対話
まるで
思春期の頃読みふけった古代哲学者の対話篇のように
わたしは、まるで昔の私が自分に問いかけたような
質問を、毎日のように、少しずつ、投げかけられる
キルケゴールのように
プラトンのように
サルトルのように
わたしは
ひとつひとつの質問に対して
ゆっくりと時間をかけて
私なりの考えを述べる
とてもナイーブなその青年は
人とコミュニケーションと取ることが苦手で
客商売でもある、今の職場には、はっきりいって
向いていない。
私と同じように毎日出勤しているので
ふたりきりになる時間が多く、
少しずつ、私には、彼の方から話しかけてくるようになった。
人と話すことが苦手な彼に
電話のかけ方を教え
電話の受け方を教え
声の出し方を教え
それでも、ボソボソと話す彼に
ちょっとくらい気色悪くても、電話の時には
一オクターブ高い声を出してみよう、と言うと
そんな声で話す人は上っ面ばかりで信用できない
といわれる
。。。orz
こら~~っ><
と、くそ忙しいときには叫びたくなるときもあるけれど。
仕事的にはとても大変だけれど。
でも
少しずつ
心の扉を開けてくれるのがわかって
嬉しくなったりする
だから
適当な言葉ではなく
ゆっくり考えて答える
20代よりも30代のほうがまわりがよく見えるというが
どんなふうに変わるのか
なにが見えるようになるのか
デリカシーのない人間とは
どうやってつきあっていきますか
○○主義者をどう思いますか
○○の存在をどう思いますか
自分の中の○○の感情をどう対処しますか
あじゅさんなら、○○のときどうしますか
あじゅさんは、○○書とか読みますか
読むのであれば、それを読んで生き方の参考にしたりしますか
それとも他人のただの意見として、知識として読みますか
。。。きっと、質問は尽きないのだろう
そして
彼はきっと
私の言うことは、何も聞いていないかもしれない
とも思う
そして、それでいいとも思う
だって
そんな質問のほとんどは
自分で考えて
自分で見出していくものだから
でもなんだか
昔親友と熱く語り明かした
いろいろな疑問とか
思い出して
ちっとなつかしい感覚、思い出してたりします
・・・
私に欠けているのは、
私は何をなすべきか、ということについて私自身に決心がつかないでいることなのだ。
それは私が何を認識するべきかと言うことではない。
私にとって真理であるような真理を発見し、
私がそれをするために生き、
それのために死にたいと思うような理念を発見することが必要なのだ。
いわゆる客観的な真理などを探し出してみたところで、
それが私の何の役に立つだろう
キルケゴール
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