ニック・ランド『絶滅への渇き』第二章「太陽の呪い」

 「太陽の呪い」


 太陽の光エネルギーの重要な部分を際限なく利用しているのは、地上にある植物の緑の部分と海である。この仕方で陽光──太陽──が私たちを生産し、私たちを生き生きとさせ、私たちの過剰を生み出している。この過剰、生命力は陽光の結果である(私たちは基本的に太陽の結果以外の何ものでもない)[VII 10p]。‘私たちである’太陽光線は、最終的にはその本性と太陽の意味を取り戻す。つまりそれは自身を与え、‘勘定なしに自身を失う’というのが必然なのだ[同上]。
 古代メキシコの人々は、宇宙の栄光と人間を結びつけた。つまり太陽は供儀的な狂気の果実であった....[VII 192p]。


 プラトンの『国家』第7巻には、ソクラテスがグラウコンに奇妙な夢を語る、最も有名な哲学的物語がある。それは「ある種の地下の洞窟」[プラトン『対話編』747p]の深みの中で始まり、そこでは縛り付けられた人間が太陽から隠され、その頭は、火によって壁に投射された影以外のものを見ないように拘束されている。太陽の裸の光への幻影のさまざまなレベルを通って上昇することは哲学的なプロジェクトの最も強力な神話であり、またソクラテスが自身の死を予想している政治的な闘争の記述である。洞窟の住人は、次のようにソクラテスが尋ねるほどに、暴力的に彼ら自身の善良さを弁護する。「彼らは、彼らを解放し、導こうとした男を捕らえて殺すことが可能であれば、彼を殺さないだろうか?」[プラトン『国家』749p] グラウコンはすぐにこの提案に同意する。そのような暴力は一方的なものではない。結局のところ、哲学者は、純粋には認識の事象(matter)でない太陽に関心を持っているのだ。太陽を目撃したことは、利益(gain)と権利(entitlement)、つまり(たとえ不本意ながら受け入れられたとしても)統治への超地上的な(supra-terrestrial)招待である。


だから私たちの都市は、私たちと、目覚めた心を持ったあなたたちによって統治されるであろう。現在ほとんどの都市は、それが大きな善であるかのように影のために戦い、任務(office)のために口論する人々によって、夢の中のように光なく居住され、支配されている。その時、真なのは、支配する人々が任務を保持することに最も熱心ではない都市が、最高に治められ、不和から最も自由でなければならないのであり、反対のタイプの支配者を得る国家は、この逆になるだろう[プラトン『国家』752p]。


 闇の中で結ばれたこの物語において光、欲望、政治が絡み合っている。ソクラテスにはまだプロメテウス的な何かがある、太陽から力を取り出そうとする試みがあるのだ。 (バタイユは言う。「鷲はゼウスの動物であると同時にプロメテウスの動物でもあり、それはプロメテウス自身が天から火を盗みに行く鷲(アテネ-プロメテウス)であることを意味している。」[Ⅱ40p])
 遮蔽物や写像(reflection)、比喩なしに、太陽を直視すること──「水の中の写像や異質な環境の中の幻想によってではなく、それ自身の場において、またそれによって太陽そのものを、その真の姿を見ること」[プラトン『国家』 748p]──とは、真理の価値化と最も容赦なく調和したヨーロッパ人の願望であった。どんな願望や願いも、表象のレベルでの欲望(原動力)を再構築したものであるが、太陽の有機的ヴィジョンへの憧れはそれ以上の何かであり、その何かとしての表象のイデオロギー的統合である。太陽は、真理と同時進行する純粋な光であり、現実と認識の完全な一体化であり、外部性の同一性であり、その顕現である。太陽に思索を巡らすことは、彼岸の決定的な確証となるだろう。
 太陽の黄金の怒りを見つめていると、視界が光と闇の断片に切り刻まれる。白い太陽は、盲目の淵に儚く浮かびながら、光の継ぎ接ぎから凝縮される。これは、私たちが把握できるものを与えてくれる、照らす太陽であり、その太陽は栄養として身体から与えられ、(同化可能な)感覚として眼から与えられる奔流をもつ。プラトンの太陽はこの種のものであり、蒸留された太陽であり、純粋さの本質であり、美、真理、善の比喩である。自然が枯れて引き下がるように見える寒い時期を通して、人はこの太陽の完全な輝きが戻ってくるのを待っている。古代人がそうであったように、秋の豊穣さ(Bounty)は太陽に敬意を表しているように思われる。この栄養を与える輝きと混ざり合っているのが、まさにその中心であるもう一つの太陽、暗く伝染性のある深奥の太陽であり、バタイユの「太陽は黒い」[III 75p]という唸りを引き出した太陽だ。この第二の太陽──「呪いの太陽」──から、私たちが受け取るのは明かりではなく、病気である。それが私たちに浪費するものがなんであれ、私たちは順番に消費する運命にあるのだ。私たちが黒い太陽から飲みこむ感覚は、自身を無駄にしようとする衝動で私たちの感覚を貫く破滅的な情熱として私たちを苦しめる。「最終的な分析においては、太陽だけが文学的描写の唯一の対象である」[II 140p]とするならば、それは、その照りつけるような輝きよりも、その凶暴さに、「太陽は死以外の何ものでもない」[III 81p]という受け入れがたい「事実」に起因するものである。 ソクラテス──と彼の利益への希望──からあまりに遠く離れているバタイユの言葉。「存在するという病は唾という黒い太陽を吐く」[IV 15p]。


目という能力の欠如している意識中で太陽の概念を去勢しなくてはならない人の精神において、太陽の概念を記述するできるようにするために、この太陽は数学的な静けさと精神の上昇を詩的に持っている言わなければならない。対照的に、もし何を差し置いてでも、人が十分な頑固さをもってそれを固定したならば、それはある種の狂気を前提として概念はその意味を変えてしまう。なぜならば、光の中で現れるのは生産ではなく、廃棄(le déchet)、つまり燃え上がりであるからである。それは白熱灯から放たれる恐怖によって、心理学的に十分に表現されているのだ。[Ⅰ231p]


 白熱は啓発的なものではないが、「現前」という繊細で哲学的な道具は、光の濃密な物質性が私たちの知性にほとんど影響を及ぼさない程度に、私たちの目を萎縮させてきた。 プラトンでさえ、光の衝撃が「眩しさと煌き」のために、(最初は)苦痛であることを認めている [プラトン『国家』748p]。現象学はこの譲歩さえも体系的に消し去ってしまった。しかし、なぜ不在/現前の対立が、強烈な放射線の影響を記録するための最も適切なグリッドと考えられるべきなのかは、明らかではない。それは私たちがまだヘレネーであったかのように、外因性のエネルギーによってつけられた微細な網膜の傷としてではなく、知覚の外向きの動きとして視覚を解釈することなのだ。
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 私たちにとってすべては太陽とともに始まる。なぜなら(これから見ることになるが)洞窟や迷宮さえも太陽から生じてきたからである。ある意味で起源は光だが、これは慎重に考えなければならない。私たちの身体は、私たちが目を開くずっと前から、ちょうど私たちの目が、太陽の奔流と交尾する前の太陽の固形の液滴であるのと同じように、太陽を吸い込んでいる。従属の流れは非常に「明確(clear)」(致死的)だ。「太陽エネルギーの流入は、その結果としての臨界点において、人間性である」 [VII 14p]。 目は起源ではなく、消尽(expenditure)である。フランスのバタイユ全集の最初のテクストは、バタイユが最初に出版した本『眼球譚』だ。この本は1928年にロード・オーシュのペンネームで出版されたもので、『太陽肛門』(1931年)、『腐った太陽』(1930年、上記引用)、死後に出版された『松毬の眼』(1927年と1931年の原稿)などの初期の著作群の中に属している。これらの作品に共通しているのは、太陽の軌道から逃れる視覚を、太陽の軌道に服従させることであり、その歴史的な願望とは切り離せない闇の上に表象的な言説を投げかけているのである。
 『眼球譚(Histoire de l’œil)』は眼の物語であり、眼の歴史でもあって、『松毬の眼』はフィクションであり、歴史でもある。すべての歴史は物語であるが、それは物語が歴史から逃れることを意味するものではないし、また、その適切な表現の場所を占めつつ、盲目の中で自身を消費する歴史以外の何かであることを意味するものでもない。 『眼球譚』は、司祭の眼球をえぐることでクライマックスを迎える。その眼球をこの本の「ヒロイン」シモーヌの膣へ一度は彼女自身の手で、一度はエドモンド卿(放蕩な英国人)の手で、「滑り込ませる(glisser)」のだ。このようにして、太陽の地下(subterranean)の原動力である暗い渇きが視覚を包み隠し、それを夜めいた肉の迷宮へと飲み込んでいく。
 同様に『松毬の眼』では、──正午の獰猛な頂点にふさわしい──「太陽のための特別な眼」が開かれることで、消滅、つまり眩く凄まじい降下が招かれる。奢侈な輝きの頂点における太陽の真実は、‘使い道のない浪費の必然性’であり、そこでは合理的な節度の失墜において天上のもの(the cerestial)と低次なもの(the base)が共謀する。人間性と同義である上昇の動きを終わらせ、それに相応しい垂直性を視覚に与えることで、松毬の眼は理性の時代に冠を与え、直接天に向かって開く(そこにおいて松毬の眼は、太陽の‘真実’である灼熱の汚物の洪水によって瞬時に核を取られる)。


私は頭蓋骨の頂点にある目を噴火中の恐ろしい火山のように表現したが、それはまさにその尻と排泄物に付随する泥々した滑稽な性格を持っている。しかし、眼球は紛れもなく眩いばかりの太陽の象徴であり、私が頭蓋骨の頂点に想像した目は、必然的に充血しており、その莫大な炸裂(éclat)をする太陽の熟視に捧げられていた[バタイユ全集II 14p]。


太陽の排泄に関する眼もまた、その火山的な内臓から引き裂かれ、その痛みに自分の指で自分の目をえぐり出す男の話は、太陽の肛門的情景よりも不条理ではない。[バタイユ全集Ⅱ28p]


