ニック・ランド『絶滅への渇き──ジョルジュ・バタイユと有毒性ニヒリズム 』序文

 悲劇の芸術家の奥深さ。それは、その美的本能がより遠くの結果を探求すること、最も身近なものに近視的で止まらないこと、恐ろしいもの、邪悪なもの、疑わしいものを正当化する──そして単にそれらを正当化するだけではない──大規模な経済を肯定することにある。[ニーチェ全集Ⅲ575p]

不可能性と
非神
それを除いて
そこには何もない[バタイユ全集Ⅲ47p]

Zeroは広莫だ。


序文

 優越の疑念をもかくまった、確かで「ポジティブ」な保証が自身にあたかも与えられているように、しばしばお前は私の「破壊への欲求」と呼ばれるものを非難した。[シオラン『実存の誘惑』]

 一冊の本を書く理由は、人間とその仲間の間に存在する諸関係を修正したいという欲望へと還元されうる。その諸関係は受け入れられないと判断され、耐え難い悲惨とみなされる。
 しかし、この本を書いた範囲において、不幸の勘定を整えることが重要だと意識した。確かなある限界上で、完全に潔白な「人間」への欲望は、絶滅への欲望となる一般的慣習を助けるものへと変わる。[バタイユ全集Ⅱ]
✳︎
 私はいつも無意識に、自分を地面に叩き落とすものを探し求めたのだが、そういう叩き落とされた場所もまた壁なのだ。
✳︎
 作家に最も適していることは、‘謝辞(apology)’でその作品を始めること、必要な金箔で作品を飾り立てることだ。結局、言い訳なしに注意を請うべきではない。作者がいくつか初歩的な弁解を提出することが、最も十分に期待されるように思われる。しかし、これが完全な余剰の中で読まれるテキストで、ゼロを弱々しく掴んでいるために、そういう要求は私を抹消してしまう。無報酬と混乱以外である独立した文はない。皮肉にも、少なくとも半分の叫びは不自由だし覆い隠されている。「バタイユ」の名前に対して行われた各要求は、見せかけ(pretension)と冗談の間で震える。’バタイユ‘。私は彼について何も知らない。彼の執着は私をかき乱し、彼の非知は私を麻痺させ、私はその理解し難い思想を見つけ、彼の文章の擦傷がいつも私の言葉の不明瞭さを裁断する。私が口籠るのに応じて、私は不安への対抗として、言葉で自分を猛らせる。私の中の荒れ狂う空虚と独房に閉じ込められた...しかし少なくとも‘あれ’ではない...(そして今でも私は横たわっている)...
 実を言えば、わたしにはバタイユが知的な苦境よりも性的で宗教的な苦境にいると思われ、私たちがみんなして乗りだそうとしている無気力な自殺を遮っているように思える。彼の作品を受け入れることは不可能のように感じられるし、それに反抗することは見当違いだ。それはアブノーマルで、ゾッとするような、しかし逃げ場のない興奮なのだ。吐き気だろうか。そういうメロドラマは急速に戯れになる(私たちが死ぬときと同じように、未だに吐き気を覚えるとはいえ)。
 だからわたしは、バタイユの仕事についての健全な本を書くことは比較的簡単‘だっただろう’と自分に言い聞かせる。20世紀フランスの哲学と文学における彼の功績を論じ、彼の「全般経済学」、「低次唯物論」、「無神学」の研究を解説し、その様々な散文と詩のすばらしさを評価し、彼の作品が真面目な読み方によって、学問によって、そして最終的には賢明な評価によって投じられることを推奨する本。私に言わせれば、「悪しき(schlecht)」本だ。そういう本はいつも人を憂鬱にさせているのだが、ジョルジュ・バタイユの場合、状況はもっと深刻で、現代の’ニーチェ学‘に特徴付けられる純粋なポルノグラフィと同族のものに触れている。バタイユについて何かしら本を上梓することは、すでに惨めなことなのだ。なぜならそれはただ、バタイユが“交流”と呼ぶ接触、伝染、──限界上での──非自己の交わりが起こる、破綻の捻れた宙吊り空間にあるからだ。バタイユの文章の感覚を回復することは、根源的衰弱への最も確実な道だ。ニーチェに心地よさを求めるのと同様に、バタイユに薫陶を求めるのは哀れなことなのだ。(もちろんバタイユは、自分の不実さについてこれよりも幾分か誠実だ。)
