晩夏に仕立てる新しい服

10代20代の頃は、それなりの「野心」を抱いて、何ごとかを成して世のため人のために働こう、とか、圧倒的な「知」を手に入れてこの世界のあらゆることを解釈できるようになろう、などと思っていたりした。エネルギーが溢れてほとばしっていた。
しかし30代も終わる今、人生に望むことは随分と変化した。

「自分が」成せることには限りがあるということ。自分にも他人にも時間は有限であるということ。ある日突然、健康や安心が失われるかも知れないということ。人も社会も、予想を凌駕して揺れ動き続けているということ。
そうした当たり前の事実が、様々な経験とともに心身に深く刻み込まれていく感覚。

微かに、けれど確実に「老い」が始まっていて、それを少しずつ受け入れていかなければならないと気付く時期になった。私は100歳まで生きるぞ!などと思っているが、こちらの意思とは裏腹に、老いはゆっくりと静かにこの心身をつかまえて微笑むのである。

だからこれからの人生は、これまでより一層、他者を信頼して生きることを目指さなければと思う。「自分が」「私が」という一人称の世界から、二人称そして三人称の世界を生きていくことに、軸を移していかねばと考える。
自分にできることには限りがある。自分「たち」だと思っているものも、実は全く別の世界を見ている者同士の幸福な誤解や思い込みの上に成立していたものだったのかも知れない、とふと気がつく時期である。
自分と異なる「あなた」「誰か」が見ている世界を見てみよう、「わたし」のフィルターから自由になって、もう一度。ようやくそんなふうに思えるようになった気がしている。
成熟への切符を手に入れる人生の晩夏。

いまは経済的にも時間的にもキャパシティ的にも非常に過酷で大変な日々なのだけれど、精神的な自由が本当に広がった半年である。

院進学をして本当に良かった。今日も研究科の同期たちとのやりとりで、そのことを実感した。同期ひとりひとりが実に素敵で、年齢もバックグラウンドも、もちろん研究領域も多様なメンバーが揃っていて、そのつながりこそが豊かな財産になるという予感がしている。

「自由」について考える機会が増えた。思い切って断ち切るものと、新しく築くものの過渡期を生きている。古い服を脱ぎ捨てて、新しい上着を自分で生地から選んで縫製する気分である。
頑張ってやって行こう。

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