ニック・ランド『絶滅への渇き』第六章「嫉妬に満ちた時間の憤怒」

「妬みに満ちた時間の憤怒」

 あなたはほかの神を拝んではならない。主は名を妬みといい、妬む神であるから。[『出エジプト記』34:14]
 あなたの主、神は焼き尽くす火、妬む神である。[『申命記』4:24]
14.あなた方は他の神々、すなわち周囲の民の神々に従ってはならない。
15. あなたのうちにおられるあなたの神、主は妬む神であるから、おそらく、あなたに向かって怒りを発し、地のおもてからあなたを滅ぼし去られるであろう。[『申命記』6]
 主なる神はこう言われる。わたしは妬みの炎をもって、残りの異教徒たちに対して言う。[『エゼキエル書』36:5]
 主は妬み、かつあだを報いる神、主はあだを報いる者、また憤る者、主はおのがあだに報復し、おのが敵に対して憤りをいだく。[『ナホム書』1:2]


 古代における超越論的なものという近代思想の多くの部分的先取りのなかに、‘ヤハウェ’の妬みがある。子供じみた心理的な狭窄──個人的な存在への協調──から切り離されたこれは、西欧の一神教の歴史の中で発見された数少ない‘宗教的な’思考の一つだ。分かち合いを拒むこと、共存を拒むこと、同等性の容認を拒むこと。これらは残忍にも神的なものだ。ヤハウェと比較すると、キリスト教徒の神は、商売上手であり、ドアトゥードアのセールスマンである。それにもかかわらず、ヤハウェが独占を主張する大量殺戮の狂乱は混乱を引き起こし得るというのは真実だ。
 神経質さは、人が彼に対して公平にもたらし得る義務ではない。


1.あなたの神、主が、あなたの行って取る地にあなたを導き入れ、多くの国々の民、ヘテびと、ギルガシびと、アモリびと、カナンびと、ペリジびと、ヒビびと、およびエブスびと、すなわちあなたよりも数多く、また力のある七つの民を、あなたの前から追いはらわれる時、
2.すなわちあなたの神、主が彼らをあなたに渡して、これを撃たせられる時は、あなたは彼らを全く滅ぼさなければならない。彼らとなんの契約をもしてはならない。彼らに何のあわれみをも示してはならない。
3.また彼らと婚姻をしてはならない。あなたの娘を彼のむすこに与えてはならない。かれの娘をあなたのむすこにめとってはならない。 [『申命記』7』]
16. ただし、あなたの神、主が嗣業として与えられるこれらの民の町々では、息のある者をひとりも生かしておいてはならない。
17.すなわちヘテびと、アモリびと、カナンびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとはみな滅ぼして、あなたの神、主が命じられたとおりにしなければならない。[『申命記』20』]


 妬みは、ある神性の宇宙論的な不寛容さへと昇華される前には、発作的な暴力とは切っても切れないものであり、歴史的には国家的な排外主義に根ざしていた。ここでは誰が道具であるかが重要なのか?神が部族の絶滅計画に奉仕しているのか、あるいは部族が異質な神々の地球を浄化するために奉仕しているのか?起源において反目はなく、むしろ選ばれた人々の選択と名もなき一者の残忍な孤独との間の完全な契約があるのだ。
 ユダヤ人がこの神について理解していなかったのは(もちろんキリスト教徒もそれを理解していなかったが)、この妬みに満ちた怒りの‘主権-至高性’だ。どのようにして熱狂的な憤怒が、自分自身を超えた一つの目的に従属し得たのか、神──も──が抑制の主体であるかのように、単なる執着に従属し得たのか?存在の緊急要件にその機嫌の怒りっぽい奢侈を従属させ、自分自身を抑制する神は、太陽よりもはるかに栄光に欠けるものになるだろう(彼は平凡な星によって貶められるだろう)。無用にその実在を捨ててしまう生き物各々は彼の放蕩を凌駕し、自分自身への憎悪を粗暴な刻み目(ratchet-notch)によって深めていくことになる。
 そのような神が、自身の憤激の不可能な主権-至高性──非人称の喪失のダークな軸として開く時間──を一瞥しながら、また自己の奴隷状態を徹底的に嫌悪して吠えながら、十字架の上の惨めな死を急ぐことを抑えられるだろうか?


