「遠い誰か」ではなく

2021年7月22日の日記

[オリンピックの問題から思うこと]

小学生の頃、松谷みよ子さんの『屋根裏部屋の秘密』という本を図書館で借りて読んだ。
731部隊がどんな存在だったのか、ということを描いた児童文学である。

私はこの本を読んで、体の芯がゾッとするような、人間が人間をかくも残酷に扱うことができるものなのかという恐怖で、しばらくの間、言葉にできない憂鬱な日々を過ごした。子どもながらに、強いショックを受けた読書であった。

子どもながらに、と書いたが、むしろ子どもだったからこそ、その恐怖感は強く激しく、「決して間違えてはいけないこと」の境界線を身体感覚として得たように思う。

それはやはり小学生の時に、広島、長崎の被爆者の手記を読んだ時にも、そしてホロコーストに関する記録、文学作品を読んだ時にも襲ってきた、根源的な恐怖と暗い感情だった。

私が「左翼」になった原点は何なのかと聞かれたら、間違いなくこの時の「根源的な恐怖」によるものだろう。小学生だった私は、遠い外国、そして日本が侵略した土地に行ったこともなければ、広島、長崎にさえまだ行ったことがなかった。けれど、空間を超えて時空を超えて、自分と同じ「人間」がこのようにむごい目に遭わされ、自分と同じ「人間」が、それらの所業を成したのだということに、激しいショックを受けた。

そのショックは、2つの恐れから成り立っていた。

この世に生きている限り、自分や自分の近しい人が、同じようにむごい目に遭う可能性があるということ。

もうひとつは、
この世に生きている限り、自分や自分の近しい人が、同じように恐ろしい行為をしたり、加担したりする可能性があるということ。

特に後者の考えに、子どもの頃の私は長い間囚われていた。自分の中にも、狂気や加虐的/被虐的な感覚、例えば遊び半分で小さな昆虫を足で踏み潰すような、他の「命」を命と思わぬ態度で扱うような残酷さが、全くないと本当に言えるのか?という恐怖。

私は自分の中にその恐怖感を見た時、同時に「絶対に超えてはならない境界線」が浮かんでくるのも感じた。「これは、絶対に間違えてはいけないことだ」。
そうして自分を律していかねば、ということを、子どもの小さな頭で、もちろん、自由にならない未熟な語彙で、必死に考えていた。

だからこそ思う。
「冗談で」「ネタで」、ホロコーストを扱うことができる人間もまた、この世には存在するのだということの、哀しさ。
そして、そうした感覚で発言したことが許されてしまうことの、恐ろしさ。「絶対に超えてはならない境界線」を持たない人の危うさ。その危うさがどれほどのものなのかを、深く考えない人々の呑気さ。

想像力と共感力の圧倒的な欠如は、非人間的ですらあると思う。

ただ、「遠い空間に存在した誰か」「同じ時代に出会うことのない誰か」に対する想像力をすぐさま喚起することもまた、困難なのかも知れないと思う。

想像力の問題に関して、私は、「もし被害に遭ったのが自分や自分の身内だったら」という思考の展開をすることを、決して悪いことだとは思わない。このことを言うと「結局自分の身内のことでしか憤れない、悲しめないのか」と批判を向ける人もいるが、いかにして想像力を喚起するかという側面からは、必ずしもそうとは言えない。

それは、「身内でなければ痛みには感じない」という無責任さではなく、他者の痛みを自分自身に引きつけて想像するという、想像力の「第一歩」になり得るからだ。もし、「私」だったら。もし「私の近しい誰か」だったら。その発想の枠を広げていく作業は、単純なようでとても難しく、大切な道筋だ。「自分や自分の身内だったら」と発想すること自体がエゴイスティックでダメだということではなく、その発想の「次に何を考えるか」が問題なのだ。

それまで「わからなかった」人が、大切な存在を得ることによって想像力の第一歩を獲得するならば、「わかるようになり始める」ならば、それはとても尊いことなのだ。
そして「大切な誰か」は、他者でなくとも、自分自身でも良いのだ。

「超えてはいけない境界線」を自分の中に持つことは、自分という人間の根源的な部分に、救いを投げ入れてやることなのだと私は思っている。

虐殺や虐待の事実を、遠くで笑っていられるということ。笑っていられる人間を、呑気に「許してやれ」と言うこと。私はその呑気さがとても恐ろしい。
それがどんなに「過去のこと」であっても、無知ゆえのことであっても、私はどうしても、とんでもないことだという気がしてならない。
他者のためだけではなく、自分自身に対して、償い続けなければならない問題であると思う。

人間が、人間に対してどれだけ残酷に振る舞えるかと言うことを考え続けることは、心の中に深い淵のように憂鬱で危ういものをもたらす。でも、その「危うさ」を私たちは見つめ続けないといけないのではないか。そのことでしか、私たちは「人間」として生きていけないのではないか。

このかんあらわになった、一連の人権問題。奇しくも「オリンピック・パラリンピック」がもたらした、ヒューマニズムとは何かを問う問題群だと思う。

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