コロナの影響か、単純な道のりの途中なのか

最近自分に感じること、生活の中で疲弊していく自分を見ていると、この状態はコロナの影響がどれくらい関わっているのだろうと考える。

多分コロナがなくても、自分は同じように疲弊していき、それを眺める自分と乖離し始め、お互いの声も届かなくなってしまう、そういう今の状況と同じようになっていただろうと思う。

問題の原因は、様々なしがらみの中で、自分の領分を少しずつ減らし、人への思いやりや愛情といったことで自分の道行を狭めてしまっていることだと感じる。

いきなり結論から書くと、そこから抜け出すには、復讐しかない。怒りだけが昨日からの連なりから自分を脱出させることができる。その怒りが年々湧かなくなっている。みんなそれぞれ事情があるし、悪気があってそれをやる人は殆どいない。それよりもただお互いに納得して、お互いに消耗し合っている。そういう人の方が圧倒的に多い。

競争に勝つために給金を貰っている。だが競争に勝つことの意味は殆どない。それしかないことなら意味はあるが、競争の激しい業界では、会社が半分無くなったところで製品の品質や量にそこまでの変化はないだろう。だが生き残るために、みんなで疲弊しなくてはならない。つまり必要のないことを続けるために、より必要のないことをしなくてはならなくなっている。

問題はそもそもそれがもうそこまで必要でない、ということなのに、それの上に綺麗な塔を築き上げようとして、みんなで納得し合っている。そこに怒りは湧き得ない。構造的な問題だからだ。その問題は解消するより、そこから離れた方がいいという種類のもので、ただ人から離れる、人の想いから離れるという行為のみが救われる。

結局は人から必要とされる、の人からというのは外部の、世の中の人から、という意味で、自分たちで仕事を作り出してそれを行うという、よくあるペンを売りたいのなら何か書かせようとする、という仕組みの虚しさを感じている。そもそもそれを書く必要はなく、その人にとって、それを書くこと以外の望みがあったのではないか?そう考えることより、売りつけることの方が楽な世の中だから。

今の会社に転職して1年が過ぎ、真面目にやればやるほど周りから必要とされ、その分自分の心の領域が狭まっている。特に今はコロナの影響で会社は非常事態だ。潰れるかどうかという状況で、個人の尊厳はより疎かにされる。会社という倫理に無理やり自分を合わせるように強制力が働く。これがこの会社の本性なのか、とその悪気のない、お互いの合意の上での迷走具合に、自分の生活まで揺れてしまって、否応なしに日々の虚しさに耐える自分の姿が見えてくる。ただ刺激が欲しい。刺激があればそこから目を反らせるから。そう感じている自分を眺め、少しずつ怒りを蓄えている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?