G・バタイユ『ニーチェについて』読書会の序文

 精神科医斎藤環によれば、1996年から2019年の間に鬱病は約三倍に増加している。人々は心療内科や精神科にかかる。鬱の傾向があれば日光浴や軽い運動などを勧められ、重度の症状があればレクサプロなどのSSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)を処方される。鬱病の治療において環境的な原因は問題ではない。鬱病の身体が役に立たないことが問題とされる。上で示した「治療」は鬱病で働けない身体をとにかく働ける身体のしようという医療的な、あるいはもっと言えば政治的な方針の反映だ。
 「お前の身体の責任はお前にある」。これが導くのは人間の孤立化だ。人間は一つの身体に押し込まれ、窮屈な生を送らされる。この人間はちっぽけでなんの力もない無能なモブであり、会社に雇ってもらえるおかげでなんとかこの身体を保つことができる。資本主義様、ご主人様、生かしていただいてありがとうございます!そんな貧しい言葉で頭がいっぱいになる。
 この傾向の元を近代の哲学に見ることは十分に可能だ。バラバラの思考ではなく、現代型の資本主義と同時に生まれた体系の哲学を特徴とするあの近代に。その近代が引き起こしたのは最悪と呼ぶに相応しい二度の世界大戦だった。そこで死んでいるのが敵なのか味方なのかもわからない、あるいはもはや死者は数でしかないような大戦だった。結局のところ現代は、この計量可能性の時代と本質的にはなにも変わっていない。
 思想家ジョルジュ・バタイユ(1897〜1962)はこの近代に始まる人間の孤立化に全生涯を通じて抵抗している。人間は生きている限り個体となって孤立してしまう。それでも極限において人間の間の交流が可能なのだとバタイユは考える。生命活動維持のため日々の生活に忙殺され至高なものを失っている人間にも、ニーチェが「善悪の彼岸」と呼んだあの世界の転覆があり得るのだと彼は考えるのだ。
 このような瞬間のことをバタイユは様々な言葉で表す。それは言葉というものが規定的である限り、孤立化した人間のように一つの単語は孤立していなければならないからだ。呼び方を変え続けなければそれが指す瞬間もいつしか孤立化したものとなってしまう。内的体験、恍惚、至高性、好運、そして友愛。これらはすべて同様の事態を指している。
 私たちは『ニーチェについて』の読解を通して、好運と友愛の体験を見出そう。考察するのではなくその体験を生きるのだ。バタイユに倣って「バタイユを読むものは彼を愚弄している」と言おう。そして彼がそうしたように私たちの好運に賭けよう。私たちの硬直してしまった目が、生が、読むことを通して動き出すその瞬間に向かって行こう。

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