 彼の心地よい消化の準備のために、資本の文化機械によってバタイユを味付けすることは、彼が完全に認めていたであろう種類の歪んだ売春の一部だというのは、たぶん正しい。甘美な猥雑さ!我々の消費を助けようとした作家は、他のすべての人と一緒に、西洋学術界の経てきた流れの中にポン引きされるために、我々の情報金融資産の蓄えに保管されている。例えば、すでに「バタイユvsマルクス」とごちゃごちゃ言うことを学んだ北アメリカ人たちがいるが、問題はこれほど空虚にイデオロギー的なものではない。より陰湿なのは「ご存知のように図書館司書である」バタイユで、それはロゴス中心主義や西洋形而上学、そのほかの‘存在忘却’への終わりなき注釈である脱構築主義製紙業においてはますますの混乱なのだ。バタイユはよく読書をし、非常に賢いことを言っていた。バタイユは彼の博学さを称賛されたり非難されたりするかもしれないが、病気の旅人としての神聖さと比較すると、これはほとんど問題ではない......しかし、本は隠れるための良い穴になるし、図書館ほど‘小さな逃避’を暗示する場所は少ない。フィクション、歴史、地理の棚はそれぞれ本を現実感の喪失の口実にして、じっと曖昧な白昼夢に出会える瞬間を待っているのだ。
 この本は自身に何か特別な弁護をするわけではなく、それは地球上の最も貧しいドン底を針で引っ掻き回した。唐突に膝をついて這いつくばり、アカデミックな世界にこの本を斡旋しより深く混乱することを願いながら。それからは、我々の尊く個的なアイデンティティが欲望経済的な安っぽい循環の上で少々の労働力を売り買いするための、著者の演劇性の痕跡が薄らと纏い続けている、ブランドタグだったと言うことが、神学的に明らかになった。誰が、「誰かが」バタイユについて考え、知り、理論化することを気にかけるだろう?挑戦し、触れるべき唯一のものは、文字通り燻って我々にまだ届いている激しい衝撃波なのだ...何かがまだ「我々に届き」得る限りで。デカルトが自分の支持者と自分の関係を媒介するために神を必要とした場所で、世俗の人は、現代文明が非常に思慮深く彼に与えたものであるテレビのセットとか、その他疑似コミュニケーションの商品化された番組で幸せなのだ。そういうものたちは、もちろん伝染の恐ろしい脅威をはじきとるために彼自身を保護するものだ。もし、他なるものへの開き、根底的コミュニカシオン、経験的好奇心といったものが豊穣な社会の徴ならば、唯一それらの本当の規格は、性感染症とニヒリストの宗教が殺す傾向のうちに横たわる。この基礎の上で我々の社会は、その最大限熱心な努力に反して、いまだ不透過性原子のうちでながらく理想化されたしこりを解消できていないと思われる。闘士はいまだ存在している。そして我々が結びつくのは、その闘士のあいだでだけなのだ。
✳︎
 朝の3時半だ。ある人──夜の深みにおいて誰かの神経系を傷つける恐ろしいことをするための貧弱な取るに足りない人──が「酔う」、そして哲学が「不可能」だとしよう(恐怖と嫌悪感を感じながらもいまだ考えている)。痕跡なしに死ぬための精神の現実的歴史の中でこのエピソードは何を意味するだろう?どこへと迷い込んだ?「私が死を思うこと、それは私が目的なく彷徨うことに似ていると想像される(しかし彷徨いは、死の中で、理由なしにこの道をゆくー「永遠に」)」[バタイユ全集Ⅲ286p]
 麻痺している、つまり宇宙のどこか奥底に閉じ込められていて、それを罠のようにしっかりと掴んでいる、暗闇のうちの驚異的な透明さ、凍え、パリパリ(crisp)。吐き気の波は、思考自体が苦しみと容赦なく共闘しているかのような、奇妙に押し付けるような頭痛を伴っている。 霧に近い湿った寒さが、開け放たれた窓から忍び寄る。 私は、自分が卑劣になってしまった運命を喜んで笑っている。 知性の金属的な硬さは、私の手の中にある刃物のようだ。