 神は自分を満喫する、とエックハルトは言った。そうかもしれない。だが、神が満喫しているのは、私には、神が自身に対して抱く憎悪、この世ではどのような憎悪も匹敵しえない憎悪であるように思われる。(私としては、この憎悪は時間のことだと言ってもいい。しかしそれは私には面白くもないことだ。なぜ私が時間などと言いだすことがあろう?私は神のあの憎悪を私が涙を流すときにこそ感じるのだ。私は分析などはいっさいしない。)[Ⅴ 120p]


 なぜ誰もが時間に興味を持つ必要があるのか?私には想像がつかない。腕、指の痩せこけ、顔の謎、これらのものは意味(痛み)をなす。時間とは、逆に、結婚のように空虚であり、また暗闇の中に神が孤独にいるようなものである。
 私が、将来の目的に対する嫌悪によって沼にはまって、存在の泥濘の中で自身を捉える瞬間、私は神であり、時間は奴隷の永遠なる気取りを笑う(I AM GOD AND TIME LAUGHS AT THE ETERNAL PRETENTION OF SLAVES.)。「私たちをその雲の下に導くこの神は狂っている。私は彼を知っている、私は彼なのだ」[III 39]。(バタイユは一つのフレーズを勧めている。すなわち、「私は血塗れで壊れているが神々しく変貌する自分を表現する。またそれは世界と一体となり、絶え間なく殺し、絶え間なく殺される時間の獲物のような、また一本の歯のような自分なのである」[I 557-8]。)
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 妬みは、神の存在に本質的なものであるのと同様に、廃絶の運動と不可分である。時間は神性の性質や属性に限定され得ない。時間は妬みを本質の予備的立法よりも後のものにしてしまうためだ。いずれにしても、神にとって時間の絶対的な荒野に憤慨することは不可能であろう。というのも、彼の憎悪は抹消の流れに迎合するからだ。おそらく、神は、物事が不本意にも死ぬのを目の当たりにし、計り知れない絶望の中で自分自身に向き直るまで、自分自身を時間と間違えるのではないだろうか。私は私であるということである(I AM THAT I AM)とはすでに焼却特権(incinerating privilege)の先どり的溢流であるか、あるいは無である。始まりには憤怒があったのか、あるいは私たちが被造物に失望させられている神を想像してしまうのか?驚いた神?当惑した神?彼の偉大な仕事は道を踏み外してしまった。これは心理学的神性であり、いたずら好きな子どもたちに驚かされており、私たちが5歳の子供たちに話しているような怒りに満ちた神なのだ。神は激怒(wrath)を欠いているのだが、「正義の怒り(anger)」だけはある。判事。そのような存在が何を失敗することができるだろうか?しかし、妬みは憤りではないし、神がもはや何の役にも立たず、主権者-至高者(sovereign)の気まぐれへの存在の従属において神の激怒の火蓋が切って落とされる枷の外れた憤怒の瞬間には、「権威はもはや神のものではなく、時間のものであるのだ」[I 471]。
 バタイユは「時間の破局」を書いている。それは安全がそれ自体を確立できないからであり、時間は存在の妬みであるからである。バタイユの初期のエッセイ『生贄-供儀』(1936年)では、この考えを最初に展開し、不完全性と崩壊の中で厳密な結論を導き出している。時間の存在論はありえないが、それでも存在論は言説的達成のための唯一の基盤であり続けている。破滅的な時間が、空虚さと同じくらい冷たく裸形で喜びに満ちた笑いに包まれ、知らず知らずの供儀の名残のうちへと思想を押し込んでいるとき、そこにあるのは、哲学の粉々に砕け散ったぶつかり合い(spars)とパロディである。


