ニック・ランド『絶滅への渇き』第七章「牙を持つヌーメノン(サイクロンという受難-情熱)」

「牙を持つヌーメノン(サイクロンという受難-情熱)」


 最高概念は、それを伴って超越論哲学を始めることが慣例的である最高概念は可能なものと不可能なものへの分割である。しかしあらゆる分割は分割される概念を前提としているので、さらに高い概念が必要とされる。そしてこれはそれが何かなのか無なのかを決定することなく、一般的に問題を提示するような仕方で与えられた客体の概念である。[カント III 305-6]
 肝心なのはもはや風の言表ではなく、風そのものなのである。[Ⅴ 25(『内的体験』p.44)]


 Peter Hillmoreのレポート『Observer』は次のように始まる。


 描かれた海の上の描かれた船のようにのんびりとしている。水は今静まり返っている。ほとんど不自然なほど、まるで大規模な殺戮行為をやめて休んでいるかのように、オーガスムの津波で疲弊し切っているかのように。
 何も動いていないように思われる。先週には荒々しかった水が今では体の周りを穏やかに取り囲んでいる。半分泥に埋もれて、じっと、じっとしている子供が水の中に横たわっている。その手足はこわばって投げ出されており、身体は熱でむくみ、顔はボロボロで血まみれだ。
 その隣には仔牛の体が横たわっており、その目は末期の理解不可能な衝撃に大きく見開かれている。数ヤード先の道の真ん中には二匹の魚の死体が横たわっており、まるで海が自分自身に興奮したかのようだった。[5th May 1991, p.23]


 1971年まで東パキスタンに属していたバングラデシュは、ガンジス川とブラフマプトラ川のデルタ地帯に位置し地球上で最も人口密度の高い地域であると同時に、最も貧しい地域でもある。この国は豊穣さと災害が入り混じった自然遺産を持っており、そこの人々は貧困によって本質的力の遮られていない経路へと晒されている。嵐の前に裸で差し出されているのだ。18世紀に記録が始まって以来、少なくとも120万人のバングラデシュ人がサイクロンによって殺され、1970年の嵐だけで50万人もの人々が殺された。
 サイクロンは、潜在的に破滅的な帰結をもつフィードバックプロセスにおいて、隠れているエネルギーを角運動量に変換する大気の機械である。その出現条件は、暖かい水面、赤道から少なくとも5~6度の緯度(コリオリ効果が作用するような)、気柱の顕著な不安定性または低い地上気圧、そしてウインドシアがないこと、または事実上ないことである。これらの条件が共存すると、通常4~8日程度の期間でサイクロンが発達することがある。大きなサイクロンは1時間に35億トンの空気を下層大気から上層大気へと移動させ、毎秒10*25エルグのオーダーのエネルギーを放出する。サイクロンの中心部には、レーダーエコーが記録しない「目」や「コア」と呼ばれる低気圧の静かなゾーンがあり、それは嵐の角運動量や発現したエネルギーの不動のモーターとして機能している※11。
 大型サイクロンは巨大な爆発の衝撃を持ち、バングラデシュの海岸を襲うとき、ベンガル湾の浅瀬に無数の孤立したものを放り出しながら、泥の中に衝撃波を残す。土地への一般的な飢えと海に運ばれた堆積物の豊かさのために、これらの脆い痕跡は熱狂的に占領され、その上で米が栽培されその海岸から魚が収穫される。サイクロンが戻ってきて、前回の破壊の薄らとした名残を一瞬にして消し去るとき、これら地球の弱々しいさざ波に群がる農民や漁師たちの運命を思い描くというのは、難しいことではない。密集して元々あった泥の痕跡は単に浸水しただけではなく、固形と思われているあらゆるものが嵐の渦のなかに溶かされるように完全に消される。バングラデシュの海岸の人々は苛酷な真実、我々がそれから一瞬隠れることのできる苛酷な真実によって挿入話的に消費されていく。家父長制的な信仰、アイデンティティの教義でありバングラデシュで優勢なイスラム文化は、ユダヤ教やキリスト教よりもこの一掃のための準備をしているとは言えない。それにもかかわらず──そこではすべての安定性が洗い流され喪失感だけが支配する──サイクロンのような絶滅は、単に災害なのではなく宗教なのである。
 「純粋悟性の領域」についてカントは言う。


 この領域は、不変の限界において自然そのものに囲まれたひとつの島である。それは広大で荒れ狂う海洋に囲まれた真理の土地──魅力的な名前だ!──、幻想の生家であり、そこでは多くの霧堤や急速に溶けていく氷山が、遠く離れた海岸の当てにならない見せかけを与え、空虚な希望を抱く冒険好きな船乗りを新たに惑わせ、彼を決して放棄することができずしかし完成には至らない事業に従事させている。[カント III 267-8]


