溶融から何もそれを分離するものがないので、(去勢の)論理はそれへの意味を失っているのだ。
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 性的な苦悩の最後の痙攣の中で、神は自分のペニスを噛みちぎり──血の滴る胃袋で──瀕死のハイエナのように空虚に向かって弱々しく声を上げた。
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 ──あたしのボロ切れが見たい?と彼女は言った。
 私はテーブルに両手をつき、彼女のほうを振り向いた。彼女は椅子に腰かけて、片足を高々と持ち上げていた。割れ目をよく広げるために、彼女は両手で皮膚を引っ張り切ったところだった。するとエドワルダの「ボロ切れ」が私を見つめていた。毛むくじゃらで桃色の、いやらしい蛸のように生命に溢れたそれが私を見つめていた。私は口籠ってそっと言った。
 ──どうしてそんなことをするんだ?
 ──わかるでしょ?彼女は言った。あたしは神よ...[Ⅲ 21p]


 『マダム・エドワルダ』の語り手は、キリスト教神秘主義者がキリストの傷に口づけをするように、娼婦の「ボロ切れ」に口づけをする。バタイユが女陰を傷として想像したことは疑いの余地がないが、これは去勢との否定的な関係によるものではない。膣口は、切除されたペニスではなく、死との接触の複雑な領域であり、まさに去勢が禁止されているような領域なのである。また交流のうちへと存在を開くような滑らかな傷が──充足によって釣り合っている──性的関係の一極になることはあり得ない。というのもこの女陰的な傷は、セクシャリティそのものなど存在しないことを除けば、セクシュアリティそのものだからだ。
 古代ローマ人は、ゼロの算術的無為の唯一最も有名な例である。ゼロが欠如しているとき、誰もデフォルトのデフォルトに気づかないということは見逃されない。それにもかかわらず、ゼロ──とそれに関連する場所順──によって豊かになったカウントシステムは,何も欠落していないシステムよりもはるかに洗練されている。何も導入しないことは計り知れない違いを生むのだ。
 ゼロは不可分であるから、ゼロを信じること(zero bilief)とゼロ信仰(bilief in zero)を厳密に区別することはできない。この意味で無神論は宗教である。無神論が特定の信念にコミットしているのではなく、まったく逆で、無神論が攻撃するのは、まさに信念の特定性である。否定的に理解すると、無神論は神学の偽りの絶対的なものを否定するが、肯定的に理解すると、「私有的な」a-、そこから創造が進行する‘虚無’、区別のつかない宇宙的なゼロによってマークされた真の絶対的なものを肯定するのである。


従者がその裂け目に触れると彼は唸った。──神の名において![Ⅳ 41p]

わたしはあなたの裂け目を飲み込む
その裸の足を広げて
本のように開く
そこでわたしを殺すものを読む[Ⅳ 14p 161p]

わたしは神だ
あなたの頭をノックする
司祭様
あなたを殺す
わたしは膣なのだ[Ⅲ 158p]


 プラトンがゼロではなく一なるもので始めるためには、我々にとってすべてが明らかにうまくいかない。一なるものを起源的なものとして捉えることは、統一性、個性化、完成した形態、教義的な豊かさなど、あらゆるものを前提とすることである。一なるものはイリガライが理解している意味において西洋文化の多型な基盤である。それは単一(mono)──一神教であり、一神教は凝縮された無宗教であり、子宮内の無差異化(したがって、混沌としたゼロの外からの第一の波紋)の決定的な家父長的消去である。無差異化された一は父であり、その崇拝者は宗教を何も理解していない。アクィナスがするように、何も書かないことにおいてさえ、彼らは絶対的な自我(自己(Him))でそれを蝕んでいる。一次的な内在性が、単に部分的に不十分なメタファー的なものの下に恣意性をもって押しつぶされているという場合でも、──男女の間で中立的であるというよりも──無差異化(=0)が性的に分離されていないからこそ、それが母よりもさらに女性的であるためである。ゼロの女性性は、個化された逸脱の一方的な性格のために、その無差異によって妥協されることはない。ゼロは確かに父に対して相容れないものである一方で、そこにゼロからの差異化はない。実際、ゼロがまったく女陰-子宮的であるために、家父長制は無宗教(信仰)と同義である。
 物々交換システムと貨幣システムの間には、ローマ人の算術とアラブ人によって西欧に伝えられたインドの位取りシステムの間の違いに厳密に類似した違いがある。ゼロのように、金は活気を与えるものを何も付加しない余計な交換手である。マルクスが資本を死と結びつけるとき、彼はこのやりとりからの最終的な帰結を描いているにすぎない。余剰価値は労働力から生まれるが、余剰生産は何もないところから生まれる。資本生産がニヒリズムの完結段階であり、神学的無宗教の清算であり、偶像の黄昏であるのはこのためである。近代とは、ゼロによって狡猾に導かれたヴァーチャルな神権政治であり、神の死の時代である。神は存在せず、(唯一)ゼロ──統一性のない無差異化──と‘虚無’こそが真の宗教なのである。
 ショーペンハウアーは宇宙的な女陰(=0)を次のように述べる。


 インド人がするように、ブラフマンへの再吸収や仏教徒の涅槃などの神話や無意味な言葉によって、私たちはそれを回避してはならない。それどころか、意志が完全に廃止された後に残るものは、まだ意志に満ちているあらゆる人にとっては、確実に何もないということを私たちは自由に認めている。しかし逆に、その内で意志が回転し、それ自体を否定した人々にとっては、すべての太陽と銀河を持つこの非常に現実的な世界は、──なにものでもない。[ショーペンハウアー II 508p]



10. 私の限られた研究の中で、数学的ゼロの歴史について、私が予想していたよりもはるかに少ししか見つからなかった。私の目的にとって、その執拗な呪文の重要性は、非一神教文化(インド)におけるその起源、統一性を欠いた不可分性という特徴、技術主義的合理主義の崩壊、そして死との完全な共存にあることにある。ゼロ(「サイファー」のようにアラビア語の「zephirum」から派生した)は、統一性の非思弁的な他なるのものであり、リュス・イリガライの著作、特に『検鏡Speculum: de I'autre femme』や『ひとつではない女の性』に見られるような女性性の問題と親和性にそれを持ってくる。これら二つのテクストは、一なるもののユダヤ-ヘレニズム的特権に関連付けられた統一性、固体性、および同一性の概念上で壊滅的な攻撃を発動する。

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