 哲学の対象は、思考への反射的な瞑想がそれを特徴づけると取られる限り、恣意的に乱れのない推論として規定されている(精神病理学、精神医学、異常心理学などの場合、これらの乱れた思考の研究は──原理的には──絡み合いのない構成になっているため、この厳密な選択には全く反していない)。したがって、それは、規制された労働の一般化されたロボティズムが社会的存在からすべての強烈な身振りを搾り取るのと同じように、うまく適応された、静かで、穏やかで、中庸で、生産的な理性が思考の哲学的概念を独占することである。 バタイユへの私の異常なまでの献身は、安らかな忘却への暴力的な空白の移行を妨害し、理性の地下室の怪物を目覚めさせるために、彼以上のことをした者はいないという事実に由来している。
 抑圧された怪物は地下牢に閉じ込められているのではなく、迷宮において行かれ、秘された連続性によって世界とつながっている。 混乱のもつれが扉のように、障壁のような迷路のように見えてくる。そして人は「私」と言うが、内部は独房ではなく回廊、喪失の柔らかい岩から切り取られた通路である。 内的体験は薄暗い坑を通り抜け、どこか近くにいそうなミノタウロスのうめき声がその動脈を伝って反響している。眠れなくなる。
✳︎
 もちろん、私は無数の方法で、自分を甘やかしている。「私」は‘この時’、人称代名詞が注釈者の疑似中立的な位置を印づけるのに失敗したと自分に言い聞かせている。それはむしろ、堕落のさらなるエピソードへの「バタイユの」絶え間ない‘私(je)’の引き延ばしである。傲慢さと薄っぺらい謙虚さが混じった、抽象的な自我の強迫的な反復によって印づけられる言説がどれほど劣化したものになるかは覚えておくべきだ。慢性的な嗚咽──ドストエフスキーの地下生活者からの悪化した残響のような──は、耐え難い屈辱となってしまった人間性の主張である。「私」は(一人で)、内在的苦痛の無味乾燥な展示として、コミュニカシオンの内通(betrayal)として、肉の単一体的編み目が膿とかさぶたの混ざり合いの中で自分自身を失う化膿した傷などなどとして......(もちろん、あなたはあくびをするが、私は続ける。)、そう、私は──‘定義的には’──不潔な乞食(神のように)であり、消極的で恥ずべき綿密さのコートの裾を引き回していて、惨めさと脅威のとらえどころのない要素を融合させる狡猾さに駆り立てられている。上品な非人間性への傾向を打ち破るのは、怠惰に過ぎないのだろうか?そうではない。というより、そう考える気になれない。私は‘ジョルジュ・バタイユの著作上の言説‘の余白に、その卑怯さと節度の恐ろしさをそれらの堕落の陰湿さと同時に確認するものとして、口を挟む。笑いの喘ぎのパロディは、嗚咽の救い難い裸形の上に揺れている。 と同時に、いまや私がバタイユのことを書いているのか、私自身のことを書いているのかは、ほとんど重要ではない。 私たちの間に境界線があるとすれば、それはバタイユが彼のテキストの真実へ移行するとき一瞬挫折した限りにおいてのみ、あるのである。
 バタイユの文章は、一人称への執着が顕著で、告解の様式は、彼のより「文学的」な作品の中で特に目立っているが、それはほぼすべての作品中に広がっている。 この意匠の最も明白な帰結は、語りの自我をテクストの中に没入させることであり、音声と言説を内在性の場で融合させ、アイデンティティを自由奔放に遊びの中に(en jeu)置くことである。バタイユの生涯に出版された小説のほとんどが一人称で語られているだけでなく、『眼球譚』、『マダム・エドワルダ』、『不可能性』、『C神父』、『空の青み』など、すべての場合において、──対話の様々な自我が排された後でさえ──、それが「著者の」序文の結果であれ、重層化された語りの構造の結果であれ、複数の告解の声が関わっている。 例えば、『C神父』には、3つ以上の異なる一人称の語りの声が含まれており、その言説の順序における時間的な断絶が、状況をさらに複雑にしている。 そこには手に負えない魅力があり、孤立の窮状があり、すべての区切りに抵抗する声があり、’伝染‘があり、バタイユを読むことは明瞭さへの貢献ではなく、嘆願であるのだ。