 存在も、また空無も時間のうちにしか見出せず、独断的に切り離した概念に過ぎないにせよ、時間は存在と空無の総合といったものではない。けだしそこには孤立した存在も空無もなく、時間があるわけだから。[Ⅰ96p](生田耕作訳『生贄』適宜改訳)
諸々の事物の実在は、その実在がもたらす死を閉じ込めることはできず、それを閉じ込める死のなかに自身も投じられる。[同上]


 時間とは神の自殺的な妬みであり、諸存在は──最高のものであっても──その妬みの犠牲にならざるを得ない。したがってそれは、何ものも自身をそこから切り離すことができず、あらゆるものがそのなかでは取り返しのつかないほどに自身を失う、内在の究極的海洋である。妬みの怒りの黒い塊は、宇宙の核心にある癌のように、あるいは神の腸にある火山性潰瘍のように膨れ上がり、その破滅的な噴火は非人称性の酸性溶岩の中で、確立されたすべてのものを焼き尽くす。私たちは神の自身を浄化する妬みを表現するために「時間」という──また哲学的になる──のだ(しかし、神と共に純潔も崩壊する)。


 おそらく神の中にはまだ情熱が残っているのだろうが、それは鎖につながれているときに犬が犬であるような情熱である。自身の鎖を外す神の情熱というものの可能性はない。というのも神は理性であるのだから。神秘主義者の経験は私と一致しているのかもしれない。なぜならそれは次のことを示すからだ。すなわち、聖なるものから制限を受けない解鎖に適した場所を去らなければならないということを示すからだ。というのも、聖なるものから、それは境界のあらゆる種を壊すために、もはや可能な限り理性や道徳性の限界を考えないために必要なのだから。しかしもう一度言うが、この瞬間、神が死ぬことは明らかではないのか? [VII 370]


 妬みに満ちた時間があらゆるものを消し去るということは、どのような意味においても脱物質化の認知ではない。というのも物質から逃れる唯一の場所が神であったためだ。物質が時間の内容ではないという考えは、おそらく、「同時に」不可能性と(エクスタシーでもある)忌まわしさである真理の傑出した影である。妬みの衝撃波が理性の火口から宇宙の乳状デブリを射出するように、超越的物質はその慣性(デザイン)の完全性を失い、自然は自らの裂傷の痙攣に陥る。破壊者としての宇宙は時間であり、破壊された自然のようなものであるが、破滅の中で自然は、自身の内で石化していた地殻を剥ぎ取り、時間を腐敗物のようにはびこらせる。それは自然がその溶融した核、つまり低次-基底物質、生成、流れ、エネルギー、内在、連続性、炎、欲望、死に復帰しながらのことである。「恍惚とした時間は、子どもじみた偶然が無造作に出現させるもの、すなわち、死体、裸形、爆発、こぼれる血、深淵、太陽と雷鳴の炸裂のヴィジョンの中でなければ、自身を見出し得ない」[I 471]。
 そのような狂気に抵抗するあらゆる理性があり、理性は他の何ものでもない。次の事実ほど明らかで分かりやすいものはないだろう。すなわち「時間の流れを止めようとした労力よりも大きな労力を要した企てはない」[I 504]という事実だ。「文明」とは、私たちがこのプロセスに与えた名前であり、このプロセスは、そのようなものとしてプロセスに固有な総体的社会的災厄──宇宙的病──に敵対している。それ自体が危険である大洪水が歴史の最終的なモーターであるとすれば、エンジンや複合的な機械であるのは偉大な文明であり、それは流れに方向を与え、機能の蜃気楼を生み出している。アリの巣のようにその集合体の中に現れるのは熱狂的な不動主義、文字通りのロボティズムであり、それはプロセスを作品に、作品をプロセスのさらなる防腐処理に変換している。すべてのものは「時間の爆発的な広大さ」[I 472]に反して設定されている。したがって文明が機能する限り、それはますます硬化し、ピラミッド化していく。儀式、風習、コード、すべては、(さらにさらに上流に押され、浄化される)エネルギー源のメルトダウンから続くであろう耐え難い力(force)の解放に反して固まっていく。


