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音楽のこと

20050506

静かな雨が降っている
こんな時は静かな曲が聴きたい
たとえばヘンデルのオペラXERSEのアリア
“Ombra mai fu”(Largo)などが今の私の気分にはしっくりくる

音楽は何でも聴く。
中学3年までは、7年ほどトランペットを演奏していた。
子供の私は音楽で生きていこうと思っていたほど。
歴史の長いその小学校のコンサートでも、ソロ演奏をしたのは私だけだった。アンダーソンのトランペット吹きの子守唄。いわゆるトランペットの派手な音ではなく、私の音色はまあるい。人が何を言っているか聞き分けられなくても、音そのものには敏感だった。絶対音感というやつだろうか。基本となる音を一音聞かせてもらえれば、今でも曲を聴いて楽譜に起こすことはできると思う。

吹奏楽で有名な2つの中学からの誘いを断り、オーケストラのある中学を受験し、合格。第二の恩師は地元では有名な、オーケストラの常任指揮者。

最初の挫折の理由は中学3年の時のドクターストップ。金管楽器を吹いていた人ならうなずく人もいるかもしれない。このまま続けたら前歯がなくなると言われた。

吹き方を変えればいいと言われたが、それではまたあの私の音色を取り戻すまでに何年の時間がかかるだろう・・・。若いのに私はあせっていた。中学卒業と同時に、演奏することを辞める。

その後もまた何かがあって海外へとでて行く決意をするわけだが、海外で公立高校入学の試験に合格して学校を選ぶとき、やはり音楽に力を入れている高校を選択してしまう。

ステージの上にどうしてもまた立ちたい。

その欲望で、楽器を変えて再挑戦した。クラシックではなく、ジャズもやってみるが、やっぱりどうしても、トランペットでなければ違う。。。こんな気持ちで演奏するくらいなら、裏方にまわろう。

飛び込みでオペラハウスのサウンド部門のボスにお願いに行き、パシリをさせてもらえることに。プロの中で色々学ばせてもらいながら、音響のプロになるならやっぱり専門学校を出るべき、そしてその学費は高いことを知る。
留学するのにも、中学からのバイトで貯めたお金、そしてお婆ちゃんがかけてくれてた学資保険があったから来れた、足りない分は行ってから自分で稼げ、というくらいの貧乏生活なので、先のことは考えられなかった。その高校は1年で転校した。音楽をきっぱりあきらめるために。私の楽器転向を支え応援してくれた第三の恩師もその高校を辞め、国立の音楽大学に教授として招かれることになったから、というのもきっかけのひとつかな。

次に選んだ高校は成績も悪く、「不良校」ということで、日本人が一人もいない高校だった。成績も悪い、進学率も悪い代わりに、スポーツや芸術系には力を入れていて、プロのシンガーもいた。私はそこでVisual Artをメジャーに選択し、油彩にどっぷり浸かる生活だった。バイトも休みなく掛け持ちでやったが、お金は貯まらなかった。

大学進学をあきらめ、絵を描ける仕事のお誘いもあったので、今度は絵の夢を持って帰国。が、また一波乱あった後、挫折。絵をやめる。

無一文になる。
その後、なんとか住む場所も落ち着いた後、長く働いていた夜のお店にはシャンソンが流れていた。そして、生のピアノにバイオリン、声楽。プロのオペラ歌手たちも歌っていた。音楽に関係していないのは、私とママだけだった。

歌姫たちは、日本の唱歌や、有名なアリアを歌った。

音楽に夢中になっていた頃学割で聴きに行った曲、オペラハウスでのパシリ時代に聴いた曲、・・・なつかしくて涙が出そうだった。その店でたくさんの曲も覚えた。有名どころのアリアは大体口ずさめる。お客さんにもいろいろな舞台に連れて行ってもらった。3大テノールも来た。お客さんがチケット数枚用意してくれたが(もちろん無料)、歌手の女の子たちにあげた。彼女たちに行ってもらって、その感動と衝撃で彼女たちは成長していける。そして私にも歌を聞かせてくれる・・・。

そしていま、
音楽も、絵も、離れてずいぶんになる。
ブログと出会って、私はまた絵を始めだした。
音楽もまた最近、昔のCDを引っ張り出してきて、パバロッティの歌声を聞いたりしている。

私の中で、少しずつまた時が動き出した・・・

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