 超越論哲学は海への恐怖ではないのか?堤防や防潮堤のようなものではないのか?
 陸地が海に侵食されるように、外洋への憧れが私たちを侵食する。私たちの本性の根底にあるダークな流動性は‘陸地(terra firma)’の安全性に反発し、流出する表象を伴って私たちが溺死するまでその中に沈みこまされるような不安の波を引き起こす。‘向こうには何もない(Nihil ulterius)’。
 ‘カントは次のように始まる(Incipit Kant)。’
 ‘我々は両生類ではなく、固体の地球に属している。あらゆる馴染みない航海を放棄しよう。欲望の時代は過ぎ去った。私が予想する新しい人類は、謎に満ちた地平線を必要としない。彼らは海洋が狂気と病気であることを知っている。君たちの古き慄きを止めさせてくれ、そして鉄の海岸の夢に置き換えてくれ!’
 理性の正当な機能は、海からの防御であり、また大地の抑制でもある。つまり無益な探検で苦労して蓄積した資源を浪費する傾向を阻止すること、バタイユが表現するように「消尽に反対する障壁」[II 332]である。それは要塞化された境界線であり、あらゆる不確実なもの、解決できないもの、溶解したものを閉じ込めるものであり、未知のものに対する、死に対する防波堤である。これはホーエンシュタウフェンのフリードリヒ2世の大規模な埋め立て計画と連続する構造である。排水の問題、湿地と乾地の厳密な分離、沼地と曖昧な地形の根絶、土壌の硬化(「蚊やその他の刺すような昆虫が、アメリカの荒野を野蛮人にとって大変なものにしている。湿地を排水し、空気を遮断する鬱蒼とした森の中に光を取り入れ、そうすることで、土壌を耕すことと同じく、彼らの住居をより衛生的なものにするように、原始人たちに促すためには、非常に多くの鞭が必要かもしれない」[K X 328])。このような陸地主義は、プロイセンの古典的な時代において、大陸的野望への政策の制限においてその頂点に達する。このように、それはある種の硬さ、つまり死に対するある種の意図的な盲目、傷のように自由に流れるあらゆるものに対するある種の盲目によって特徴づけられている。
 ショーペンハウアーやニーチェとは異なり、バタイユは違った仕方で、至高の客体である一神教的秩序に支配された西洋の歴史の枠の外に自分自身を置き、またそれに対立する東アジアのゼロと自身を結びつけようとしており、一なるものに対する‘逃げ場のない’闘争に身を委ねているように見える。ニーチェよりもはるかに、バタイユはゼロを一なるものからの引き算と──神の死として──考え、苦悩のうちにゼロへと近づいていく。このようにしてバタイユは、ヨーロッパの近代化の流れに多大な影響を与えた手順、すなわち定住的共同体の解消と調和した、合一性からの進歩的な問題化の手順に自分自身を合わせるのである。このような思考の最も強力な例は、資本の文化的中心地、すなわちカントによって開始された批判的哲学に見出される。
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 バタイユは『内的体験』をインド人について言及するページを作るために「中断」[Ⅴ 29]する。その章は、他のいかなるタイプの救いよりも再生からの解放に興味があることはないという彼の主張を補強するために設計されたテクニカルな議論で終わる。彼はインド人の禁欲主義をキリスト教のそれと比較し、過剰の名の下に両者から自分自身を遠ざけ、「インド教徒の素朴さ──純粋さ──」[Ⅴ 30]とは親密性がないふりをする。おそらく最も重要なのは、次の言葉の中に暗示されている混乱と不足の肯定である。すなわち「インド人たちが不可能事のなかへ深く入ってゆくということを、私は疑っているわけではない。だが‘最高段階’で、彼らにとって大切なものが、つまり表現能力がなくなってしまう」[Ⅴ 31]。バタイユが神秘主義者であることを嫌うのは、彼が作家だからである。彼がインドについて理解していることの中で──彼はインドについての深い知識はないと主張している──彼が無条件に支持している唯一の信条がある。すなわち「肝心なのは強度のみなのだ」[Ⅴ 29]。
 内的体験は、神秘主義を伝統のうろこの端(scurf-edge)にある曖昧な語彙に翻訳する。『無神学大全』の最初のジェスチャーとして、それは神の残骸のうちで始まる。──ほかのニヒリズムの哀れな浪人である──セリーヌに倣って、彼は体験を「人間の可能性の果てへの航海」[Ⅴ 19]と呼び、内面性を自己の秘密の奥(recess)ではなく、接触と伝染の平面(plane)として考えている。内的体験の核心は、個人的な同一性ではなく、自分自身さえも排除された裸形の強度であり、未知のものへの壊れた傾きとしてキリスト教教義の廃棄物から突き出ているのである。彼は、「内的体験とは恍惚である」と主張する一方で、「恍惚は、交流であり、おのれのなかへの自閉状態と対立している」[Ⅴ 24]とも主張している。
 私的な夢想として、また関係性からの離脱として内的体験を組織化するのは客体の秩序である。何よりもそれは宇宙というスケールにおける個化の牢獄を再現している一神教の神──至高で絶対の存在──である。これこそ、バタイユの航海の最後のランドマークを絶えず苦しめる未知なるものの恍惚が、神学的体系-建物の可能な諸復活に異議を唱える理由である。彼は次のように述べている。