 古代エジプト帝国からオルレアンのブルジョワ君主制に至るまでの長い期間──それは広場のオベリスクを「大観衆の喝采へと」上昇させる──は、時間の有害な運動への最も安定した限界の設定を達成するために人間とって必要とされてきた。全能の父の厳格な‘永遠’へとゆっくり運ばれている嘲笑する宇宙は、深い安定性の保証となる。歴史の緩慢で曖昧な運動は、ここでは存在の周辺部ではなく中心部に位置しており、この運動が形作っているのは神の時間に対する長大で贖われ得ない闘争であり、それは事物の粉砕し創造する狂気に対する「確立された主権」の闘いである。このようにして、歴史は流動と炎のヘラクレイト的世界に対する不動の石の反応を延々と繰り返すのである。[I 505]


 これはある同調の運動である。つまり‘衝突なしで‘歴史に形態を提供するために絶対的時間を蒸留する運動、外来的に出来事を操作可能な系列にまとめ上げる運動である。すべての文明は超越的なアイオーンを熱望しており、そのアイオーンの中には’クロノス‘の機能的装置が腐敗を恐れることなく保管されている。アイオーンの中に堰き止められているのは、破壊と無慈悲な再創造の高密度で物質的な時間であり、一方、貧弱なクロノロジーに残されているのは、同質で、同等化可能で、再現可能なプロセスの媒介としての時間である。つまり、労働へと順応させられ家畜化された時間性であり、そこから破局が無限への昇華によって抽象化された時間性なのである。同調は巨大で不安定な安定化、すなわち純粋で絶対的な時間の石化、あるいはそのようなもの(時間の非時間的本質)としての時間の完成の上に成り立っている。同調は、出来事の最終的な登記としての、創造の展開が刻まれた完全無欠の巻物としてのアイオーンを基本的な前提としている。またこのために、同調は神の従順さ、すなわち宇宙の書物管理者としての神の本来の機能と宇宙的な義務に対応している。換言すれば、同調は、その可能性の条件として、神性の断固とした合理性をもっている。ニーチェは──神の死が起こった後さえ──それが訪れるまでには長い時間がかかると我々に説いているが、それは遅れていることを意味するのではなく、むしろ、神がその究極的抑圧であった非同調性を解き放っているのである。早すぎること──unzeitgemäß──は、待つことではない。それはリアルタイムの噴火に苦しむことである。死もまた非同調性の無作為な(arbitrary)内容、それによって断定された主題ではないのだ。死は外来的に非同調的なものではなく、本質的に非同調的なものなのである。
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12.また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。
13.海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。
14.それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。[『ヨハネの黙示録』20]
 しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である」。[同上21:8]
 実際には何かが絶滅しているように思われる。終わりと始まりは一致している。始まりには神だけがあった。それゆえ、事物は、再び神以外が存在しないところまで運ばれるだろう。このようにして、あらゆる被造物は絶滅するだろう──アクィナスの異端の対談者の声[アクィナス XIV 51]。


 『ヨハネの黙示録』の20章と21章ほど、西洋の伝統において死の思想を根本的にプログラムしたテクストはない。ここで歴史的に支配的なトピックが確立された。すなわち「第二の死」、魂の最終的運命が確立されたのだ(『ヨハネの黙示録』の2章11節、20章6節を見よ)。413年から427年の間に書かれたアウグスティヌスの『神の国』は、これらの箇所の正統な解釈を確立した。「第二の死」については、13巻第2章[『神の国』510]で最初に言及されているが、決定的なテクストは同書の第12章であり、アウグスティヌスはここで次のように言及している。