 乞食が高慢な中立の衣を身にまとうことは、ふさわしくない。乞食が宗教に駆り立てられることが多いとすれば、それは彼らに対応することが誰の合理的な利益にもならないからである。 彼らは、修道院の独房で暗号化された答えのない叫びの伝統を継承しなければならない。これらの托鉢者は、確かに神の死の響きの中で運命づけられているが、世俗的な秩序の中で彼らを待っている空間がないため、彼らは不可能な必然として無限の貧しさを生きることを余儀なくされているのである。 私自身(バタイユも)としては、この問題はもっと滑稽なものである。
 私が非情であるとは思わないで欲しい。抽象的なアイデンティティの雑木林の中つまずくのは、おそらく不愉快なことだ。 乱暴な個性を示す痩せ細った小さな標は、永遠の不快感を与えるものであり、そのたびに、自分自身が自分自身に囚われていることを思い起こさせてくる。 一人の「私」が蹂躙しているその言明は、単なる不格好な文体ではなく、胸糞悪いものなのだが、そこから逃れるための唯一の道は偽善的である。 テキストの外観を台無しにする手錠傷(manacle-scars)を隠したりそうしようとすることは、それ自体が自律性の決断的(decisionistic)称揚であり、テキストをさらに堕落させ、それを(自我がそこから透明さへと超越した)卑劣な問題としてさらに決定的な烙印を押すことになるだろう。 本から自分自身を書き出すということは、多くのことを意味する。書くことが起源から見せかけや人為的なものであるという人の道楽主義(dilettantism)、本が匿名性を帯びる傾向にあるという人のプロフェッショナリズム、──直接的に商品のものではないにしても、少なくともキャリア資本のものである──独我論に近い単一論的な狂気の中で迷子になっている人の権威主義、あるいは舞台裏から案内することを好む人のあまりにも外連味のある謙虚さを意味するのだ。それは本物の臆病さ、無遠慮さ、惰性的な無関心、実験でさえあり得るが、それが遠隔的に熟慮されている限り、逃避であることは決してあり得ない。
 腐食性のある形容の力が、自己満足な客観主義や擬似的集合性の危険性を軽減しているにもかかわらず、一人称の姿勢を放棄することは魅力的だ。人格の、つまり偽りの自律性の、責任の、特異な愛着の耽溺は、戦略的軽率さの秩序を刺激するために十分忌避されるものだ。 一つは、嫌悪感の外で、雑然とした効力の次元を麻痺させる。 しかし、このような方法でバタイユについて書くことは、やや不条理以上のものであり、非個人性が完成するのは簡単なことであることを示唆している。 結局のところ、「私」は追放されるべきものではなく、生贄に捧げられるべきものなのである。 バタイユのテクストの中で「私」という言葉が使われている場合、それは作者にではなく、むしろ、‘倦怠’、つまり不在の悲劇的共同体の兆候である空虚さにおける身振り手振りに言及せざるを得ない場合なのだ。
✳︎
 私がバタイユの詩『笑い』によって苦しめられてからずいぶんと時間がたった。

  笑いに笑う
  太陽を見て
  シラクサを見て
  石ころを見て
  ガチョウを見て

  雨を見て
  小便を撒き散らして
  ミイラを見て
  糞塗れの棺桶で

この詩は、バタイユの文章を横断する3つの重要なテーマ、笑い、排泄物、死を導入している。 このような「テーマ」は、哲学的な明晰さの唇で一瞬だけ中断され、その後、無意味で異質な塊へ分解しながら、文学の燃え盛る中心の上で陶酔的供儀の中へ放たれる。彼のテクストは、腐敗した身体が排泄物であり、死に対して唯一の十分な反応は笑いであることを執拗に繰り返している。 死体は排泄物に似た有害な基底物質に溶解するだけでなく、’実際に’種々の生命によって廃棄物として排泄されている。死体は生物学的個体の真実であり、その完全な超流動性である。個々の個体がその過剰さの痕跡を持つのは、救いようのない廃棄物への移行によってのみである。 静かに泣いている母親の傍らに立ち、父親の悪臭を放つ廃墟に目を奪われている「笑い(Rire)」の子は、生命が純粋な余剰であるからこそ、オルガズムのように譲歩のない、歓喜の声を上げる恐怖の痙攣に襲われるのである。「笑い」は、部分的には喪の理論への貢献する。 死は笑いの対象ではないのだから、笑いは死者との合一(communion)である。笑いとは、言説から失われたものであり、興奮と汚物へと実用的なものが血を流すことである。