 私も、神の把握などというものは、たとえ形もなく様態もないものであろうとも、私たちを‘未知のもの’のほうへ、いかなる点でももはや非在と識別できない現存のほうへ導いてゆく運動のなかでの、一つの休止としか見てはいない。[Ⅴ 17]


 このような完全な酩酊状態は、カントの予想とは全く異なるものである。といってもカントもまた、自分の旅路を導くための独断的な神学の権利に異議を唱えているのだが。


 厳密であり公正でもある批評の誠実さ以外には、想像上の快楽という擬似餌を通して多くの人々を理論と体系に捕らえ続けているこの独断的な妄想から私たちを解放することはできない。このような批判は、私たちのあらゆる思弁的な主張を可能な経験の分野に厳密に封じ込める。そしてそれは、繰り返される失敗を浅はかに嘲笑したり、理性の限界を敬虔に嘆息することによってでははなく、確立された原則に従ってこれらの限界を効果的に規定することによって行われる。自然が自身を打ち建てたヘラクレスの柱に「向こうには何もない(Nihil ulterius)」と刻まれているのは、私たちの理性の航海が、経験の連続的な海岸線の到達する以上には伸びないようにするためなのだ。──その海岸というのは、私たちを常に欺くような展望で魅了した後、最終的には、この面倒で退屈な努力をすべて絶望的なものとして放棄せざるを得ないような、岸辺のない海洋の上を旅しなければ離れることができないのだ。[カント Ⅳ 392–3]


 カントにとって、海洋、果てしない広がり、正のゼロとしてのむこうの虚無(Nihil ulterius)に到達したことは十分ではない。彼は海洋を絶対的な航海の空間として、それゆえ絶望と浪費の空間であると認識している。彼にとっては別の海岸だけが海洋を取り戻すことができ、それはどこにも見つからない。ゼロの荒廃の中で自分自身を失うよりも、乾いた土地に留まる方が良い。彼が「ヌーメノンの概念は...単に‘限定的な概念’である」[カント Ⅳ 282] と言うのは、このような理由からである。
 このようにして、客体への西洋的な強迫観念は、そのニヒリズムの盲目的な受動性の中で自身を完結させるのである。経験を超えて、「未知なる何か」[カント III 283]が思考されなければならないことが示唆されているが、「そのようなヌーメノンがどのようにして可能なのかを理解することはできない」[カント III 281]。 より正確には、


[......]それ[ヌーメノン]は、確かにどんな仕方でも肯定的なものではなく、何かの規定的な知識でもないのだが、私が感覚的直観の形態に属するあらゆるものから抽象化した一般的な何かの思考を意味するだけである[カントIII 281]。


 超越的対象が見つからないということは、無対象性との、あるいは無対象性を介しての接触の感覚というよりも、失われたあるいは欠如した対象の感覚を保持している事象である。海は、陸地の機能不全として以外には意味を持たない。ヌーメノンについては何も知らないと思われるとしても、それは「割り当て可能な意味を持たない」[カント III 303]と言われており、人はそれが終わりのない無対象の浪費や、強度ゼロで触れられた空虚な面以外の何かであることをなぜだかまだ知っている。カントはこの点では特別に断固とした態度をとっている。


 このような理解可能な対象が与えられ得る方法はいかようにも考えられない。それらのために場所を空けてしまうような問題意識は、空虚な空間のように、経験的原理の制限に奉仕するだけで、それ自身それらの原理の領域を超えた他の知識の対象を含んだり明らかにしたりすることはない。[カント III 285]