第一の死は、魂の死と体の死の二つから成り立っている。そのため第一の死は人格全体の死であり、魂は神を持たず、体を持たず、一時的に罰を受けるときである。一方、第二の死とは、魂が神を持たず、体で罰を受けるときである。[『神の国』522]


 彼はこの短い議論を次の言葉で締めくくっている。


最後の、あるいは第二の死、それに続く他の死はない。[『神の国』522]


 このようにして、第二の死は永遠の懲罰と厳密に同一直線上にある。これは、『ヨハネの黙示録』などで見られる言葉に基づいて次々に考え出されたもの、すなわち西洋で二千年もの間、究極の苦悩のイメージを提供してきた’地獄の‘用語である。第二の意味で死ぬということは、地獄の炎の中で絶え間なく宙吊りにされ、永遠に燃えることである。この無限に長引く燃焼プロセスは、否定的なものの操作の限界、すなわち他に類を見ない焼夷地平線を構成しながら、第一の死の地上的恣意性を超越する。
 アウグスティヌスがいつもそうであるように、彼の説明はその不躾さ、気品の無さ、知性の完全な貧しさによって特徴づけられている。このまぬけな粗野さは、このテーマに関する後のキリスト教の言説に重要なモデルを提供することになり、信仰の本質的で残忍な性質を非常によく捉えている。そしてもっと健啖なキリスト教徒の書き手でさえも、これを伝統的な権威の様式で伝え続けるであろう。このように、──アウグスティヌスを果てしなく凌駕する知的、文学的な力を発揮した──トマス・アクィナスは、それらの力をアウグスティヌスの教義の奉仕に位置づけ、正教派キリスト教文化の最も崇高なパターン、すなわち、受け継がれてきた心的な無骨さを洗練させるというパターンを体現しているのである。
 アクィナスの驚異的な『神学大全』──キリスト教文明の最も偉大な一つの到達点である知の大聖堂──をバタイユは『無神学大全』においてパロディ化している(「人が見るものはすべて他のもののパロディであるか、あるいは欺瞞的な形で同じものである」[I 81p]と彼は『太陽肛門』の中で言っている)。キリスト教的権威を行使するための最初の強固な文化的基盤を提供するのは、この作品におけるアクィナスの継承された信仰の綿密な構造であり、それは私たちの時代におけるカントのそれと類似した機能である(またそのうちでは認識論──あるいは統制された懐疑論──が、社会史的生産プロセスのある巨大な下部構造的変容という流れの下で神学に取って代わるようになった)。アクィナスは40歳の時、つまり1265年に『大全』の執筆を開始し、──断続的にではあるものの──1273年に亡くなるまで書き続けた。私たちが「聖書」として知っているような、ごちゃごちゃしていて、激しく支離滅裂で、恣意的に編集されたテキストよりもはるかに、覇権的キリスト教へと教義的基盤を提供しているのが『大全』であり、それは──何よりもルターと関連している──原的聖典への回帰は止められない退廃のプロセスの始まりを示すものである。
 『大全』の中心的な成果は、信仰のうちに組み込まれることになったアウグスティヌスの大言壮語に合理的基盤を確立させたことだ。その中でも特に顕著なのは、魂の本性的不死の教義(キリスト教的’ルサンチマン‘の最も深い源泉)と結びついた永遠の苦悩としての「第二の死」の概念である。この問題に関するアクィナスの議論の中心は、問104[アクィナス XIV 35-55]の四つの文章にある。これはスコラ哲学の広がり全体でほぼ間違いなくもっとも重要なテクストだ。
 アクィナスがアウグスティヌスから受け継いだ立場は厳密には哲学的とは言い難い。それはせいぜい、ある種の教義的一貫性を構築する試みである。この一貫性とは、すなわち迫害的な権威を求める反異教的なポレミックの観点で行われた良心的ではあるが才能のない聖典の注解に基づいた一貫性である。このことは、ユダヤ-キリスト教的信仰心の模範であるためのアウグスティヌスの主張をいかようにも損なうものではなく、それどころか彼の狂気じみた不寛容さは一神教信仰の支配的な調子に完全に対応している。アクィナスには同情するしかないだろう。信仰の合理性を主張しようとする一方で、彼の背後では次のような狂った咆哮が反響しているのだ。