 表現とその対象との間の完全な同一性──すなわち「盲目の(blind)太陽であろうと目を眩ませる(blinding)太陽であろうと、 それはほとんど問題ではない」[バタイユ全集II 14p]──が、これらの初期のテクストでは一貫して直視であると考えられている。イカロスの、不安を耐えがたいものの音域へと変換することによってのみ完全にする太陽への崩れ去り。太陽とのまぐわい──これは表象というよりも満足を与えるものにすぎないが──の中では、主体と客体はその深奥なる一致の水準で融合し、それらが本来の姿ではなかったことを(盲目のうちに)示しているのだ。
 フロイトが主張するように──時間のような──無意識は矛盾にとって明らかだ。第一のプロセス(バタイユの太陽)は、第二のプロセス(表象)の視覚から見た場合を除いて、──第一のプロセスのレベルでは──まだ第一のプロセスである。これは現実性に基づいて行動を区別しようとする理性の観点からは、論理的には手に負えない直視であり、まったく役に立たない。この論理的には太陽と‘同じ’である(はずの)リビドー的一致こそが、純粋ではない差異の迷宮に絡みついたアリアドネの糸なのである。『太陽肛門』の冒頭でバタイユはこう記している。


 省察に忙殺された頭脳のなかを文章がただ‘循環’するようになってからというもの、全面的な同一化が行われるようになった。というのも‘繋辞’のおかげで、各文章が一個の事物を他の事物に結びつけるようになったからだ。とすれば全てが明瞭に結び付けられている光景もありうるだろう。つまり思考が、アリアドネの糸をもって、思考自身の迷宮の中を進んでいくとしても、もしも人が今、こうして糸が残していった道筋の全体を一望のもとに見渡すことができたならば、そんな光景を目にするだろうということである。[I 81p](酒井健訳『太陽肛門』)


 あらゆる人間的努力は、ダムが川の上に築かれるように、太陽の上に築かれている。しかし、より強い意味での太陽社会──太陽の死-核に視線が固定された社会──が存在し得るというのは、最初は不可能であるように思われる。「私たちのうちに存在している、太陽のように生き、‘私たちの財と人生を浪費してしまう’ような輝きへの意志」[Ⅶ193p]に応えることは、社会性の確かな否定ではないのだろうか。閉ざされた社会システムは、その基盤である主要な抑圧をはぎ取りながら、太陽的興奮の焼けつく中心部へと移行しすぎれば、間違いなく自身を消してしまうだろう。それにもかかわらず、基本的な攻撃性が、その奢侈を禁止する熱意を取り去り、隣人に対して焼夷的な怒りとして押し流すことを条件に、太陽の仕方で社会が持続することは可能である。バタイユがアステカ文明の中で発見したこのような傾向は、軍事的暴力によって供儀の秩序を永続させたアステカ文明にも見られる。彼の太陽社会学の大著『呪われた部分』の中で、彼はアステカについて次のように述べている。


 祭司たちはピラミッドの頂上で生贄を殺した。彼らは彼らを石の祭壇の上に寝かせ、黒曜石のナイフで彼らの胸を刺した。彼らはまだ脈打つ心臓を引き裂き、太陽に向かってそれを掲げるのだ。生贄のほとんどが捕虜であったことから、太陽の生には戦争が必要であるという考えが正当化される。戦争には征服ではなく消費の感覚があり、メキシコ人は戦争をやめると太陽が燃えなくなると考えていたのである。[Ⅶ 55p]