 ヌーメノンとは、主体の不在であり、したがって、経験には原理的にアクセスできない。批判的事業の最初の段階で、いわゆる「ヌーメノンの主体」がまだ存在するとすれば、それは、神学的推論の残滓が、転移に耐えられない、あるいはそのようなものとして時間と同義である自己の層を抱いているからに他ならない。これが「真の」または「深い」主体であり、自己または魂であり、その経験的な具体化を減じることなしに切り捨てる主体であり、死すべきものの不死なる主体である。ヘーゲルにとって唯一残っているのは、この主体を死と、精神(Geist)の有限性へのアレルギーによって必要とされた死と厳密に識別すること、‘それ自身にとっての’死の概念を獲得することなのだ。しかし、これは、「of」が主体の所有格に翻訳されても、主体の不在であることに変わりはなく、ゼロの地点では、何の違いも生じないのである。
 カントによって、死は資本と相関関係のある準客観性として理論的な定式化と功利主義的な枠組を見出す。そして‘ヌーメノン’とはその名である。哲学におけるこの用語の効果的な浮上は、過剰の深遠な合理化の上に、あるいは享楽的な致死性の厳格な包囲の上に築かれた社会秩序の出現と一致していた。啓蒙合理主義がその支配を始めると、年を追うごとに、公共の場で首を吊っている死体が減り、文鎮として使われる頭蓋骨が減り、路上で安らかに果てる貧乏人が減る。墓地でさえも合理化されて片付けられている。 それゆえ、カントと共にタナトロジーがその歴史の中で最も大規模な再構築を経ることは、驚くべきことではない。聖職者のハゲタカは粛清、あるいは排除された。死は、生産物に超越的な言及を差し込み、それらの超地上的な利益の権利を確保し、もはや文化的に流通している。その代わりに死は私有化され、内面へと引き込まれ、公的認定のないナルシシスティックな不安として契約の端でちらつくようになっている。資本の不滅の魂と比較すると、個人の死は、経験的な些細なことであり、単なるストックの再配分に過ぎない。
 第三批判の「崇高の分析論」においてカントは──「否定的な快楽」を通してだけであっても──私たちが死を味わう可能性を暫定的に提起しているが、死が私たちを野蛮にする可能性を提起しているところはどこにもない。ヌーメノンとして実証化された(positivized)としても、死は物質、慣性、女性性、去勢を通り抜けていくコノテーションの連鎖の中に閉じ込められたままであり、骨抜きのリソースと柔軟な粘土としての平和的で有神論的な意味の中に留まっている。カントの思想には基底-低次物質のための場所も領域もない。というのも自然界における自己生成性(auto-generativity)でさえ、合理的な意志の調節的な類似物として考えられているからである。人はまずヌーメノンを問題の客体としての規定から解き放たなければならない。それは物質と死の間にあるある種の同一性と入り組んだ関係を垣間見るため、あるいは換言すれば、ゼロの端に物質を付している一方的な差異を垣間見るためなのだ。この共犯性は、物質の数学的理想化に不可欠な慣性や、他の種類の機械的不毛とは何の関係もない。物質はそれが‘単に’他のものであるよりも単に死であるということはない。なぜなら、単純性は、基底-低次物質性を無効にする主体と客体との間の超越的分断のオペレーターだからである。物質にとっての「適切な」死とは、その不適切さのギザギザした端、その歯だ。死が噛みつくことができるとすれば、それは、客体に適切と思われる能力(potency)の断片を保持しているからではなく、客体性に伴う抑制に捕らわれずにいるからである。
 死は孤独に嵐と伝染病のダークモーターとして吠えながら、完全に逃亡中である。すべての生命の無慈悲な抽象化の後には、真なる時間の空白の野蛮さが残る。それは抽象化の現実そのものが時間であるためだ。その時間とは、砂漠、死、あらゆるものの荒廃である時間なのだ。バタイユは「あらゆるものの無への絶え間ない横滑り。人が時間を欲するときの」[Ⅴ 137]と書いており、自分自身を「時間(TIME)の歯」[I 558]と考えている。 また──よりニーチェ的な脈絡で言えば──ゼロになることは、それにとってはあらゆる客体が子羊である猛禽類に喩えられているとも言える。
 抑圧は常に失敗するものだが、都市の郊外に静かに死を埋葬してビジネスに取り掛かろうとする試みほど、そのような失敗の華々しい例はない。ちりばめられたゼロの歴史的表面だけが粘土の中に捕らえられ、死を究極の流動性にまで蒸留し、その浸透力を最大化する。マルクスは『資本論』の中でこの濾過プロセスを書き留めており、そこで彼は貨幣/死について「与えられた商品の変態の回路から脱落してもそれは消えない。それは常に、他の商品によって空にされた循環の場の新しい場所に沈殿している」[『資本論』 114]と述べている。死んだ労働力は生きたスタッフ(stuff)が労働力であるよりも制御するのがはるかに困難であり、だからこそ、ゴシック的迷信を埋葬している啓蒙活動は、死だけがルールとなる最初の真なる吸血鬼文明への王道であった。
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 政治とは、資本の宗教史の中に過ぎ去っていかなければならないものの古風で不充分な名称である。効果的な反資本主義的利益は存在せず、ゼロと同盟した反ブルジョア的欲望だけが存在する。蓄積的プロテスタンティズムの悪名高い禁欲主義は、すでに最後の支配階級の自殺を予見しており、全人類の死への決定的な降伏を見越している。マルクスは『グルンドリッセ-経済学批判要綱』の中で言う。