 しかしその最後の非難において、人は感じなくなることはないのだが、彼の感じているものは快楽や喜びのそれではなく、健康や平穏のそれでもない。彼が感じているのは罰の苦悩であり、そのために彼の状態は生ではなく死とまさしく呼ばれている。第二の死がそう呼ばれるのは第一の死に続いて、それにおいては神と魂、あるいは魂と肉体というように一緒に寄り添う本性の分離があるからである。したがって、第一の死は善人にとっては良く、悪人にとっては悪いことであると言える。しかし第二の死は善人の誰にも起こり得ず、間違いなく誰にとっても良いことではないのである。[『神の国』511p]
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 アクィナスの並外れて複雑な課題は、魂の本性的不死の概念に潜む人間主義的な不信心に屈することなく、正統な根拠(むしろ今回は合理的な根拠)に基づいてキリスト教の死の教義を再構築することであった。エイレナイオスもアルノビウスもこの教義に異議を唱えており、それはあらゆる被造物の神への絶対的な依存とは相容れないと考えていたし、アウグスティヌス自身もこの教義を弱体化させようとしているように見えることがある。しかし、いったん魂の本性的不死性が問われると、改心できない邪悪な者は永遠に拷問されるのではなく──適切な期間の厳しい罰を受けた後に──単に消滅させられるかもしれないという考えまでほんの一歩だ。その教義はエイレナイオスがおそらく持っていたと思われるし、アルノビウスは確かに持っていた。これは絶滅主義(annihilationism)の極端な異端であり、後にソッツィーニ派(彼らはこのために激しく迫害された)やアリウス諸派と結びつくようになった。それを公言することが文字通り自殺行為であったキリスト教の支配する時代を通してそれは非常に恐ろしい信仰だったと考えられる。というのも無神論そのもののスケールにおける反応、すなわち拷問と死をもたらしたからだ(第一と第二の両者であるが、無神論者は間違いなく第一の方をより気にしていた)。D・P・ウォーカーは、17世紀と18世紀の絶滅主義についての議論の中で、次のように述べている。「悪人の絶滅を信じるとされていた無神論者とソッツィーニ派は、一般的に最も広範な宗教的寛容さ(tolerance)の外にいる考えられていた。彼らは社会的に危険な存在だったため、彼らを排除することが国家の仕事であったのだ。」[『地獄の衰退』4p]
 このように、──四百年も前──アクィナスが絶滅主義の(限定的な)もっともらしさを主張したことは、相当な誠実さを示すものである。彼は議論を段階的に分け、最初に神の絶滅の力を肯定し、その後この力が実際には慈悲深い存在によって行使されているということを否定している(神の感傷としての永遠なる天罰)。彼はこの議論の第一段階で次のように断言している。


物事が存在する前に、神はそれらに存在を与えない力、つまり創造しない力を持っていた。だから同様に、それらが一度創造されると神はそれらの実在を維持し続けない力を持つ。その時それらは存在することをやめる。それが絶滅である(Quod est eas in nihilum redigere)[アクィナス XIV 49p]


