誰がそれを“神的暴力”だと判断するのか/気候危機をめぐる“直接行動”について


12月に書いたものをもう一度考えている。

2022.12
気候変動をめぐる「直接行動」に関して、ずっとわだかまりを持っている。
私は「直接行動」それ自体を否定する考えではない。手段として必要に迫られることはあるだろうと自身の経験を踏まえても思うからである。

但し、いま世界で議論の的になっている「気候正義」を理念とした直接行動については、忘れてはならぬ論点があると私は思っている。

「名画」という対象であるからメッセージとしてやるべきである/やるべきでない、ということが論点なのではなく、「そこに何が描かれているのか」という事実が孕む別のメッセージに、決して鈍感であってはいけないと思っている。

この点について、クリムトの絵を対象とした先日の「直接行動」に関しては、私は「暴力」の領域に入っていると考える。
母子、特に女性や子どもたちが描かれている絵に暴力や攻撃を加えることには、私はいかなる「正義」をもっていたとしても明確に反対である。

クリムトの絵全体のモチーフ、コンセプトが、「死と生」であり、既に平穏や安全を脅かす悪魔的なものと危機に晒されつつある罪なき存在を描いているのだとしても、そしてそれを「警告的なモチーフ」として捉えた上での「直接行動」だとしても、描かれている子どもたちを更に「攻撃」してはならない。活動家の側にその意図がないのだとしても、私には既に副次的な「暴力」として感じられるからだ。自分がそこにいるかのように、子どもたちを抱きしめ守らねばともがく側の者として身体的な痛みが喚起される。自分が絵の中におり、子どもたちを両手に掻き抱きながら、絵の外側から加えられる「力」に、「なぜ?」という眼差しで応えるだろう。

「名画」とそれを独占する資本家、特権階級、そして化石燃料を扱う企業等を対象とした、抜き差しならぬ「直接行動」であればこそ、「名画」に描かれている、罪なき存在、この世界で常に、真っ先に暴力と攻撃の犠牲とならざるを得ない存在を無視するべきではないだろう。

私はこの点に関して、マルクス主義の人々とも感覚と考えが異なる。彼らだけでなく、気候危機の問題、そして気候正義という理念のもとにそれこそ「命懸けで」訴えをしている人の一部からも批判を受けるかも知れない。

しかし私自身の信条に照らして、「対象」を見誤ってはならないということ、いかなる「暴力」の可能性をも排除していかねばならないということは、決して妥協できない問題なのである。

この感覚は、私自身が再生産労働に深く関わるにつれて一層強まっている。ベンヤミンが言うところの、神話的暴力を行使しているのが資本家の側だとして、では、気候危機に関する「直接行動」の側は“神的暴力”を行使しているのだという見方は可能なのだろうか?

そうだったとして、では、“神的暴力”を名乗る側が犠牲にするもののことは、一体誰が考えると言うのだろう?

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