 資本カルトは、禁欲主義、自己否定、自己犠牲──経済と倹約──、平凡で一時的で儚い快楽への軽蔑を持っている。永遠なる宝の追跡。そして英国のピューリタニズム、あるいはオランダのプロテスタンティズムと金儲けの接続。[『グルンドリッセ』 232]


 ウェーバーは次のように述べている。「この禁欲主義はそのすべての力でもって、一つのこと、すなわち生活とそれが提供するすべてのものを自発的に楽しむことに敵対していた」[『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』 166]。これが資本の宗教史への最初の衝動である。あらゆる教義的神学を禁欲主義的理想へと供儀にすること、それは最終的には神の死によって完結するのである。共同体の重大な利益を要約し、擁護する具体的な信仰とコードに根ざし、それゆえに頑強な擬人化に結びついた一なるものの神学は、徐々に破局的宗教の非人称的ゼロにまで腐食されていく。その初期の段階では、資本はまだ自制心の問題であるが、数世紀後には、それに抵抗するために残された有効な自己がないので、その厳格な倫理観は痩せ細っていく。ウェーバーを再び引用しよう。


 人間は金を稼ぐことによって、彼の人生の究極の目的としての獲得によって支配されている。経済的な獲得は、もはや物質的な欲求を満たすための手段として人間に従属することはない。自然関係と呼ぶべきもののこの逆転は、ナイーブな視点から見れば、非常に不合理であり、資本主義の影響下にないすべての人々と相容れないのと同様に、決定的に資本主義の主導的原理であることは明らかである。同時に、それは、ある種の宗教的観念と密接に結びついている一種の感情を表現している。[同上 53]


また


 現代[1904-5年!]の資本主義経済は、個人が生まれた巨大な宇宙であり、それは少なくとも個人として、個人が生きなければならない不変の事物の秩序として、個人に自身を提示している。それは個人が市場関係のシステムに関与している限り、資本主義的な行動規則に従うことを強制する。長期的にはこれらの規範に逆らって行動する製造業者は、それらに自分自身を適応させることができない、または適応させない労働者が仕事なしで路上に放り出されるのと同じように、必然的に経済の場から排除されるであろう。[同上 55]


 一旦商品システムが確立されると、抽象的な物=客体の秩序への自律的な文化的衝動はもはや必要とされない。資本はそれ自身の「無骨な勢い」に至り、その中心が非人称的な大都市の蓄積のヴァーチャルなゼロである溶融の激しい旋風を永続させている。生産性の頂点に達したヒトという動物は、あらゆる安定的なものが嵐の中で徐々に流化されるときに、新たな裸形へと投げ込まれるのだ。
 バタイユは、未知なるものを自身が「天の空虚への引き裂かれるような落下」[Ⅴ 93]と表現した「空虚に向かっての目が眩むような運動」[Ⅴ 94]と結びつけ、カントが分離しようと努力してきた二つのテーマ、ヌーメノンと強度ゼロ(intensive zero)のテーマを互いに打ち砕いている。カントがヌーメノンを非論理的に(illegitimately)お互いから区別しているということはカントの直後の世代の著作で頻繁に指摘されているし、バタイユはこの問題への応答において明らかにショーペンハウアー的な動機(impetus)を共有している。しかし、ヌーメノンとゼロの間の区別が精力的に問われるのはニーチェまでではなく、その時でさえこれは散発的で省略的な仕方においてのみ請け負われるのだ。この問題に魅力的な執念で応答したのは、まずバタイユ、そしてドゥルーズであり、彼らはこのようにしてカントの挑戦に対するより平凡な回答であった現象学的なつまずきを無効にするのである。
 カントがヌーメノンとゼロ強度の混同に抵抗する場所で、バタイユはそれらを互いへと痙攣的に流し込む。バタイユの著作はすべて──主に文学的、哲学的な性格によって特徴付けられるかどうかにかかわらず──忘却、不連続性、不完全性によって切断されている。ゼロだけが断片化されたり、分断されたり、分割されたりすることはできない──それは統一性のない無差異化可能性である──が、分離的存在にとってのこの連続性の消費は限界がない。


 私たちは、いかさまをせずに道のものへ向かって突き進んでゆくことで、はじめて真底から赤裸の存在とされるにすぎない。神の体験に──あるいは詩的体験に──偉大な権威を授けることができるのは、あの未知のものの領域だ。だが未知のものは、ついに分割されない一帝国を厳しく要求するに至るのである。[Ⅴ 17]