 絶滅、──より正確には──無への回帰は、神学にとって決定的に重要な二つの相互に関連した概念、すなわち’創造‘と’保存‘の概念と関連している。絶滅の’虚無‘とは無、創造がそこから存在を生み出す無である。というのも「創造されたものは無から出てくる」[アクィナス VIII 41]ためだ。創造は、無から存在を引き出すし、無の外で存在を保持する、すなわち存在を保存する。存在の恒久的な保存はそれを直接神に結びつけるポジティヴで絶え間ない因果関係であり、だから「神が絶滅させるとしたらそれは何らかの行為によってではなく、行為の停止によってであろう」[アクィナス XIV 51]。したがって、絶滅とは「’行為からの解放‘」であり、神との単なるネガティヴな関係を持つ再帰である。神が被造物の(無との関係が純粋に抑制的なものであるため、神にとっては外的なものである)絶対的な死との関係に干渉するのをやめるや否や、それを絶滅に導くのは存在自身の傾向である。ある意味では、被造物の存在はその原因として神と一致している(commune)が、’虚無‘との違いとして、被造物の不安(tension)は死にのみ関係しており、神の関与は、神から逃れる交流に偶発的に影響を与える第三者の関与である。神と虚無は被造物をめぐって、嫉妬深いライバル同士が一人の恋人をめぐって争うように争う。それは被造物が──どんなに神を尊敬していようとも──まったく別の方向への欲望に引き裂かれていることを除いてのことであり、一方で虚無は無類の誘惑の力から自然に湧き出るもどかしい無関心を持っている。
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 絶滅主義の異端は、天罰の気晴らしサーカス(distracting circus)を免れることによって、他のどの教義にもできないように、ユダヤ-キリスト一神教の根本的な弾みを明らかにしている。この神はゼロの敵対者であり、したがって、同一性、人格、個別性の要塞である。そのような神から決定的に追放されること──神の保護を失うこと──は分離不可能の非存在へと回帰すること、すなわち’虚無‘へと消え去ることである。 絶滅主義がキリスト教の正統性に大きな影響を与えなかったということは、民間宗教や迷信が教会内の知的一貫性よりもしぶとい特権を常に維持してきたことを一部で証明しているが、もっと重要なことは、それが(アウグスティヌスに例示されている)悪人の永遠なる苦悩という思想への官能的で懲罰的な投資を示しているということだ。
 敬虔な絶滅主義者にとって、死を超えた実在の存続は報奨として考えられており、それに値する者、より正確には善良な者のためだけに確保されている。苦痛という低俗な経験よりももっと深いのは、真の’罰‘である非存在である。邪悪な者の魂は、絶対的裁きという弁別不可能な極み、すなわち単なる消滅の対象である。神の下での長い死後距離(postnecroid haul)の見通しに頑なに気づかない人々にとっては、このように外科的で非懲罰的な代替がある。
 反応性のあるリビドーのあらゆるブロックのように絶滅主義キリスト教は自身の内に、変位した活動的な衝動をマッピングした。完全な溶解はルアーとして提供されているが、倫理学的排除プロセスのシステムの中に安全に投獄されている。すなわちヒトという動物の抑圧された物質性から湧き出るその不明瞭な(inarticulate)熱情にのみ透過性をもつものである。邪悪なもの、あるいは神的(父的)不承認の害毒(taint)は、死の非イメージから自我を遮蔽する一つの障壁として機能する。──より深く隠されているために──より重要なのは論理の起源、すなわち神の視点から死を見ることの起源と同時的な罠である。神──一存在──は存在とその否定の両方を乱れのない制御でもって考えていると思われる。だから非存在は(至高の)存在の力によって考えられる。すなわち絶対的な貧しさによって修飾された存在として、また存在における二極の劣った方として考えられている。何よりも、非存在は単に思考されるためのものであり、論理的関連性の神的モデルはそれら特権の中に存在を確保している。方法論的前提のローブを身にまとっているのだ。死は法を表現し、そうして自身を最高の存在に従属させる。このようにして神の非存在理解において神に帰する知的中立性こそが、タナトロジー、死の論理の真の可能性なのである。