 バタイユの精査の下で展開されるのは、アステカに対する弁解ではないし、説明ですらない。彼らの文化を読み解く上で問題となっているのは、経済的な情事、あるいは太陽の共犯関係の糸であり、星の野蛮な根源の上で全ての社会を織り成す系譜学的血統の追求なのである。アステカをその獰猛さへと突き通した剥き出しのエネルギーは──蓄積文化の装置によって制御されたものであり──バタイユを研究に駆り立てるものでもある。彼の内臓を切り分け食らいつくエネルギーの軌跡は、ダークな合一という溶融した大地であり、地球上でこれまで痙攣を起こさせたあらゆるものに彼を結びつけている。
 まさにアステカ文明の無意味な恐怖こそが、この文明に独特の普遍性を与えているし、その普遍性は、社会的推進力の素直には認めがたい源を表現している。「太陽そのものが彼らの目には供儀の表現であった」[VII 52]し、彼らのエネルギーは目的のない殺戮に費やされ、それによって彼らは地球上の太陽の真実を悟った。西洋人の目には、彼らの血への飢えが、ばかげた神話に基づいた弁明の余地のないものであるかのように見え、真実ではないことによって腐敗させられてしまう人間の能力を極端に例証しているようにも映った。もしアステカの文化が恣意的神話的ヴィジョンに根ざしていたならば、そのような読み方も可能かもしれないが、バタイユにとって絶滅への渇きは太陽と同じである。それは人間が太陽に向かって差し向ける欲望ではなく、太陽の軌跡そのもの、地球の歴史の無意識的主題としての太陽である。太陽の比類のない支配力があるからこそ「一般的で教養のない意識にとって、太陽は栄光のイメージであるのだ。太陽は栄光を放出する。栄光は同様に発光し、放出として表現される」 [VII 189]。それは「炎の中での太陽の炸裂への供儀的な死を類推することは、宇宙の素晴らしさ(splendour)への人間の応答である」 [VII 193]ようにであり、それは「人間の供儀が、真の秩序と持続に対立する争いの決定的(acute)瞬間であり、計り知れない暴力の運動である」 [VII 317]からなのだ。
 バタイユの作品の中で「供儀」と並んでいるのが「消尽」、つまり「dépense」という言葉である。この言葉は、バタイユが全般経済、あるいは太陽経済、過剰の経済と表現している思考のネットワークの中で機能しており、その輪郭は同じく好色で美しい彼の「理論的な」作品である『呪われた部分』で十分示されている。また彼はその中でこう書いている。「太陽の放出はその一方的な性質によって区別されており、‘打算も目指すものもなしに自分自身を失う’。‘太陽経済’はこの原理に基づいているのだ」[VII 10p]。太陽が見返りもなく私たちの上に自らを浪費するのは、「私たちが究極的には太陽の結果以外のものではない」[Ⅶ 10p]ので、「生産されるエネルギーの総和は、その生産に必要だったエネルギーを常に上回っている」[VII 9p]からである。過剰または余剰は常に生産、仕事、真面目さ、交換、欠乏に先行する。求めること(need)は決して所与のものではなく、豊かさから構築されなければならない。生命の根源的な仕事は、生産したり生き延びたりすることではなく、その上に降り注ぐ──エネルギーの──豊かさの塞がれている洪水を消費することである。 「世界は...富で病んでいる」[VII 15]という壮大なセリフの中で、彼はこのことを大胆に述べている。消尽、あるいは供儀的な消費は、懇願でも交換でも交渉でもなく、地上システム──限定された人間の経済に至る──が一時的に停止させた散逸の運動にエネルギーを放出して、エネルギーを太陽の軌道に戻す限りない浪費である。豪奢な破壊はエネルギーの唯一の終わり(end)であり、天頂の形態である累積的な努力によって中断され得る清算(liquidation)のプロセスは資本家ブルジョワジーの豪奢な破壊であるが、しかしそれはしばらくの間だけである。太陽経済にとって「過剰は唯一の出発点であり」[VII 12]、過剰は、最終的には使われなければならないのだ。
 束の間の奢侈の奔放な流れへの参加を拒否することは、‘至高性’の否定、隷属的な‘差延’、終わりの延期である。エネルギーの放蕩の燃えさかる通路は、それを超越する何かの利益のために抑制されている。すなわち未来の時間、略奪的階級、道徳的な目標のために......。エネルギーは、未来の‘奉仕’へと投入されるのだ。「道具の使用の目的は、常に道具の使用と同じ意味を持っていて、有用性はその円の中で道具に割り当てられる、などなど。棒は植物の成長を確実にするために土を掘り、植物は食べるために栽培され、植物はそれを栽培した人の生命を維持するために食べられる......。終わりのない反復の不条理だけが、何ものにも奉仕しない真の終わりの等しい不条理を正当化する」[VII 298]。
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 超越性、論理化された否定性、区別の純粋性、そして「真理」への西洋的な執着の一つの結果として、完成に近づいていると延々と威勢よく主張する物理学がある。そのような宣言によって顕在化した現実への軽蔑は計り知れないものである。物理学者が自然の秘密はほとんど尽きたと言って‘笑顔を見せる’のに、どんなリビドー的破局が起きなければならないだろうか。もしこれらの論評が誇大妄想的な錯乱の明らかな例であり、それ自体が笑えるものでないのなら、ニヤニヤした猿たちの無粋な食指に宇宙が引き伸ばされているというヴィジョン以上に陰惨なビジョンを想像することは不可能だろう。しかし、もし人が十分に容赦ない情熱を持って表面的なものを探し、その時それを体系的に隔離するために十分な金を払う覚悟があれば、少しは見つけられるというのは驚くことではない。これは確かに一種の達成だ。人は愚かさの領域を発見し、それを操ったが、それだけなのだ。残念なことに、これを認める繊細さは──ニュートンが科学を、計り知れない大海原(=0)の海岸で彷徨うことに例えたとき、とても雄弁に語ったように──ある種の最低限度の審美眼、‘高貴さ’を必要とする。
 物理主義的な科学は、高度に具体的で、洗練された、比較的有用な惰性の哲学である。その支配は、神に従順なあらゆるものへと及んでいる(神は死んだが、その粘土はまだ動いている)。この支配の中には、一時的に耕作を免れた多くの区域(tract)が横たわっている。例えば、「精神の事実」はあらゆる種類の従順さの配置とともに存在するが、これらは抵抗の場ではない。信頼性があるところではどこでも科学が女王であり、おそらく‘陸地(terra firma)’全体が彼女のものである。誰も急いで彼女の権利に異議を唱える人はいないだろうが、しかし海は反乱(insurrection)を起こしている(そして陸地は──噂では──漂っているのだ)。
 科学的完結神話の幼稚で大げさな言い方を脇に置いても、科学の‘成功’についての疑問は手付かずでいまだに残っている。哲学が科学によって‘ダメージ’を受けていることは疑う余地がない。それは自身の根絶を予想するようになったからだ。今や哲学は、知の力への自信を失い、嫉妬が親としての誇りに完全に取って代わり、その悪しき良心の文体的帰結がその言説を判読不能なまでに荒廃させてしまった段階に達している。少なくとも一世紀、おそらく二世紀にわたって、哲学者の主要な努力は、単に‘科学者を遠ざけること’であった。どれほどの防御姿勢、哀れな模倣、粗末な自己欺瞞、暗号化された神学の蒙昧主義、そして知的貧困が、最近の病的な所産である精神科学的なもの(die Geisteswissenschaften)の名によって強調されていることか。
 哲学の実践者や従事者の間でこの一般化したノイローゼの最初の、そして最も基本的な源は、「彼ら」が科学を生んだのは‘どのようにして’だったのかについての理解力の無さだ。彼らは、自分たちは常に‘悪い科学者’だった、少なくとも未熟な科学者だったと考える傾向がある。「数学がもっとできれば良かったのに」と彼らはため息まじりに呟く。ニュートンとライプニッツが計算者としてはまだ「互角」のように見えたことに悲しくもノスタルジックな喜びを持ちながら。
 このような憂いの中で失われているのは、哲学が原型としてではなく、原動力として科学と関係しているという事実である。哲学は、兵器産業に取って代わられる以前は調査的なリビドーの基本的な源であり、また科学がまだ完全に技術的製造のプロセスに溶け込んでいないとすれば、その不和は単に説明のつかない哲学の流動性なのだ。哲学とは、思考の見通しを興奮に変える機械であり、発電機なのだから。「なぜこれがそんなにわかりにくいのか」と人は愚かにも問う。 その答えはすぐに明らかになる。‘学者’だ。
 学問とは、文化を仕事の尺度に従属させることである。それは、相対的に抽象化された生産性への投資が直接の原因となるような、予測可能な形での量的インフレーションに容赦なく陥る傾向がある。学者は長い本を過度に尊敬しており、それをごまかそうとする者に対して酷い‘恨み(rancune)’をもつ。彼らは、近道が可能であること、専門性が必須ではないこと、また学ぶことは辛抱強く‘耐える’必要がないことを想像することに耐えられない。彼らは作家の‘アレグロ(allegro)’に耐えることができず、またそのようなテキストを読む──崇拝するふりをする──とき、その結果は「魅力のないもの」である(これは寛大さのない説明ではない)。学者は、読まれるために書くのではなく、品定めされるために書く。彼らは一生懸命働いたことを知られるようにしたがる。今に至るまで、産業の倫理が来ているのだ。
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 好奇心は探究で自分自身を危険に晒し、自分自身を傷つけてさえきた。好奇心がその歴史を意気揚々と横断してこなかったことは、好奇心が苦しんでいる多くの確信の一つにすぎない。尋問の方法であるロシアンルーレットが、自然科学の厳密な銃撃によって中枢を傷つけられ、ほぼ根絶の危機に瀕していることは、あまりにも明白である。それが引き起こした反応には、通常‘アポリア’の苦い慰めさえ欠けている。ある人にとっては、世界は粗雑で分かりやすい場所、探究心の削ぎ取られた骨が点在する単純さの砂漠に見え始めているのだ。
 好奇心が理解力よりも価値があるとしたら?これは不可能な考えではない。また、思考の‘原動力(motor)’をその‘結果’に従属させてしまった必然性を求めるというのも不合理ではない。思考にとって変わる利益が存在する場合にのみ、解決は望ましいものとなりうる。そうでない場合、解決は単なる手段に過ぎず、謎と混乱を助長するという終わりになる。思考が解決手段を容認しなければならないということは、単純に不幸な必然性だ。おそらく、そういうことでさえないだろう。
 好奇心とは欲望である。つまり硬直によって廃された動的な衝動である。好奇心を、蒙昧主義や神秘主義というホルマリンに漬けようとするのは、──あまりに身近であるが──愚かなことだ。永遠なる謎は、好奇心をなにか確信があるかのような壊滅的なものにする。思考の駆除業者のイデオロギーは教条主義であり、それがどのようなものであるかはほとんど問題ではない。
 価値があるのは謎を保存する能力ではなく、謎を生み出す能力である。快適な終わりを迎えた後も、獲得したものとして存続するテクストは、問題を抱えた血を糧にして、忌々しい惰性を返すだけの蛭のような性質を持っている。逆に、テクストの豊饒さとは、‘成就していないこと’、早すぎる終了、確定の出来なさである。そのようなテキストは常に短すぎて、麻酔薬を弱める執着の代わりに、‘刺し傷(sting)’がある。
 この本はその種のものではなく、バタイユの速度を遅くし、彼の素早い狂気を形而上学と疑似科学の沼地に追い込むものである。天文台の住人たちに太陽を明け渡すことを私が拒否すること──その結果生じる見苦しい争い──は、私とバタイユとの関係に問題を生じさせ、私の文章の大部分を破壊する。一方、私と科学的知識との関係は、スキャンダル以外の何ものでもない。
 私が提供しているのは、半分塞がれた戯言の網である。それは自身の無能を称揚し、譫妄のため資源として肯定的知識の綿密で概念的な生産を悪用し、精神障害者や不適合者、怠惰な人にだけ訴えかける網だ。私は次のように考えたい。すなわち、何らかの集団的で精神的な地震のために、自然科学が私たちにとって厳密には理解できないものとなり、代わりに聖なるものの詩性として読まれるようになったとしたら、その結果は、これに続くテクストと共鳴するだろう。少なくとも無秩序は成長する。
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 自然はその構成に無関心であるため、(宇宙のような)閉鎖系では無秩序が常に増加する。その要素の偶然的な分布に準拠しているシステムの岩盤状態は、「エントロピー 」と呼ばれている。この語は熱機関と熱の科学に関するカルノーとクラウジウス、およびそれらの後継者の結論をまとめた用語だ※5。エントロピーの概念では、あらゆるものが変化する。自然の諸プロセスは、もはや永遠の時計仕掛けの機械ではなく、それは熱死的であるか(Wärmetod)または傾向的であるかのいずれかである。メカニズムは、原動力に依存している。つまり熱差に、エネルギー流束に、リザーバー(reservoir)に、サンプ(sump)に依存している。秩序は、消えゆく偶発事(evanescent chance)、無秩序からの逸脱、不均衡である。否定的無秩序──ネゲントロピー──はエネルギー源であり、偶発事は力源(power supply)の相互増強(potentiation)である。エネルギーの劣化の可能性として、物質/エネルギーの流動化として、エネルギーが注ぎ込まれる未規定な、アナーキーな奈落への解放の可能性として、神の死としての‘マッハ’、‘力(puissance)’。上流と下流。つまり供給とその散逸。秩序は法ではなく力であり、力は脱線行為である。これがニーチェにとっても、フロイトにとっても、そしてバタイユにとっても、欲望が考えられる背景となっている。つまりメガ・モーターなのである。
 欲望と太陽の間には違いはない。セクシュアリティは心理学的なものではなく、宇宙的-非論理的なものだ。「性行為は少なくとも束の間、太陽の動きを長引かせ、エネルギーの行き詰まりから逃れる」[VII 11]。欲望の宇宙論的理論は、物理主義の灰から出てくる。これはもちろん、観念論、スピリチュアリスム、弁証法的唯物論(粗悪な観念論)、および同様の代替案が、事前に厳密に無神論的なジェスチャーで捨てられたことを前提とするものである。リビドー唯物論、あるいは無条件的(非目的論的)願望の理論は、物理主義的偏見の説明的診断からの焦げ跡以外の何ものでもない。
 唯物論的思考の基本的な問題は、定式化することが容易なのだが、それは依然として暗黙に神学的である。第一因への回帰は、物理主義的な立場の不可避な帰結であり、それゆえに、その王位が臆病な神殺しの人によって退かされてしまった後も、古い神学的基盤に縛られたままである。物理主義的な論点は、物質は、特定の実体を超越する本質的な合法則性と、外的な身体や力の影響との組み合わせを通して、外部からその衝動や決定を受け取るというものである。(衰退のような)「内的な(intrinsic)」プロセスは自然法則の発現から生じるが、外的なプロセスはすべて元の宇宙的な運命の受動的な交流(communication)から生じる(数学的──それゆえ形式的かつ外在的な──蓋然性の決定は、因果関係的必然性の決定よりも厳密ではないので、ここでは確率論的物理学は本質的な違いがない)。したがって、物理的な物質は紛れもなく受動的であり、異質な力を伝達し、その構成の普遍的に法制化された危急に従って崩壊するという二重の特性によって疲弊しているのである。
 科学的な唯物論がまだ始まっていないという感覚がある。それは、その表象的な対象と実際の物質/エネルギー基盤との間の距離を、そのような物質性が概念の形式へと原理的に帰すことができない限りにおいて、示していないからである。この回復不可能な知的把握の他のものは、「カオス」(秩序=0)として、あるいはボルツマンの熱力学に即した用語を使うと、‘絶対的に不可能なネゲントロピー’として示すことができる。これが科学的な唯物論に無責任な亜哲学的概念を持ってこられたと思われないように、私は彼の1895年のエッセイ「ガスの理論のある疑問について」の中でボルツマンによって語られた(そして彼の「古い助手、シュッツ博士」に帰属する)深遠な寓話を引用してみましょう。


我々は、宇宙全体が熱平衡状態にあり、永遠に休息していると仮定する。宇宙のある(唯一の)部分がある状態になっている確率は、その状態が熱平衡から遠ざかるほど小さくなる一方で、宇宙が大きいほど大きくなる。もしこの確率を大きくすれば、宇宙は大きくなる。宇宙が十分に大きいと仮定すれば、比較的小さな部分が任意の状態にある(熱平衡からどんなに離れていても)確率を好きなだけ大きくすることができる。また、宇宙全体が熱平衡にあるにもかかわらず、私たちの世界が現在の状態にある確率を大きくすることもできるのだ。[ボルツマン III 543-4]