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 第一批判においてカントは、カテゴリーの四つのクラスに相互に相関している無の四区分を区別している。それらは、対象なしの空虚な概念である‘思考物(ens rationis)’、概念の空虚な対象である‘欠如無(nihil privativum)’、対象のない空虚な直観である‘空想物(ens imaginarium)’、概念なしの空虚な対象である‘否定的無(nihil negativum)’[カント III 306-7]である。カントが書いているように、ヌーメノンに適用されるのは、これらの無のうちの第一のものである。


 すべてのもの、いくつかのもの、一つのものという概念には、すべてを打ち消す概念、つまり‘無し(none)’という概念が対置されている。このように、何の割り当て可能な直観も一致しない概念の対象は、=無である。つまり可能性間で考えられ得ないのは、ヌーメノンのような対象なしの概念(ens rationis)である。そのためそれらは不可能であると宣言されてはならないのだが...。[カント III 306]


 カントはヌーメノンに関して「=無」という無関心なジェスチャーを行うが、限界づけられ得ないゼロの体系的抹消の中でのみ、それを対象のカテゴリーの下で壊すのだ。そのカテゴリーとは──4つのクラスに従えば──数学的統一性、意味的定義、実体的相互作用、論理的同一性という逆の特徴でもってそれを押しつぶしているカテゴリーだ。バタイユの供儀の思想の歴史的な力にとって重要なのは、このカントの明確な表現の一般的な傾向と、それぞれの特殊な要素の両方に異議を唱えていることである。供儀は、カントが無の四つの側面に割り当てた、減算、剥奪、無力、弁証法の特徴を共有するのではなく、ゼロを、区別できないほどに前単一的(pre-unitary)で奢侈で一方的で不可能なものとして特徴づけているのである。
 ヌーメノンは主に認識論的な問題ではなく、宗教的な問題である。 バタイユは次のように書いている「ある種の亀裂──不安の中での亀裂──が、私たちを涙の極限に打ち棄てる。このとき私たちはおのれを滅ぼし、自己自身を忘れ、かくて捕捉しえない彼岸と交流するに至るのである」[Ⅴ 25]。彼が「最終的に垣間見える人間の唯一の真理は、答えのない嘆願である」[Ⅴ 25]と付け加えるとき、他なるものへの言及が現象学的な方法で体験に固有であることが示唆されているのではなく、むしろ、本当の限定や制限であるという観点において、体験は喪失や供儀の軌跡に内在するものであることが示唆されているのである。既知のものと未知のものとの関係は、限定経済と全般経済の差異のパターンに倣って、一方的なものであり相互的なものではない。ゼロでは私性(privacy)が存在せず、区別のつかない宇宙的砂漠、非人称的な沈黙、非人間的な感情の最も深い深淵でしか触れられない風景だけが存在するために、ゼロはそこでは「死はある意味では欺瞞である」[Ⅴ 83] 全般経済へと爆発的に展開される。バタイユは書いている。「絶望は単純だ。それは希望の欠如であり、いっさいの甘い餌の欠如である。それは広大な無人地帯であり──私にはそれがありありと見えている──太陽の状態だ」[Ⅴ 51]。これは内在や未知なるものの領域、すなわち恍惚や裸形の感覚とは一方的に区別された、ゼロ強度としての積極的な死である。これは、バタイユの著作の中で死を味わうことと関連している全体的に不安定な複合体であり、例えば『内的体験』の中で彼は次のように述べている。「私は耐えがたい非-知のなかにとどまる。それは恍惚それ自体以外どんな脱出口も持たない」[Ⅴ 25]。
 バタイユは著作の中で暗示的にあるいは明示的に、巧みな唯物論的ジェスチャーを繰り返している。それは、超越的な教義が体験に対する外部を仮定することのうちにあるのではなく、むしろ忘却への横滑りから切り離された体験を仮定することにあるということを示している。体験は決して溶解した現実を理解したり定義したりすることはできず、それができるかもしれないという主張は、客体性への功利主義的再構築の結果として症候学的に解釈される。バタイユはこのようにして、認識論の道徳的基礎に関するニーチェの診断を繰り返している。──表象の理論を要求する──体験と現実との関係についての問題のかなりの可能性は、「善」、換言すれば安定的なもの、孤立的なもの、規定的なものの観点において体験を歪形させることを前提としており、それは客体の形象でのヌーメノンの檻と相関している。あからさまであったり狡猾であったりする理想主義の基本的前提とは全く異なるものとして、体験は現実に知識としてではなく、崩壊として与えられるのである。
 ちょうどカントがヌーメノンを客体として定義することで飼い慣らしたように、カントは純粋意識として考えることで、ゼロ強度を飼い慣らしている。主体/客体関係の──すなわち認識論の──曖昧な痕跡は、「純粋直観=0」[カント III 208–9]であっても、知ることの極と知られた極を実体化することによって、内的体験の運動を強いる。バタイユが次のように主張し、言及しているのは、このような強制を拒否することなのだ。すなわち「体験は主体と客体の融合に達することで終わりを迎える。それは未知の客体のように、無知なる主体である」[Ⅴ 21]。また「自分自身」について「これは世界から孤立した主体ではなく、交流の場であり、主体と客体の融合なのである」[Ⅴ 21]。ゼロに対する超越論的観念論的な扱いから、低次唯物論的な扱いへのこの移行には、地震的帰結の違いがある。例えば、カントの‘スキーマ論’におけるゼロ強度の議論は、免疫化された内的感覚によって厳密に枠にはめられ、表象と可逆性の観念論的構造によって特徴づけられている。