 敬虔な絶滅主義者たちはタナトロジーの可能性にだけでなく、理性と正義の絶対的な頂点として、神的知性における有効な実在に関係している。彼らにとってタナトロジーは神の法則の建築的基礎である。このような隷属的絶滅は消去的否定性であり、それは大きく二つの方法で考えることができる。すなわち形式的なものとして、あるいは思弁的な関係としてである(脱構築はそれを置き換える前に、それをどちらかのものとして受け入れることに満足している)。形式的消去は否定的形容(qualification)とは無関係なものとして理解される肯定性(positivity)に対応し、一方──形式的に(誤って)考えられている──思弁的消去は肯定性に対する形容が同時に内在し非内在することである。どちらの場合も、そのような否定の内容は否定によって修飾されるものによって規定されるし、それが消去の正確な定義なのである。ヘーゲルが形式的推論の中の最初の思弁的な不安(restlessness)として熱狂的に受け入れたスピノザ主義的な原理──あらゆる規定は否定である(Omnis determinatio est negatio)──は、実証性がその正確な消去によって規定されることを意味し、また、ヘーゲルの『小論理学』補遺(Zusatz)の中での言葉で言えば「すべての規定性の基礎は否定である」[H VIII 196]のだ。
 非規定(indetermination)の非(in-)は、それ自体が消去的なものとして理解されている場合にのみ、形式的否定または規定の思弁的発展のいずれかとして読み取ることができる、すなわち規定である。そのような動きはもちろん──最もはっきりと述べれば──ヘーゲル主義そのものである。全く異なるのは非規定的否定の非規定的意味であり、それは消去的ではなく獰猛なものだ。獰猛な否定はそれがもたらす絶滅に関して根本的に異なるものであり、そのため形式的論理によってであれ思弁的論理によってであれ消去的帰結から導き出され得ないのは、その定義に内的なものなのである。トピックが中立的であるのとはほど遠く、論理は確実な実在の基礎からの、つまり時間の不在における推理である(ヘーゲルは歴史を考えているが、時間は考えていない)。同一性、無矛盾、規定的否定の法則は変容に関して自身を形容すること、すなわち論理的関係の同時性、あるいは時間的差異(非共時性)の不在を主張することによってのみその厳密さを達成する。このような形容は、弱い(科学的な)意味でも強い(神学的な)意味でも観念性を構成するものである。換言すれば、観念性とは論理的服従、純粋な存在以外の何ものでもなく、論理のトピックは存在論なのである。自殺が単なる判断ではなく技術的問題であることは論理学者にとって不幸なことであり、「存在」とその非実在の潜在性(それは決してそれ自身ではない)との間の不可逆的な異質性の関係を例示している。このような異質性は’忘却のための闘争‘と供儀的プロセスの実証性によってより一般的に証明されている。死をエロティシズムに巻き込むのは死の獰猛さだ。「性的行為は時間の中にあり、虎は空間の中にある」[VII 21]。論理的否定とは異なり、死は複雑な機会を必要とする。すなわち入り組んだ接続、身体らの相互作用、乱流を。死ぬ方法は数え切れないほどあるが、迷路から抜け出すルートのこの増殖は一般的な否定的可能性の単純さにはつながらない。
 獰猛さは否定の働きによって反射的に規定されるのではなく、実際には規定性を全く持たず、異質な要素の激しい衝突の中で生成された現実的構成でしかなく、その問題は複雑な総合である。複雑な総合の中で消費される様々な否定は、論理的な同等性を持たず、現実的一貫性、あるいはバタイユの言葉で言えば’共同体‘を持っているに過ぎない。消尽の実現が複雑な総合の集合体を必要とするために消費の問題があり、その不可避的な問題を、不可能性のなかに、過剰の外の実在である死や不死の感覚のなかに見いだしているのである。自然は、論理的であることとは程遠く「おそらく完全にそれ自身の過剰」[III 219]であり、ゼロ上を灰と炎で汚したものであり、そしてゼロは広莫なのだ。

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