 まず次にことに言及すべきだ。すなわち熱力学の第二法則が維持される場合、少なくともボルツマンがここで与える計算は、非常に高い確率で、唯一想像できる物理学的無神論であるということだ。それは、宇宙の私たちの領域のエネルギー実証性(ネゲントロピーまたは「H値」)を構成する熱不平衡は、宇宙が十分に大きければ、可能なだけでなく、あり得るかもしれないことを示唆している。このようにして、ネゲントロピーの現実性は、神学的な前提条件を必要とせずに、確率論的に適切に説明されるだろう。
 ボルツマンの説明では、可能なネゲントロピーと不可能なネゲントロピーの間に概念的な区別を導入しており、後者のネゲントロピーは──存在するとすれば──、熱力学に潜在する‘問題’を提起している。なるほどこれは、ボルツマンが第二法則の批評家へとかなり合理的に帰している絶対的に不可能なネゲントロピーの概念であり、彼の思弁的宇宙論は、あらゆる‘局地的な不可能性(improbability)’の、または‘全般的な可能性-確率(probability)’あるいは平衡(統計的法則性)への偏差の還元可能性を実証するために正確に設計されている。全般的または絶対的な不可能性とは、謎めいた実証性(positivity)が物理的に解決不可能な宇宙の特徴だろう。これは、絶対的に不可能なネゲントロピーの経験的実証が、一般的な統計力学を‘反証する’ことができると言うことではない。というのもそのような観点ではどんなレベルの不可能性も厳密には耐えられないからだ。自然科学の観点からは、一般的なカオス性に基づいて宇宙論を再構成することは、確率的な説得力(宗教と出来過ぎなほど似ているもの)の程度を変えた、‘恣意的な’ステップに過ぎない。
 ツェルメロ※6との議論でボルツマンは、基本的な考えは同じままであるが、すでに引用されたテクストで素描されたアイデアを展開している。高H値やネゲントロピーは確率的な逸脱であり、この理由から、少しも機械的法則に違反しない。ボルツマンは、高H値や上昇するH値の場合は、第2法則によれば、「消え入るほど少ない[verschwindend wigen]」場合が予想されると主張しているが、時間(「t」)による確率の乗算は、「t」が十分に高い値を与えられていれば、どのようなH値でも正当化できると主張している。ここでは、時間の概念を拡張する価値がある。なぜなら、問題となっているのは置き換えの動的なものであり、それは何であれ、単に抽象的な持続時間ではないからだ。 最小のH値の熱死状態さえも、このエネルギーが完全に劣化しているかエントロピー的であるにもかかわらず、エネルギーの貯蔵庫であるのだ。劣化したエネルギーは、仕事を成し遂げる可能性を失っているが、それにもかかわらず、絶え間ない変異の状態にとどまっている。こうした変異が、確率論的な観点から見ると、H値に有意な変化を示す可能性が非常に低いという事実は、それが永続的な置き換えの実行をやめるという意味ではない。時間関数は、このようにして、一定のエネルギー貯蔵庫のための量的に定義可能な置換生産を生成する。すなわち、宇宙論的置換の和、H値の潜在的な変換の和は、時間を乗算したエネルギーに等しいのだ。高H値の不可能性は、与えられた規模の置き換えの範囲内で、そのような値の期待される割合として表現することができる。
 ボルツマンは次のように書いている。「どのような場合でも、運動の時間が十分に延長されている限り、人はH曲線の大きな山に再び到達することができ、実際、この延長が満足に延長されている場合には、古い条件さえも再帰しなければならない(そして、明らかに数学的な意味では、これは無限に長い運動の持続時間が与えられて、無限に頻繁に発生しなければならない)」[ボルツマン III 569]。
 t=∞のとき、どのような可能なH値も確率的なものになり、おそらく必然になると論じることができる。このような議論は実際には、統計理論で「エルゴード」と呼ばれる変換の源に依拠し、それは可能でランダムな発生との関係において非優先的であることを意味する。例えば、ニーチェの永劫回帰の宇宙論的表現が、エルゴード的源に基づいているとは思えない。しかし、ボルツマンの議論に従うために無限大についての質問に入る必要はない。というのも宇宙の物理的限界と互換性のある有限のH値は、ある有限の値「t」で確率的になるためだ。表面的には、この定式化でさえエルゴード主義のレベルを暗示しているように見えるかもしれない。なぜなら、機械的反復の貧弱なサイクルが無限に繰り返されると、高H値の可能性を排除する一方で、大きな「t」値を可能にすることが考えられるからである。この議論は、ポワンカレ※7の議論の極端なバージョンであるが、実際にはボルツマンの立場には適切ではない。というのもボルツマンが仮説的なネゲントロピーではなく実際のネゲントロピーの存在と可能な反復を説明しようとしているためだ。しかし、より重要なことは、ネゲントロピーの再生のための──確率論的というより──狭義の機械的説明が第二法則に直接違反しているように見えることであり、それはH値の上昇と下降の間の相互関係の破綻に基づいている。言い換えれば、第二法則は、熱平衡が別の状態に傾きはしないので、低H値の谷よりも高H値の山の話をする方が、意味のあるようにすることを要求しているのだ。
 ボルツマン自身によるこの非相互性の解釈は、カント主義の魅力的でやや自然化されたヴァリアントの形をとっている。彼は、熱平衡の谷からの離脱は、観測技術から逃れることができるほど延長された時間の区間の中で起こるので、可能な経験の対象であるという認識論的条件を満たしていないと主張している。彼の言葉によれば「この区間の長さはすべての可観察性(Beobachtbarkeit)をあざ笑うことになる」[ボルツマン III 571p]し、「自然の機械的外観に対して提起されたすべての異議は......客観的ではないし、誤りに基づいている」[ボルツマン III 576p]。このようにエントロピー的傾向から逸脱した自然のプロセス上での思弁は、カント的な意味での弁証法的なものであり、エントロピー的傾向に従うプロセスだけが、可能な経験の正当な対象に関係している。衒学的な注釈において、ボルツマンは厳密には、否定的なプロセスが観察され得ることが「消えてしまうほど不可能」だと主張する権利だけを与えられているように、私には思われる。
 永遠なるカントの物自体を、ボルツマンは最大エントロピーまたは熱平衡によって、従って最小のH値によって特徴付けられる時間の広大な伸張で代替するが、カントの現象はネゲントロピーの、熱不平衡の、高H値のエネルギーに満ちた基盤によりかかるためにボルツマンによって変形される。ボルツマンの宇宙論的時間の「現象的な」、また「ヌーメナルな」伸張は、平衡状態にあっても、エネルギーと原子粒子の保存によって特徴づけられる。時間は超越に放たれなければならず、ネゲントロピーの山の確率的な出現-羽化が可能であるために、諸要素の置換変態を組織する純粋形態として考えられなければならない。それはH値における正の偏差がいつでも、つまり偏りのないグリッドである時間において等しく可能であるということはボルツマンの議論において根本的である。
 リビドー物質とは、時間に対する相互超越の関係に抵抗するものであり、また二元論的(oualisticとなっているがdualisticの誤植か)、観念論的、あるいは神学的概念に頼ることなく、物理的実体の厳密な受動性から逸れるものである。それは、代理性を書いていると同時に、因果の連鎖に帰すことができない変異のプロセスを暗示している。このプロセスは多くの方法で示されてきた。私は、ショーペンハウアー、ニーチェ、フロイトに倣って、それを「欲動(trieb)」と仮に呼ぶことにする。欲動とは、古典物理学の原因/結果のペアを推定するのではなく、説くものである。それは有効性の動的制定であり、従って原始物理的である。これは、欲動が自然法則に先立つ物質の破壊的原動力であることを意味している。「リビドー経済」と名付けられた欲動の「科学」は、ショーペンハウアーが丹念に実証しているように、物理学の基礎となっている。
 リビドーエネルギー論は、欠乏として、超越として、弁証法として理解される欲望の恣意的理論の変形ではない。そのような概念は神学者に委ねられるのが最善だ。それはむしろ、熱力学の変形であり、「エネルギー」の意味をめぐる闘争である。エネルギー研究の分野であるために、欲望の唯物論的理論の源がゆっくりと(そして手探りに)次のように構成されてきた。
1 偶然性(chance)。エントロピーは、確率論的エンジンの中核であり、自動駆動(autmatic drive)としての法則の不在である。エネルギーの組成は確定的なものではなく、微分である。なぜならすべての秩序は不可能性から生じるためだ。このようにして、同一性の概念における革命は、現在では、微分化の機能としての偶然性から生じるものであり、それゆえに、量的、非絶対的、一時的なものである。エネルギーは、偶然によってのみ「導かれて」自動的に下流に注ぎ込まれる。そしてこれは(ヘーゲル的なパトスから解放された)「労働」が意味するもの、遊びの機能、拘束を解くこと、生成でさえある。
2 傾向。不可能性から可能性への運動は自動的な方向性、推進力である。エントロピーはテロスではない。なぜならそれは表象されず、意図的に動機付けでもなく、または確定的なものでもないためだ。にもかかわらず、それは力(power)、緊張、および欲動が、一方向的で、量的で、否応ない力(force)として把握されることを可能にする。目的論的スキームは、もはや傾向的なプロセスの理解に必要ではなく、もはやそれらと一緒に忍耐強くある必要もない。それらは余計なものなのだ。
3 エネルギー。どこにおいても唯一の量的語彙。存在論を窒息させる2千年後の新鮮な空気。本質はエネルギーの一時的形状に溶けゆく。「存在」は、無意識のモーターである時間化、置換力学としての有効性から区別できない。知解可能な宇宙の本性は、エネルギー的な不可能性であり、エントロピーからの分化である。
4 情報。精神科学的なもの(Geisteswissenschaften)の労苦的で敬虔な行為。罪、思想、イデオロギー、文化、夢、これらのすべてが、自然的力(force)として、ネゲントロピーとして、突然知解可能になる。一連の疑似的問題が‘明確に(positively)’崩壊した。心と身体の関係とは何か?言語は生得的なものなのか、それとも慣習的なものなのか?観念はどのようにして対象に対応するのか?何が情熱と概念を結ぶのか?すべての信号はネゲントロピーであり、ネゲントロピーはエネルギー的傾向である。