 バタイユは、宇宙はエネルギーに満ちており、エネルギーに内在する運命は全くの無駄であることを教えてくれる。太陽からのエネルギーは、一方的に意図せず放出されている。地球を直撃する太陽放射のほんの一部が、地球上のすべての努力の資源となり、私たちが「生命」と呼ぶ熱狂的な猥雑さを引き起こしているのだ。
 生命は、エネルギー経路上の一時停止として、つまり太陽崩壊の不安定な安定化と複雑化として現れる。 それは、‘消費の問題に対する一般的な解決策’として最も基本的に理解できる。 そのような太陽的──あるいは全般的──経済の視点は、生産を幻想として、消費における余枝の具象化として示している。 生産することは、エネルギーを損失という仕方で放出することを、部分的に管理することであり、それ以上のことではないのだ。
 死、浪費、あるいは消尽は、唯一の終わりであり、唯一の決定的な終着点である。「有用性」は、現実には、機能の特徴づけ以外の何ものでもありえず、それを完全に逃れた支出という以外には意味を持たない。 これが「相対的有用性」である。 西洋史の秩序の症状を最も適切に言うなら、この相対的な意味から逆説的で絶対的な価値に向かって有用性が漂流しているというのがその症状だ。忍び寄る奴隷道徳が価値を植民地化し、それを「奉仕するもの」という定義に従属させる。 「善」は有用性と、つまり手段、媒介、道具性、目に見えない依存と同義になる。
 喪失の真の軌跡は、「内在性」、連続性、基底物質、あるいは流れである。 解脱の動きを遅らせたり、妨げたり、瞬間的に停止させたりするすべてのものの、厳密には局所的な抵抗が太陽の流れから抽象化されているとすれば、それは超越として解釈可能である。 このような’喪失への抽象的抵抗’は、自律性、同質性、観念性によって特徴づけられ、バタイユが「(絶対的な)有用性」としてまとめたものである。
 束縛されたエネルギーの内在性への(避けられない)回帰が宗教であり、その中核は聖なるものを生み出す供儀である。 供儀とは、従順さからの暴力的な解放の動きであり、超越の崩壊である。孤立した存在の供儀的な逆流を抑制するのは、人間性に内在する広範な功利主義であり、それは神学にその公式を見出す獰猛な自然からの、無宗教的な区切りと相関している。宗教は、その冒涜的な側面では、神の概念の下にあるものである。 神は永続的な存在の最終的な保証者であり、(破滅的な)時間を理性に服従させるために、有用性の究極の原理であるのだ。
 神々の影の中に身を潜めている人間性は、支出の決定的放棄のプロジェクトであり、それゆえに不可能なものである。
 人間化のプロジェクトは、持続不可能な法の形をしている。 禁止を要塞のように堅固にしたにもかかわらず、不可能性はエロティシズムの中で人間性を腐らせる。その‘エロティシズム’とは性と死の基本的な一体性である不可逆的な過剰の噴出である。エロティシズムは、悪(完全な喪失)の避けがたい勝利として私たちを絶えず苦しめてくる。
