ラディカリズムの誘惑

左派サイドの言説のなかで「これまでのリベラル」と雑に一括りにする論法は昔から見かけるが、そうした考えに陥りがちな人たちは、多様な運動の在り方を認めず、「自分たちこそ(orだけ)」が正しいのだと錯覚していく怖さがある。
私は議会制民主主義の否定につながる選民的な「運動」は信頼しない。

そうした「運動」は運動の内部に既に階級性を孕んでおり、異論が排除され組織の硬直性が高まるため、本来彼らが目指しているはずの「自由」から遠ざかっていくことになる。これはアナキズムとは全く別の現象で、まさにアドルノが言うところの「第二の偶像崇拝」の領域に足を踏み入れる主体性の放棄に他ならない。

そうではなく「弱さ」を軸に繋がり合うことを求めたい。「弱さ」とは他者への想像力を喚起できる経験と主体性の確立のことであり、自己愛に基づいたナルシシズムやルサンチマンの充足のための復讐行為ではない。悲惨さの只中に希望を読み取るということは、他者を「啓蒙」しようと企図することではない。

ラディカリズムの誘惑は、人間に「大義」を抱かせ陶酔させる。けれどその「大義」が大きくなればなるほど、組織化された個人が無自覚のうちに自由を手放すことになりかねない。私はその薄氷のような境界線を、安易に飛び越えることは決して出来ないのだ。

○アドルノ『ミニマ・モラリア』
「啓蒙には人間を支配する各種の偶像の力を御破算にする客観的な傾向が備わっているのだが、啓蒙された思惟の主体の側にはそれに見合うだけの進歩が見られず、本当に偶像なしですませる境地には達していない。(中略)啓蒙によって解放され、思惟に対して免疫の出来た新たな思惟がーー偶像ぬきではあるけれども依然として囚われから抜けきれないーー第二の偶像ともいうべき領域にはまりこんで行くのだ」。

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