 熱痙攣(thermospasm)とは薄められていないカオスとしての現実だ。それは私たちすべてがどこから来たのかを示している。サケが生まれた場所で滅びるために上流に戻るのと同じように、死の欲動はそこ(「それ」そのもの)に戻りたいという切望である。熱痙攣とは、叫び、絶滅的強度、不可能性のピークである。エネルギーに満ちた物質には‘傾向’、死への欲動(Todestrieb)がある。現在の科学的な意味でのこの運動は、エネルギーの常なる下降、あるいは差異の消失である。上流はネゲントロピーの貯蔵庫、不均一な分布、熱不平衡だ。下流は原初の混沌(Tohu Bohu)、統計的無秩序、無差別性、熱死的なもの(Wärmetod)だ。熱力学の第2法則は、無秩序が増加しなければならないことを、ネゲントロピーにける局地的な増加はまだエントロピーにおける集合的な増加を意味することを教えてくれる。生命は死から逸脱することができるというのは、単に生がまた生を伝播するからであり、無秩序の伝播は常に逸脱よりも盛大である。下降(degradation)は生の外で「利益を得る」。組織化のいかなるプロセスも、全般経済の中では必然的に逸脱したものであり、不可避な死の流れの中での単なる複雑さや迂回路であり、情報モーターの電流であり、下流に注ぎ込むエネルギーであり、放蕩(dissipation)である。そこには閉じたシステムも、安定したコードも、回復可能な起源もない。あるのは、熱痙攣的な衝撃波、傾向的なエネルギー流動、エネルギーの下降だけなのだ。下流へと運ばれた情報の──強度の──受け取り。
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 しかしながら、リビドー唯物論(ニーチェ)は熱力学ではない。というのも、それは力(power)とエネルギー、あるいはネゲントロピーとエネルギーを区別しないからである。それはもはや、エントロピーのレベルを、実在的あるいは実在するいかなる存在の述語としても考えていないのである。物理学的な熱力学のエネルギーとは対照的に、リビドーエネルギーはカオス的であり、前存在論的である。このようにして、ニーチェは、「存在」、「物自体」、その影響から分離可能な実体(substratum)などの概念に対する破壊的な攻撃を行っている。熱力学がエネルギーの、粒子(ボルツマン)の、空間/時間の存在論とともに始まり、そして分布とエントロピーレベルをエネルギーの属性として解釈する場所で、リビドー唯物論はカオスと構成だけを受け入れる。カオスの構成という一つの結果としての「存在」、「‘存在の世界化という世界の接近’」[ニーチェIII 895p]の一つの結果としての「存在」。構成としての存在のリビドー的再組成によって、「人は存在の程度を獲得し、存在を持つことを失う」[ニーチェIII 627p]。「存在」の影響はプロセスから派生したものであり、「私たちが繁栄するためには信じることの内で安定していなければならないので、私たちは「現実の」世界を、変化し生成しつつある世界ではなく、存在の世界にしたのだ」 [ニーチェIII 556]。
 ニーチェの思考の大きな軸はリビドーエネルギーの空間を画策する。第一。同じものの、同等のものの、同一物の、平等(die Gleichheit)の論理数学的概念の協調的な問いかけであり、それは構成の全般エネルギー学へと解消される。構成を保存し、伝達し、循環させ、強化する力(power)、構成の印付け、保留、充当の中で同化される力、および構成の脱抑制、放蕩、ディオニュソス的解放で解き放たれる力(power)。要素化している(essentializing)哲学を超えて、芸術は、構成の抑えがたい流動性、興奮と交流の間のやりとりとしてある。
 第二。熱力学的なベースライン(ボルツマンの永劫回帰理論)とリビドー的絶頂の間に張り詰められている永劫回帰の形象、存在論的-科学的発見を興奮に変換するための理論的な機械。まず科学的な形象。エネルギー的な力(force)とその置き換えの理論としての回帰。つまり偶然性、傾向、エネルギー、情報の理論としての回帰。‘アナーキーな’組み合わせと再分布の力(force)の遊びにおいては、円、肯定と酩酊の形象だけでなく、教え、メッセージ、または信号に向きながら、可能状態の‘蓄え’が枯渇する‘傾向がある’。「力の海がともに湧き出て奔流する、永遠に変化し、永遠に洪水のように戻ってくる、途方もない年月の繰り返しによって、その形態の満ち引きによって。最も単純なものから最も複雑なものに向かって努力し、最も静止した、最も硬直した、最も冷たい形から最も熱く、最も波乱な、最も自己矛盾した形に向かって努力し、そしてこの豊かさから単純さに戻ってくる......ゴールはない。円環という喜びそれ自体目標でない限り。意志はない。輪がそれ自身に対して善意志を感じない限り。──この世界に‘名’を欲するだろうか?」[ニーチェIII 917p]。そしてリビドー的頂点、構成的な階層を通した上昇における衝動の回帰、常にもう一度(noch einmal)、もう一度、そして無上限、地平線、達された本質。「お前はこの偉大な流れの引き潮になるだろう」[ニーチェII 279]。
 第三。ヒエラルキーの、序列(構成)としての秩序の一般的理論。もはや超越論的限界は存在しない。ショーペンハウアーの「客観化の等級」は切り落とされ、それゆえに脱極化し、両方向の集中的な連鎖(intensive sequence)へと開かれる。カントは敗北し、超越論的/経験的差異がその尺度の中に崩壊していく(しかし、そのような出来事が私たちに届くまでには長い時間がかかる)。歴史が戻ってくる。(今、時を超越することは何を意味するのだろうか?) 「対立について語ること、そこにはグラデーションと段階の多様な繊細さしかない」[ニーチェ II 589]。
 第四。ニヒリズムの診断、欲望の誇張の診断。回帰とは、スケールを越えた構成的な衝動が戻ってくることであり、創造的な原動力の貪欲さである。これは「ディオニュソス的ニヒリズム」であり、刺激(痛み)の再来と、それを克服することの歓喜である。 消耗し切った人々にとって、出来損ないの人々(Schlechtweggekommenen)にとって、これは耐えがたいことであり、彼らは殴られる。「一回の飛躍で終わりに達するであろう倦怠で、貧しさを知らない死の飛躍で。もう二度と意志を持つことはないであろう倦怠を知らない貧しさ、それがあらゆる神と死後の世界を創ったのだ」[ニーチェⅡ298p]。最初にプラトンが、次にキリスト教が、怪物じみた蛭のように人間の惰性を餌にして、人間性(末期の動物)を生み出したのである。ニヒリズムは原理的に一度にそれ自体を完成させ、神が、つまり最終的存在、生成の中止、それ以上は何も望むことのできない究極のものが構想される。
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 フロイトもまた、エネルギー主義者である(ラカンと彼の記号学的な同類物を読んでも、決して疑うことはないだろうが)。彼は欲望を欠如、表象、志向性としてではなく、散逸的なエネルギーの流れとして考えており、それは第二のプロセス(現実原理の領域)を遮りチチャネリングする装置によって抑制されているものだ。快楽は目的の実現に対応するものではなく、それはむしろ不快さが、性的行動の平衡化溶融によって緩和される最初の刺激(excitation)や緊張であるということだ(そこに目的はなく、ゼロだけがある)。「不快さは刺激の量の‘増加’に対応し、快楽はその‘減少’に対応する」[フロイト III 218p]。このゼロへの強い衝動は、フロイトの文章の中では──悪名高く──両義的である。「精神装置は、その中に存在する刺激の量を可能な限り少なくするか、少なくとも一定に保とうと努力する」[フロイトIII 219p]。しかし、そのような両義性は、信用を落としている混乱であることとは程遠いものであるが、欲望の現実への厳格な固執の確かな症状であり、同一化主義的表象の秩序の中でゼロの一方的な影響を表現している。
 精神分析は、生存の必須条件に対する侵犯の結果として抑圧に苦しんでいるものの決定の中で、無意識の科学として生まれる。この抑圧された自我への脅威の追求こそが、フロイトをセクシュアリティから死の衝動に至るまでの思想の深遠なアーチに沿って導いたのである。最初に(第一次世界大戦までの期間に)、生存と欲望の間の最も取り返しのつかない対立の場所を明示的に定式化しようとする試みは、フロイトをオイディプス神話と父の法則という有名な読解へと導く。というのも、父との競争──幼児の母への近親相姦的な願望の相関物として生じる──が、危機に対する欲望と生存の間の関係を最初に持ち込むからだ。後に、死の欲動の定式化においては、欲望の供儀的な性格がより直接的に考えられ、 欲望は、単にオイディプストライアングルの中の存在者に対する脅威と構造的に統合されるのではなく、むしろそれ自身の経済の内在的な傾向によって死と関連していることになる。情動の強度は、今では、本質的に自身の消滅へと方向付けられたものとして、その始まりから戻ることを強要される死や無機物との分化として考えられている。しかし、意識的自己が欲動の変調であり、そのためすべての心理的エネルギーが無意識(そこから自我エネルギーが借用されている)に由来することを認識しているにもかかわらず、フロイトは、現実原理とその代表者である自我の権利に固執したままであり、したがって、治療的実践の原理として生存(あるいは適応)の要請を受け入れているように思われる。欲望の主張に対するこの基本的な偏見のために、精神分析は、常に自我の権威を希薄にするが故に補強する抑圧の技術へと堕落していく傾向があった。現実的原理と精神分析の保守的な瞬間の両方の用語で言えば、欲望は生の保全に反対する負の圧力であり、自己に対する危険で内面的な猛攻であり、個人とその文明を生贄にすることに向けて容赦ない力(force)を持っているのだ。
 メタ心理学とは、太陽心理学のことだ。フロイトの『快楽原則の彼岸』の中心には、彼のまばゆいばかりの宇宙的洞察がスケッチされている。