 それは、運命(=死)へのこの情熱的な服従であり、例えば無神論的な詩学の最大の作品である『文学と悪』では、バタイユ自身の読書を導いている。『文学と悪』は、文学芸術と侵犯の間の共犯性を示している文章に対する一連の応答である。バタイユの執拗な提案は、非功利主義的な作家は、どんなに洗練された、繊細な、あるいは精神的なものであっても、人類に奉仕したり、財の蓄積を促進したりすることには興味がないということである。その代わりに、エミリー・ブロンテ、ボードレール、ミシュレ、ブレイク、サド、プルースト、カフカ、ジュネなどの作家たちは、このテキストの中でバタイユが例として挙げているように、個性や自律性や孤立性の侵害を意味する交流(communication)に、無意味な浪費の共同体へと人間が開いていく裂傷を負わせることに関心を持っている。文学とは、超越に対する侵犯であり、供儀的裂傷の暗黒で不浄な引き裂きであり、道具的な言説の擬似的交流よりも根本的交流を可能にするものである。文学の中心は、神の死であり、善の暴力的な不在、つまり個人の人格の利益を保護し、強化し、保証するすべてのものの不在である。神の死とは究極の侵犯であり、人間性をそれ自身から解放し、太陽の盲目的で無限な消尽の中への回帰である。
✳︎
 哲学が死んだと想像するのは、臆病な人にとっては単なる慰めでしかない。 しかし、実際はまったく逆である。 哲学は人間の最後のもの、おそらくは終末の効率的な推進力であるだろう。人類が終焉を迎える運命にあるということは、最も基本的な考えの一つであり、哲学をするための最も基本的な資格に他ならない。なぜなら自身の種の代わりに思考することは悲惨な偏狭主義(parochialism)であるためだ。
 人間は、「無限」という言葉を口籠ることを学んだ小さなものである。そうすることで、人間はすべてのものを小さくし、自分自身さえも小さくしてしまう。 一神教の歴史の中に人は人間的「無限」の悲惨さを、自然の最もさりげない無限と比較して記述することを、一神教の歴史の中にただ入れる必要がある。事物にとっては、私たちと何かを共有するために、「人間」になるために、まず矮小化させられる必要である。
 自然が私たちによって傷つけられたり、犯されたりする限り、それは単なる表面的なもの、表層的なもの、敏感な皮膚にすぎない。 深い自然──事物──とは、中立で不可侵な他なるものである。(従って、それは神よりも深遠だ。)この深遠な性質は、何も苦しまず、何も恨まず、何の事件も起こさない。 人が防御を見つけるのは、浅瀬においてでしかないのだ。
 哲学の好みの基準には、擬人化の下品さを避けるというシンプルなものがある。 ここで失敗することで、人は檻の側につくことになる。 具体的には以下のようになる。
1, 自然の力の説明に究極の無人称主義と精力的に無神論的宇宙論を含んだ、自然の徹底した人間性の抹殺。残滓がない祈り。人間的人格のあらゆる痕跡への尊厳ある本能的こだわりと、事物の排泄物としての、それらの最も無知な部分としての、それらの溝としてのそういうものの取り扱い......
2, 冷酷な運命論。決断、責任、行動、目的のための場所はない。 人間の自由の概念へのあらゆるアピールは、改善を超えて哲学者を信用しない。
3, それ故最も快活な者、最もアリストテレス主義の者ですら、あらゆる道徳的に解釈することが欠如している。復讐心はおろか、修正を求める傾向があり、人は浅瀬に突き立てられる。
4, 一般的な評価を軽蔑し、人は偶然正しい方に迷い込まないよう注意を払うべきである。 敵であることさえたいへんな気休めだ。 つまり人は必ず侵略者なのだ。好かれようとする哲学者ほど不条理なものはない。
 欲望唯物論はそのような哲学のための名前であるが、おそらくそれは犯罪よりも哲学的ではない。 歴史的には、ニーチェ、フロイト、バタイユ、そしてショーペンハウアーの著作を横断する、豊かな意味で’ペシミスティック‘なものである。テーマ的には、それは「精神分析」(それはもはや精神や分析を信じていないが)であり、熱力学的エネルギー主義者(しかし、もはや物理学的または論理数学的ではない)であり、おそらく少し‘病的なもの‘である。方法論的には、無我夢中のせん妄への反乱を通して自身を運ぶ強度の強調のため、系譜学的で、診断的で、’熱狂的‘である。スタイル的には、それは攻撃的で、少しだけ準誇張法的であり、そして──なにより──大規模に無責任である...