 さて、あらゆる感覚にはその程度や大きさがある。他の部分が同じままである客体の表象に関しては、それは、多かれ少なかれ内的感覚を占め、無(=0=negatio)の中での消滅に至るまでの一方とそれと同じ時間を埋めることができる。したがって、現実と否定との間には関係と繋がりが実在する。というか、量として表象可能なすべての現実をつくる一方から他方への移行がある。時間を満たす限りにおいて何かの量としての現実のスキーマは、ある種の程度を持つ感覚からその消滅点へと私たちが連続的に下降していくか、あるいはその否定からそれの大きさへと徐々に上昇していくように、時間におけるその現実の連続的で統一的な生産である。[カント III 191]


 これは特に極端な一節であり、彼はその多くを後に緩和するだろう。例えば「感覚はそれ自体において客観的表象ではない」[カント III 208]ことを受け入れ、また中身のない直観の可能性を大々的に問題化している。しかしこのようなあらゆる掠め取り(subtilization)にもかかわらず、カントは個化された主体の私性の観点からゼロを考えるという彼の頑固な主張から決してはずれることはない。このような‘欠如無’の人間主義的使用は、以下の言葉の中で最も顕著に示されている。


経験的意識から純粋意識への段階的な移行は可能であり、前者における現実は完全に消え、空間と時間の中の種々のものについての単に形式的でアプリオリな意識が残る。[カント III 208]


 純粋性は、もちろんカントの批判書の全体を通して、ほとんど計り知れないほど重要なモチーフである。その多くの機能のうち、この一節のなかで特に鋭い定義によって垣間見ることができるものがある。それは、抽象作用の主体化、すなわち死の主体の力への昇華である。主体の消滅は、思考が感覚の受動性に対抗してそれ自身にとっての自律性を獲得するための表象スキーマとして思弁的に浮遊している。カントは、純粋意識が忘却であり、死であり、それ自身において主体──すなわち無(=0)──であることを否定しているのではない。彼は暗黙のうちに想像力に委ね、単に問題を回避しているのだ。純潔は第二の力に対する否定であり、それによって死はそれ自身さえも脱現実化する。これらの否定を双方向に考えることは超越論的観念論と無垢な道徳性につながるが、一方的に反響することは、低次唯物論と病んだ宗教につながる。一方では自律への傾向が冷静に強化され、他方ではそれが狂ったように破壊される。死は神によって麻痺しているか、物質に溺れているかのどちらかである。
 カントはバタイユと同様に、脱出口においては連続的な流れの問題があることに気付いている。『知覚の先取り』の中で、彼は次のように述べている。


 それらのどの部分も可能な限り最小ではない、すなわちどの部分も単純ではない大きさの性質は、それらの連続性と呼ばれている......。そのような大きさは、おそらく‘流れ’と呼ばれる。というのも、それらの生産に関する生産的想像力の合成が時間における進行であり、時間の連続性は通常、流れまたは流れ去りという語で示されているためだ。[カント III 211]


 最終的に低次唯物論的な結論へのこの思考の迷走を阻止するのは、時間のカント的概念の飼い慣らされた性格である。純粋性は‘アプリオリ’を条件とし、それは時間をそのようなものとしてヒュポスタシス化するし、それは順番に強度を観念化する。こうして、そのような流れは、ゼロへの終わりなき下降のなかで凍結され、表象の永遠の形態として固定される。このために、カントは強度について全体的に非歴史的な理解を持っており、その抑圧の肯定的秩序、すなわち流れ(連続性)の抑制を把握しそこなっている。換言すれば、カントは認識論の檻からリビドー唯物論や低次唯物論の方向に逃れるために十分なラディカルさをもって、客体の問題を提起していないのである。彼は、ヌーメノンとゼロ強度の間には違いがないことを認めていないし、どちらも分離される可能性がないことも認めていない。何よりも、彼はゼロが一神教文化の第一の抑圧であるという明白な事実をどこも疑っていないようで、そのためその集中的な影響は歴史的に満ち満ちている。バタイユは、一つのコメントの中で、これらあらゆる逃避の断層線(fault-lines)を破壊的に掘り下げている。「極限は終わりにある。死のように終わり以外のどこにもないのだ」[Ⅴ 57]。
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 バタイユのカント的ヒューマニズムからの脱却は、崩壊の亀裂から別の亀裂へと確実に移動するように、冷酷なまでの正確さに特徴付けられる。連続体はヒューマニズムの封じ込めから決定的に剥ぎ取られ、客体の秩序はゼロのスケールで深遠さと争われ、内面性は非人称的な強度のポイントにまで裸にされている。 『瞑想の方法』で彼は『内的体験』への批判に答えている。