 生の目的がまだ達成されていない事物の状態であったとしたら、欲動の保守的本性と矛盾しているだろう。それどころか、それは‘古い’事物の状態、初期状態でなければならない。初期状態とは、そこから生命体がある時出発した状態であり、その発展が導く迷路(Umwege)によってそこへと戻ろうと努力している状態だ......。長い間、おそらくこのようにして、決定的な外部からの影響が、死という目標に到達する前に、これまで以上に複雑な迷路(Immer komplizierteren Umwegen)を作るような方法で変更されるまで、生命体は絶えず新たに創造され、簡単に死んでいる。これらの死への迷路[Umwege]は、忠実に保守的な欲動によって維持され、そうして生の現象という画像を今日、私たちに提示している。[フロイトIII 248p]


 生はエネルギーの空白から追い出され、混沌としたゼロの上の外皮として、死の上のカビとして塗りつぶされている。この外皮はまた、迷路──エネルギーベースラインへの複雑な出口──でもある。迷路の複雑さは、自身から脱出しようとしている生であり、自身から脱出しようとしている存在の脱出、迷路をさまよう者以外の何ものでもない。つまり、生はそれ自体が死への道筋である迷路であり、空白からの一方的な逸脱をたどる迷路(Umwege)の入り組みである。生の迷路を推し進める「決定的な外部からの影響」の源が、太陽ではないとすれば何だろうか?
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 近年の軍事史の中で最も深遠な言葉は「オーバーキル」であり、その言葉は欲望の地獄の核心から何かを映し出す言葉である。表面的には、パチンコで殺されようが、膨大な量の榴弾、ナパーム、白リン弾で殺されようが重要ではなく、この意味でのオーバーキルは、武器の不必要な浪費を意味する経済用語に過ぎない。しかし、ベトナム戦争──この言葉が芽吹いた焦土の──は、破壊力を金銭的基準で量化することにつながる一連の軍事的・産業的傾向の集大成であっただけでなく、薬理学と暴力技術の間の決定的な交差点でもあったのである。オーバーキルへの系統的傾向は、すでに黒焦げで吹き飛ばされているベトナム人の死体に武器が無駄に使われることを意味していたが、オーバーキルの地下的変位は、アメリカの徴兵軍の戦意喪失した兵士たちがヘロイン、マリファナ、LSDで「無駄に」(「電撃的に」、「爆撃的に」)使われることを意味していた。この交点は、(体系的な言語学的両価性によって辿ることができるように)、──最もシニカルな基準によれば──焼失、八つ裂き、一般的な生命の抹殺における絶対的な抑制の欠如が、内発的な熱望の、戦争の誇張法的な次元に反響を見出す欲望の不明瞭な中心であったことを暗示しているのである。
 アメリカの戦争機械によって東南アジア全体に気前よく配られた超包括的な絶滅が、(場所を奪われたとしても)西洋の羨望の強力な対象となったことは明らかではないだろうか。この紛争の後、非制度的な薬理学、セクシュアリティ、エレクトリック・ミュージックの大きな領域で起こったことのほとんどすべてが、そのような憧れを強く証明しているのではないだろうか。欲望されているのは「一掃」されることである。オーバーキルな熱望が明示的に出現した後では、破壊はもはや(
ニルヴァーナの原理としての)死の欲動のいかなる正統的な決定にも言及され得ない。なぜなら、死は途方もなく「マゾヒスティック」な要求が出発するベースラインに過ぎないからだ。死は、オーバーキルへの渇きに対して、生存が従来のタナトスの概念に対してあること、つまり最小の満足であることだ。死を欲望することは、息をすることを欲望するのと同じように、不可避なことの空虚な肯定である。欲望が興奮の集中的な巨大さを生成するために、運命から十分に距離を置くのは、オーバーキルを伴ってだけである。したがって、フロイトの神経系のエネルギーモデルにおいては、心理的興奮に寄与する二つの経済がある。愛の対象(自我を含む)を構成する様々な投資において精神(psyche)によって展開される(deployed)量的に安定したエネルギーの貯蔵庫があり、また異質な興奮の潜在的で破滅的な量を伴って神経系に氾濫する、他なるもの(alterity)とのトラウマ的融合という「全般経済」がある。この第二の経済のフロイトの認識と、(主に連続的で圧倒的な砲撃の影響に起因する)1914-18年の戦争神経症の発生におけるその役割は、死の欲動の発見にとって根本的なものであった。このようなトラウマ的経済がオーバーキルの考えに容易に影響を受けやすいとすれば、それはトラウマは、致死性が‘任意の程度(arbitrary degree)’に位置づけられ得る範囲内で、制限のない巨大さの一連の結果として生じているからである。
 熱力学の第二法則は、閉鎖系ではエントロピーが常に増加すると宣言しているため、生は、そこから無秩序を「輸出」することができる開放系の中で、‘局所的に’しか秩序を増やすことができない。このような局所化が位置を占める空間は、熱力学モデルによっては主題化されておらず、その前提条件の一つとして扱われている。その空間は暗黙のうちに、それを占める分布に対して外在的なもの、均質な拡張として考えられている。バタイユは、それとは反対に(むしろそれを当然とするのではなく)空間を考えている。このような思考に関連した基本的なテーマは「迷宮」というタイトルでまとめられており、本書の後半で詳細に検討されることになるだろう。 しかし、当面の問題は、宇宙エネルギーの貯蔵庫(0)という閉じた場と、交換に開かれた非平衡経済の局所的なよどみとの関係を理論化することである。
 「全般」経済と「限定」経済の違いを、「閉じた」システムと「開いた」システムの違いと同じように理解したくなる。どちらの場合も、前者の用語はエネルギー交換の全体的な分野を意味し、後者の用語はそのような分野内の分化した領域を意味しているように思われる。この種の翻訳は完全に不適切なわけではないが、状況を過度に単純化している。バタイユの描くような経済の中で循環するものは、相対的な隔絶や制限のための能力というよりも、全般的で局所的な知解可能性を持つ「内包物」である。有用性が負のエントロピーを前提とする意味(科学的客観主義の)があるのだが、この種の抽象的秩序は、有用性の基本的特徴である「配線構造(canalization)」[VII 467]とは全く異なるものである。熱力学の第二法則の具体的普遍化を阻害するエセ自律的領域は、バタイユが使っているような「構成」の条件ではなく、そのようなものとしての構成である。換言すれば、構成とは、空間「の(of)」真なる微分と同時におこるものである。
 バタイユはこのようにして、マルクスの分析の中で作動し続けている理想主義的なスキーマから「生産」を抽出し、政治経済批判に顕著なヒューマニスト的傾向を与えている。労働とは、神の創造を歴史的具体化に止揚する(sublating)原点ではなく、エネルギーを開拓-搾取(解放)するための非人称的な潜在性である。階級社会の人間化された開拓-搾取は、それが略奪する太陽の遺産によってのみ余剰生産が可能であるので、原型がないわけではない。バタイユの太陽経済学は、余剰の理論の不在によって開かれたマルクス主義の裂け目の中に刻み込まれ、真に原始的な(非人称的な)資源の蓄積を描写している。このような宇宙-歴史的経済は、「‘生産されたエネルギーは、その生産に必要なエネルギーよりも上回っている’」[VII 466]という公式によって公理化されており、地上の発展のメインシークエンスを描いていて、地上の発展とはそこからの逸脱なのである。
 厳密に言えば、リビドー的なメインシークエンス、非人称的蓄積、一次(太陽)抑制は生命と同時に出現し、最後の氷河期の後のある時期に定住的な農業が始まるまで、多かれ少なかれ裸の状態で存続している。生命とは、私たちがメインシークエンスという表面効果に与える名前に過ぎない。それに続く激しく不規則なリビドーのプロセスと比較すると、メインシークエンスは非常に安定しているように思われる。それにもかかわらず、リビドーがその先史から逸れていくのは、すでにその中で不安定になっているからであり、メインシークエンスの大部分が地質学的な時間軸の中で起こっているにもかかわらず、プロセスという幾何学的な加速への基本的な傾向の証拠は紛れもないものだ。
 メインシークエンスは燃焼サイクルであり、それは惑星地殻の物理化学的揮散として、エネルギーサイクルの複素化(complexification)として、あるいはより一般的には、有機物を構成する太陽経済回路の拡張として理解することができ、(「無機」)エネルギー的な、地球化学的な惑星基盤(infrastructure)のますます増加する割合を含んだ織物にそれを編み込むのだ。もちろん、有機物と無機物を区別することは最終的には意味がない。なぜなら、有機物は、メタ安定的な領域構成に織り込まれた無機的物質の断片の名前にすぎないからだ。もし否定の接頭語を使うならば、生命の側に置いた方が正確だろう。というのも、その違いは一方的であり、無機物が自分自身が非排他的であることを証明したり、その組織に無関心であることを証明したりするのに対し、生命は必然的に選択とフィルタリング機能に基づいて動作するからである。
 コロイド物質がメインシークエンスに入ると、それは二つの傾向を区別し始める。それはフロイトが「φ」と「ψ」の区別、あるいは交流と分離(内在性/超越性、死と混乱)の区別を伴ったより高いレベルにおいて特徴づけたものだ※8。有機的なリビドーは、表面的には二つの欲動のグループであるように見えるものが徐々に分化することで現れる(フロイトは後年になるまでそれらをそのようなものとして記述していない)。進行性の傾向は、まず核生成(原核生物から真核生物へ)によって、次に原形質を「生成細胞」と「体細胞」に分割する生殖線の分離によって、有機体を分離、「個体化」する。これはフロイトの「エロス」の古風な形態、つまり一方では細胞体(soma)と生成の間の緊張、他方では最終的にはセクシュアリティにつながる種の経済の中での散逸的な力(force)の保存だ。しかし、このエロティックなまたは種分化的な傾向は、溶解(タナトス)につながる退行的な傾向によって、ひっきりなしに危険にさらされている。
 「φ」または交流の傾向は、生物学的物質とその「外部」との間の様々な「相互作用」を強調し、そうして光反応性、同化、サイバネティックな規制、栄養摂取などに不可欠な有機的障壁的閾を下げることに相当する。これは、バタイユが一次的な内在性と関連づけた有機的機能の複合体である。「ψ」または孤立の傾向は、交換の抑制、不変の安定性の尺度を生成する障壁的閾の上昇、コードの保存、生体エネルギー備蓄の制御された支出などである。これらの傾向の複合作用は、有機体とその環境との間の融合の程度の選択的分布(与えられるのではなく生産される差異)に影響を与え、組成のレベルを不安定に安定化させる。φの最大状態(φmax)は、有機体の完全な溶解に相当し,その時点で有機体の存続は、ゼロの端で漂っている、無制限な偶然の問題であろう。他のどのφのレベルにおいても、有機体は統合の尺度を維持しており、我々が「有機体」と呼ぶものは、この可変的な凝集性、強度でしかない。つまりバタイユの「超越」の真の基礎、死の迷路のへりである。
 孤立または超越(ψ)は、徹底的な量である。というのも事前に与えられた広範な座標を欠いているからだ。言い換えれば、ψの出現に適した論理数学的な装置はない。というのもψは「それ自体が」同一性や等価性の基本的な尺度であるからだ。交流(φ)は、同一性と等価性の両方から逃れる。なぜならそれが無差異化、あるいは抑制のない流れ、すなわち徹底的なゼロ、エネルギーの空白、沈黙、死であるためだ。φ(dφ=ψ)からの微分のみが、資源として機能し、エネルギーの保管、沈殿している構成(形態、行動、符号)であり得る。したがって、徹底的な量ψは、広範な蓄積の基礎であり、通貨なのである。
 バタイユの経済学は、広範な交換(ψ1→ψ2)が原始的に蓄積的であるという原理に基づいている。広範な交換は、消尽(ψ→φ)と獲得(φ→ψ)という二つの徹底的な遷移から成り立っており、後者は常に交換の必要物を超えているので、ψ1 < ψ2となる。バタイユはこの点を強調しており、誤解の余地はほとんどない。「‘植物がその生の形式に当てるエネルギーは、その生の形式に厳密に必要なエネルギーを上回っている’」[VII 466]。「その生によって生成された充当エネルギーは、その生に厳密に必要なエネルギーを上回っている」[VII 466]。「生きるために費やされるエネルギーよりも多くのエネルギーを生産することが生命の本質である。言い換えれば、生物化学的プロセスは、エネルギーの蓄積と消尽として把握することができる。すべての蓄積は費用(機能的エネルギー、変位、戦闘、労働)を必要とするが、後者は常に前者よりも下回っている」[VII 473]。より専門的には、ψ1→ψ2=dφ→d+nφということだ。
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 マルクスは、その基本的なプロジェクトを「経済学批判」と題している。これはマルクスが──ブルジョアジーが経済体制について説明していることを解釈して──「労働」という言葉が二つの異なる意味で使われていることを発見したという点で、今では「ダブルリーディング」と呼ぶ人もいるかもしれないものに似ている。一方では、それは労働者が生産する商品に労働者が与える価値を示すために使用され、他方では、使用者に対する「生産コスト」や労働の価格を示すために使用されていた。リカード派の台頭により政治経済の伝統は、市場における商品の価格は、その生産に投資された労働の量に依存するが、労働者が労働の対価として支払われており、それが商品の価値に付加されているならば、商品の生産と取引において利益のための開口部を探し当てることは不可能であるという幅広い合意に達していた。マルクスの基本的な洞察は、自分の労働の対価として支払われるものと、労働の価値は、全く同じものではないということであった。彼は、労働者と使用者の間の取引の対象を「労働力(Arbeitskraft)」と造語し、「労働(Arbeit)」という言葉を、もっぱら商品の中で生産される価値にとどめていた。このようにして「労働」と「労働力」の概念を区別した後の次のステップは、労働力が他のものと同様に商品として機能することで、生産するために要した労働の量によって設定された価格で取引される可能性を探究することであった。仕事の能力と、その能力を再生産するために必要な仕事の量との間の差が、利益の起源の大きな謎を解き明かすことになるだろう。労働は、完全なシニシズムをもって歪んでいない市場で取引されているとすれば、そのような市場で取引されている他の商品が、その製造に必要とされる最小量の労働時間のコストに近似した価格に向かう傾向があるのと同様に、その実在の可能な限り最小のレベルで、その生計(subsistence)と再生産のコストに正確に等しい価格を命じ(command)なければならない。このようにして、マルクスは、経済全体における労働の平均価格は、人間の生活の生計費と大まかに等価であり続けるべきであると推測したのである。それは次のように、だ。