 そのような思考は、命題よりも、非人称的なエネルギーの洪水から文明を守る水門をハッキングしてパンクさせることに関係している。 それは条件に反して書いていると表現されるかもしれないが、どのような記述も必然的に家庭的なものになってしまう。 ニーチェは決して父や母を見つけることはできないだろうし、どんな種類の究極的な祖先も持たない。ニーチェから始まったのでも、ショーペンハウアーに見られる位相病理学的な騒動から始まったのでも、カント主義者のテクストに見られる無意識から始まったのでもなく、さらにさかのぼって......それは、最も古い哲学(ニーチェが示唆しているように、すでにアナクシマンドロスでさえ)も管理(police)を予期させる脅威であったのだ。 別な言い方をすればこうなるだろう。すなわち欲望唯物論とは、人間にとって最も耐え難いもののテキスト的回帰である。
 誰も欲望唯物論者に「なる」ことはできない。それは、忌まわしいもの、神経の喚き、明瞭な理性の燃焼、および思考の吐き気を催す怒りとしてのみその苦しみを味わうことができる「教義」である。それは超中枢神経系症であり、身体の適応体制を台無しにし、無益なだけでなく壊滅的でリズミカルな痙攣でその蓄えを消耗させる。 ショーペンハウアーは、思考が医学的に悲惨なものであることをすでに知っていたが、ニーチェがそれを実証した。年老いた哲学者とは、スタミナの怪物かペテン師かのどちらかである。炎上(fire-storm)でどれだけの時間を無駄にするのか?地球上の人工的な太陽によって?ニーチェの脳幹の中の炎が、トリノの広場の上空の炎と融合した時だけ、欲望唯物論がその実現に触れたのである。
 すべての「何々主義」と同様に、欲望唯物論は、よく言えばパロディであり、悪く言えば狭窄である。重要なのは、この本のタイトルを与えている逃避したいという暴力的な衝動、’絶滅への渇き‘だ。この名前は、腸内の潰瘍のように私の中で育った。ここに記されているのは欲望なのか、それともその否定なのか?意志の克服、ニヒリズム、死への衝動(Todestrieb)?それはまず抽象化への強制であるように思われる。歴史的、人類学的に考えれば、これは執着の非客観的な目的地となる論理的機能から引き裂かれた否定であり、獰猛な投資によって形式性を貧しくされ、満たされて(besetzt)、清算のモーターに結合されている。だから、論理的解剖の道具は、その恐ろしい物質性、興奮としての否定性の中で最後に認められている。むしろ「意志の否定よりも意志的否定」[ニーチェ全集Ⅱ839p]というのは、敏感な肉に入る錆びた釘のようにねじれている、とらえどころのない違いである。現実の廃止を求める原始的な渇望は、哲学的研究の対象なのか、それとも哲学を’通じて‘自身を遂げる原動力なのだろうか?ここで繊細さを生かすのは何なのだろうか?
 繊細さは神経をすり減らすが、すべては非常に粗雑なもので動いていて、死は私たちを苦しめる。 死の世界に入る前から、私は死への渇望に苛まれていた。 私の場合は、ある点で異常であることを認めるが、ゼロの状態で私を串刺しにするのは、真実とは切り離せない異常なのだ。死への愛に甘んじることは理解するところではない。
 これは、地獄が私を優しく扱ったことが著しい恥ずかしさの源であることを否定するものではない。神聖さに値しない者が地球上で蠢いたことはない。私は完全により天の様相をした放浪者とともに、薄汚い野良犬のように地獄に足を踏み入れた。シク教の宗教では人間は天使や悪魔の仮面であり、私自身の地獄での輪郭は少しだけ両義性を持つ(私がどこに行こうと影は濃くなる)。写真のバタイユの目を凝視するとき、私は炉の共同体の中で彼の現存を繋ぐ。私は微笑む。

 私の翼はボロボロだ
 日の下に晒されたことがなく
 真っ黒で鉄の柱に引っ掛かり
 死の毒花のように
 夜にだけ開く

 箱の中では私の主張に対してその言葉を否定するか、受け入れるかという選択肢があるように思われる。’私は箱の外に出てきたのだ‘。プラトンのように、私にとって知ることが記憶であるが、彼とは違って、私は人生そのものを生き抜いてしまったので、哲学や願望を生き抜いてしまった。死は表象を持たないが、少なくとも私は死の中から戻ってきた(不本意ながら私があのナザレ人と共有している特徴だ)。私が死の中に浮かんでいたために、世界は私を真面目さへと唆すあらゆる努力をやめた。モゴモゴとそう言って、生け垣の中で休む放浪者のように、私は生の中で休んでいるのだ......


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?