 連続体という言葉で、私は、分割不可能にしてかつ決定的に隔絶した諸個人という基本的表象に対立する、人間総体という連続した場を考えている。
 『内的体験』に加えられた批判、「刑苦」の章にもっぱら個人的意味を与えているような批判は、「連続体」との関係において、その批判の主たる諸個人の限界を示すものだ。「刑苦」の試練が不可能であるような「連続体」の一点が存在することは、単に否定しえないというだけではなくて、この「点」は、極点に位置しつつ、人間存在(連続体)を定義づけるものなのである。[Ⅴ 195]


 ヒトという動物は、それを通して地上的過剰がゼロへと血を流すものであり、歴史の中で自分自身を抹殺し、太陽の嵐へと自然を完全に供儀にすることを運命づけられている動物である。資本は、客体が原-分裂症的な商品化の蒸発へと放り出す間、太陽の解放に駆り立てられながら、絶滅に向けてエネルギー的揺らぎを追求し、私たちを破壊し再構築していく。歴史の深い流れに触れることで、バタイユは、強度がもはや先取りされた知覚とは考えられず、むしろ神の死の恍惚、一なるものの譫妄的な溶解として考えられることを確証している。


 とりわけ、もはや客体はない。恍惚は愛ではない。愛は所有であり、客体を不可欠とし、同時に客体は主体の所有者、客体によって所有される主体の所有者となる。しかし恍惚においては、もはや主体=客体の関係はなくなり、この双方のあいだに「大きく口を開けた裂け目」が存在する。そしてこの裂け目のなかで、主体と客体は溶け去り、そこには移行が、伝達が出現するが、ただし一方から他方への移行、伝達ではない。一方も他方も明瞭な現存在を失うのである。[Ⅴ 74]


 欲望は太陽からドクドクと出てくる宇宙的狂気に応え、愛を超えて完全な交流へと滑っていく。これはキリスト教との最終的な決別であり、西洋人の終末的なセンチメンタリズムからの低次的流れの切断であり、サイクロンを前にした裸としてのニヒリズムである。もはや愛のエネルギーとしてではなく、非人称的な情熱の出来事としてのみ愛するなまのエネルギーとしてのリビドー。もはや嵐においてのルサンチマンを通じてではなく、嵐を通じた合一。二次的なプロセスのレベルでは、救援のしずくがバングラディシュとの関係における西欧のアクチュアルなけちさを表現しているが、一次的な欲望の層では、西欧はそのヴァーチャルな鷹揚さの中で、すなわちサイクロン的情熱(それは単にサイクロンへの情熱なのではない)の中で、激化させられるのである。


 人間は動物とは異なり、自身を傷つけその核にまで溶かすようなある感覚を体験することができる。これらの感覚は個人とその特定の生き方に応じて変化する。しかし例えば、血の光景や嘔吐物の臭いは、私たちの中に死の憂懼を呼び覚まし、時には苦痛よりも残酷に痛みをもたらす吐き気のような状態に私たちを導く。至高の失神に関係しているこれらの感覚、最後の崩壊は耐え難い。全く無害な蛇に触れることよりも死を選ぶと主張する人はいないだろうか?そこにはある領域が、死が減少と消滅を意味するだけでなく、耐え難いプロセスを意味する領域が実在しているように思われる。そのプロセスによって私たちは、なんとしても消滅してはならないにもかかわらず、‘不本意にも’、我々がなし得ることすべてを差し置いて消滅してしまう。この‘不本意にも’、‘なんとしても’、ということこそが、究極の喜悦の瞬間と、言表し得ないが奇跡的な恍惚の瞬間を区別している。私たちの力と私たちの理解を凌駕するものが何もない場合、私たち自身よりも、私たちが‘不本意’であることよりも偉大な何かを認めていない場合、どうあっても何かであってはいけない何かを認めていない場合、私たちは‘感覚の外にある(insensate)’瞬間には至らない。その瞬間に向かって私たちが全身全霊で努力するような、同時に回避のために全身全霊をかけるような瞬間には至らないのだ。[III 11]


11.サイクロンに関するより専門的な情報はE.PalménとC.W.Newtonの『大気循環システム:その構造と解説』で見ることができる。John G.Lockwoodの『世界気候学:環境アプローチ』も参照されたい。

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