 労働の価値-労働の価格=利益

 しかし、なぜ労働力は、その生計にかろうじて十分な価格で取引されるようになったのだろうか。第一に歴史的なもの、第二に体系的なものであるが、このような分離は理論的な抽象化としてのみ可能である。これらの連動する議論はいずれも、労働の過剰、あるいは労働市場の飽和を説明するものである。
1 「いわゆる原始的蓄積」と題された『資本論』の章で、マルクスは資本の相続を把握しようとし、通常「エンクロージャー」という言葉で指されるイギリス史の出来事に関連する一連のプロセスを検討するように導かれている。ヨーロッパの農民の大規模な都市化は、人口のより大きな一部分を自律的な経済活動から切り離し、彼らを多かれ少なかれ暴力的に土地から追放することによって達成された。


 資本主義的生産様式の基礎を築いた革命の前奏曲は、15世紀の最後の3分の1と16世紀の最初の10年間に演奏された。自由なプロレタリアの大群が、ジェームズ・スチュアート卿曰く、「どこも無駄に満たされた家と城」の封建的な家来の集団の解体によって、労働市場に投入された。王権は、それ自体がブルジョアの発展の産物であり、絶対的な主権の後の争いの中で、これらの家臣団の解散を強制的に促進させたが、それは決して上のことだけが原因ではなかった。国王と議会との横暴な対立の中で、大封建領主は、土地に対して領主自身と同じ封建的権利を持つ農民を強制的に追い出し、共有地を簒奪することによって、比類のないほど大きなプロレタリアートを生み出した。フランドル地方の羊毛製造業者の急速な台頭と、それに対応するイングランドの羊毛価格の上昇が、これらの立ち退きに直接的な刺激を与えた。古い貴族は封建的な戦争で食い尽くされていた。新しい貴族はその時代の子供であり、彼らにとって金があらゆる権力の中の権力となっていた。それゆえ耕地を羊の散歩道に変えることはその叫びであったのだ。[『資本論』672p]


 都市化はこのように、ある意味では否定的な現象であり、一種の内的亡命である。自由主義的なイデオロギーの言語では、農民はこのようにして、農業生産との結びつきから「解放」されるのである。自由(Liberté)よ!
2 労働市場は、歴史的には農民の収用によって飽和しているが、そのような過剰を内在的なダイナミズムの外から生み出すことも可能である。言い換えれば、資本は、過剰生産への基本的な傾向のために失業を生み出す。競争の圧力で資本は、労働力の生産性を高めることによって、そのコストを絶えず減少させることを余儀なくされる。このプロセスを理解するためには、マルクスの理論の基本である二つの重要な区別を理解する必要がある。第一に、「使用価値」と「交換価値」の区別で、これはある生産物の有用性とその価値の区別だ。すべての商品は、使用価値と交換価値の両方を持っているはずなのだが、この二つの側面の間には、非常に希薄で間接的な結びつきしかない。生産性の向上は、商品のこれらの間の比率の変化であり、それによって、使用価値が安くなり、労働力が次第に大きな有用性の総和に変換されうるようになる。マルクスは、この変容が、経済の機能にとってより大きな結果をもたらす別の変容と結びついていることを示そうとしており、それは、「固定資本」と「流動資本」の区別によって定式化されている。固定資本とは、基本的にビジネスの世界では「プラント」と呼ばれているものである。それは、労働者を生産的に雇用するために、(直接的な)労働以外の要因に費やされなければならない資本の量である。これらの要因が生産の過程で消費されると、その価値は生産物に移され、製生産物の販売時に回収されるのだが、──歪んでいない市場では──剰余金や利益を生み出すことはない。一方、流動資本は、生産過程において消費される労働に費やされる資本の量である。これは、労働力の即時(immediate)利用、あるいは余剰価値の抽出として機能する資本である。したがって、利益を生み出すのは、資本のこの部分である。マルクスは、流動資本と固定資本の比率を資本の有機的構成と呼び、使用価値の相対的な増加、すなわち生産性の向上は、──歪んでいない労働市場が与えられるなら──固定資本の比率の相対的な増加と関連して、利益の減少につながると主張している。
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 マルクス理論を悩ませてきた問題は、ざっくりと二つのタイプに分類することができる。第一に、大都市の利益と賃金率が上昇しているという経験的証拠があるが、これはしばしば、マルクスの理論の違反として、性急に解釈される。実際には、問題は別のものであるが、労働における自由市場の不在の問題と関連している。最も簡単に言えば、達成されたシステムとしての「資本主義」があったことはなく、労働の商品化度の変化を含む商品化の‘傾向’が強まってきただけである。ブルジョア経済の発展には、政治的介入の官僚的-共同運営的な要素が常に存在してきたし、それは競争のよりニヒリスティックな潜在性を抑えている。マルクスが双方の絶滅する戦争につながると考えていた資本ブロックの個別化は、組織的に国家が支援するカルテル作りに取って代わられ、すべての産業経済における価格構造を完全に歪めている。
 第二の問題もまた、国家資本複合体と関連しており、「官僚的社会主義」または「アカの」全体主義の問題である。人々が植民地主義とファシズムから出来上がった余剰搾取に苦しんでいて、その搾取が権威主義的な国家装置によって非効率的に管理された「通常の」搾取に変容し得る場合を除いて、マルクスの名のもとに行われた革命は、労働生活の基本的なパターンに重大な変化をもたらしていない。マルクス主義は──広く知られているように──実際には失敗している。
 これら二つの問題のタイプはバタイユのマルクス主義とは無関係である。なぜならば、これらの問題は、それぞれ理論的、実践的な経済学から生じているためだ。つまり社会主義は強化された生産システムであるべきだという暗黙の前提、資本主義はあまりにもシニカルで不道徳で無駄が多いという暗黙の前提、革命はある経済秩序をより効率的なものに置き換えるための手段であり、社会主義体制は生産的資源の公的蓄積を管理すべきだという暗黙の前提から生じているためだ。バタイユにとっては逆に、「資本」は凝集性があったり形式化されたシステムではなく、善の専制(蓄積の利益における消費の多かれ少なかれ徹底した合理化)であり、革命は手段ではなく絶対的な目的であり、社会は成長を通してではなく、供儀的な祝祭の中でポストブルジョア共同体に向かって崩壊していくのである。
 政治経済を超えて全般経済があり、その中心にある基本的な思想は、無駄の絶対的な優越の思想である。というのも「あらゆるものは宇宙の尺度における富である」[VII 23]ためだ。バタイユは、地上のあらゆる経済システムは、太陽放射の一方的な放出に基礎付けられた全般的エネルギーシステム内の個別の要素であると主張している※9。太陽のエネルギーは何のためにでもなく浪費され(=0)、個別の経済内でのこのエネルギー循環は、使い道のない浪費への最終的な解決を中断することができるだけである。すべてのエネルギーは、最終的には無目的に、そして惜しげもなく使われなければならず、唯一の問題は、この使い道のない放出がどこで、いつ、誰の名の下に起こるかということである。さらに重大なことに、この放出または破滅的(terminal)消費──バタイユが「消尽dépense」と呼ぶ──は、経済学の問題である。というのも全般的エネルギーシステムのレベルでは、「資源」は常に過剰であり、消費は、バタイユが「合理的な消費」と呼ぶ二次的な(地上的な)生産性へと回帰する可能性があるためだ。世界はこのようにして、過剰を排除するためのメカニズムを開発するように突き動かされ、自身の豊かさによって常に窒息したり、毒されたりしている。「‘生物と人間に根本的な問題を提起しているのは、必要性ではなく、その反対物、つまり「奢侈」だ’」 [VII 21]。過剰の問題を解決するためには、消費が供儀的なエクスタシーや「至高性」へと移り行き、純粋さや埋め合わされていない損失の条件を達成するために、その合理的または生殖的な形態から溢れ出すことが必要である。
 バタイユは、地球上のあらゆる自然と文化の発展は、死の進化の副作用であると解釈している。なぜなら、死においてのみ生は太陽の反響となり、純粋な喪失という必然的な運命を実現するからである。この基本的な概念は、支配的なマルクス主義や精神分析的伝統の表象的な説明ではなく、理想主義的な残滓に基づいてはるかに解放された唯物論的文化理論を生み出している。というのも、それは、経済的基盤への統合のために、形而上学的に明確化された主体の媒介に依存しないからである。文化は、無媒介の経済である。なぜならデカルトの松果体や弁証法的な奇跡が知解可能性から実践へと変換するようなイデオロギー的な流れによって横断されているからではなく、その登録に費やされたエネルギーを、生産のレベルでは埋め合わされていない否定的なものへと変換することを常に脅かしている、文学的な可能性の憑き物だからである。バタイユの主張では、詩は「言葉のホロコースト」である。文化は決して資本生産を表現したり表象したり(奉仕したり)することはできず、資本との関係で妥協することができるのは、ブルジョワジーの俗物主義(philistinism)の前で自らを卑下することによってのみであり、その「文化」には禁欲的な拘束(restrait)と自己毀損を超える特徴がない。資本とは、まさに、そして徹底的に、最も確実な反文化である。
 資本主義は、それゆえ、消尽の最も極端な拒否の可能性(の投影)である。バタイユは、資本蓄積の進化とプロテスタンティズムの発展との関係についてのヴェーバーの結論を受け入れ、カトリシズムに対する宗教改革批判は、宗教が経済的消費の手段という「機能」として、あるいは社会的生産の過剰分を排出するためのものとして、本質的に宗教を批判するものであると見ている。プロテスタントが──派手な大聖堂の建築や、「御業」による救済の教義と結びついた社会経済的な装置全体を拒絶したことと同様に──免罪符を否認した事は、経済が自身を閉じ、近代的な形をとるための文化的な前提条件なのである。ブルジョア社会は、このようにして、原理的に消尽を完全に排除した最初の文明であり、貴族や教会の目立った奢侈と対立し、それらを商品の合理的な、あるいは再生産的な消費に置き換えている。慢性的な過剰生産の危機と、労働と資本の兆候的な余剰(redundancies)を必然的に引き起こすのは、ブルジョア経済のこのような構成原理である。資本生産が、「市場の飽和」と名づけられるようになる危機を「発明」したのではなく、むしろ、資本生産が、‘一つの問題として’の過剰生産の体系的な否認であるということである。余剰生産の吸収に厳格な(といっても、絶え間なく変位するが)制限を設ける必然性を認めることは、ブルジョアジーや行政階級(administrative class)が経済的ジレンマを定式化できる条件をすでに超えている。資本経済とは、消費の問題が生産の問題から原理的に導かれるかのように統制されている経済であり、そのため需要の不足として常に決定可能なものである(1930年から1980年のおおよその期間において、これは典型的に、米国の軍備支出を核とした準ケインズ的な解決策につながっていた)。対照的に、バタイユは、過剰の絶え間ない再生産に生産にとっての問題を見出しているのではなく、むしろ、古典的な政治経済に関して最も根本的な不連続性を示す方法で、‘ちょうど生産が成功する限りにおいて’、生産自体が本来問題であると見なしているのである。

注釈
※5 熱力学は、何よりも自然科学における統計学の革命と関連している。ミシェル・セールは『ヘルメス』の第三巻の「物理学の哲学は情報の理論である」[p.44]という言葉で、巧みに熱力学の重要性を強調している。それは確率論的記述の導入により、自然科学の形式と内容は原理的に微分不可能なものになるからである。この分野におけるセールの仕事の重要性は計り知れないものがあり、彼の文章は一貫して美しい。
 情報は離散的な変数ではなく連続的なものであるため、情報研究によって生み出される結果は量的性質を持っている。これらの量性は、負のエントロピー、あるいはネゲントロピーとして表現される。エントロピーの概念は、クラウジウスの仕事に由来し、カルノーの熱モーターの理論を基にしており、ボルツマンの原理S=K log Wで現代的な決定が与えられている。ここでSはエントロピーであり、熱に対するエネルギーの比率における項で表され、ボルツマン定数K(ergs/degrees)によって導かれる。Wは熱的確率、または可能な置き換えの総和だ。対数は、置き換え状態の追加が不可能性の冪乗と同等であるように使用される。これは、情報の概念の観点から簡単に理解できる。例えば、2ビットに2ビットを加えると4ビットになり、これはメッセージの精度が4倍になることに相当する。
 情報の理論はシャノンおよびウィーバーによる『通信の数学的理論』の記事から始まる。エントロピーの熱力学的概念は、「情報の不確実性」または「潜在的情報」を記述するために情報理論で採用されている。これは、そこから特定の信号が選択される可能性のある信号の集合である。潜在的な情報の一つの指標として、ライラ・ガトリンは、その著書『情報理論と生活システム(Information Theory and the Living System)』(このテーマについて私が見つけた中で最も明瞭で最も鋭いテクスト)の中で、信号の最大エントロピーを、彼女が「a」で表す信号のアルファベットにおける要素数の対数で等しくしている。そうしてボルツマンのK log Wは、log aと簡略化されている。二進対数(base 2 logarithm)が使われている場合、情報の単位はビットだ。与えられた信号の情報レベルは、システムのエントロピーに等しい。例えば、遺伝暗号のような4つの要素を持つシステムでは、4つの可能な信号や事象のうちの1つが、メッセージシーケンスの任意の位置で仮説上可能であるため、最大不確実性の状態では、各信号は2ビットに等しい log4の情報値を持つことになる。
 ガトリンは次のように書いている。「このように、潜在的情報のより高いエントロピーには、潜在的メッセージの多様性、大規模なボキャブラリー、surprisal value、および意外性の概念が関連している」 [p. 49]。潜在的情報は、エントロピーが最大値、つまりlog aに近づくにつれて増加する。一方で負のエントロピー、またネゲントロピーは保存された情報、あるいは情報密度に等しい。これは、システムの秩序の指標である。保存された情報が潜在的情報の割合として表現される場合、それは余剰(redundancy)と呼ばれる。「制約がなく、すべての可能な文字の組み合わせが同じ頻度で発生した場合、潜在的メッセージの多様性は最大になるが、エラーを検出する可能性は無いだろう。なぜならエラー検出と修正は禁止され制限された組み合わせに基づいているためだ」[p. 50]。 効果的な交流、まさに、制御システム内でのエネルギーの効果的な伝達には、源(raw)情報や無秩序と、安定性や秩序との間のバランスが必要である。「言語を通して意味を伝える能力は、エントロピーの最大値や最小値ではなく、多様性と信頼性という相反する2つの要素の微妙な最適化に依存している」[p. 51]。 このテーマに関する2つの非常に権威あるテクストは、カルナップの『エントロピーに関する2つのエッセイ』(ロンドン1977年)とクルバックの『情報理論と統計学』(ニューヨーク1968年)であるが、私はこの2つの著作を完全に理解することはできないと思う。
※6 E・ツェルメロの「極小Wiederkehreinwand」はポアンカレの公式に基づいた長期にわたるH値変換の繰り返しからの議論であり、方向性のあるH値傾向は粒子力学と矛盾することを示唆している。 エーレンフェストは、「力学における統計的アプローチの概念的基盤The Conceptual Foundations of the Statistical Approach in Mechanics」の中で、この異議申し立ては、ボルツマンが放棄した粒子衝撃(Stosszahlzatz)の観点における熱力学的過程の定式化に依存していると論じている[15-56頁]。
※7 ボルツマンは、ポワンカレの方程式をいくつか詳細に議論し[ボルツマン III 587p]、その本質的な傾向を「機械的微分方程式の積分という一義性と可逆性」[ボルツマン III 587p]にあるとして記述している。前の注釈を参照のこと。
※8 この違いは、「科学的心理学のためのプロジェクト」(私が引用したドイツ語版には含まれていないが、スタンダードエディションSE I 283pには含まれている)の中で最も明白だ。フロイトは『夢分析』[フロイトII 516np]の中の重要な注釈で、この普及について議論している。
※9 バタイユの太陽経済は、人文主義左派から自然主義であると頻繁に非難されている。このような自然化への抵抗は、超越論的哲学と同時にあったカント的な主張である(そして、最近の「理論」が示唆するような現代文化のポストブルジョア的な転覆ではない)。対象に対する反自然主義的なアプローチは、カント主義の開始のジェスチャーである。もし「イデオロギー」が(気取ったジェスチャーをする動きである)資本の合理性の名称として使われるとすれば、それは自然化ではなく反自然主義であり、これはこのイデオロギーの傑出した特徴である。これは、現実を非自然化することが必然的に「進歩的」な特徴を持たないことを示唆しているのではない。もし慎重に行われるならば──神話-神学的な回帰を伴わずに──、反自然主義は確かに、古いものに対する新しい金(利益)を援助し、リベラルと保守の間の論争に効果的に介入することができるが、しかしこれよりもはるかに多くのことがしばしば主張されているようだ。
 ブルジョアの知性が禁じていたのは、常に全く異なるもの、すなわち、自然な脱自然化の思想、あるいはリビドーの段階的拡大を認めることであった。このような理由から、バルトは、ニーチェとは異なる仕方で──正統的な記号論的学問として──批評の地平に刻み込まれているのである。


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