英語教育への思い 〜自己紹介〜

最近、MOOC(世界の有名大学の授業がオンラインで受けられるコース)のひとつであるCourseraで、Georgia Techが提供し、Certificateも取得できる English Improvement のコースを修了しました。

課題の中で ePortfolio を作ったのですが、改めて、大人になってからの自分の棚卸のようなだあ、、と思いながら、楽しく英語での自己紹介を作ったのでした。

このnoteの記事でも、どのような経緯と思いで、日本人が「使える英語力」を身につけられるために動いているのか、改めて、自己紹介を書いてみたいと思います。

小中学校時代

東京のベッドタウンである千葉県で育った私は、公立の小中学校通いました。
英語との出会いは、普通に中学一年の英語の授業です。
「教科英語」に違和感を持つこともなく、学校の勉強はわりと得意だったこともあり、きちんと教科書で学んで得点する「英語」を身につけました。

県内の進学校に進学した高校1年生になる頃には、深夜ドラマで放映されていた「ビバリーヒルズ高校白書」(続きのシリーズは青春白書だったかなあ…)を録画して見ては、「アメリカの高校ってこんななの?!なんかすごーい、かっこいいー」という、普通のアメリカへの憧れを抱き、「高校で交換留学して1年間アメリカの学校をみてみよう」と思ったのでした(本当にそのくらい軽い気持ちだった気がします)。

とはいえ、通っていた高校には交換留学制度などなかったので、自分で留学団体を調べて、EFという団体の制度で留学しよう!と決めたのでした。
(当時インターネットがない中、どうやって調べたのか、いまとなっては思い出せません。。そしてEFでの経験はイマイチなことも多かったので、、今ならもっとたくさんの類似団体を調べて比較検討しただろうなあと思います。子どもだったので、一つみつけたところでパッと進めてしまう無鉄砲さがあったのですね…)

両親はすぐにはOKとは言ってくれませんでしたが(海外にゆかりなどまったくない家庭でしたし)、高校1年生の間に貯めたアルバイト代と留学費用がほぼ同額(100万円くらい、バイト代を充てて行く、だからいいでしょうという発想)ということを理由に一生懸命説得しました(今思うと、両親のポイントは支出ではなかったはずですが、、高校1年生の私には親の心配など知る由もありませんでした^^;)。
ある程度時間がかかりましたが、両親の同意は無事得られました。

通っていた高校では、1年間の留学は前例がない、と言われましたが、意外と融通が聞いて、まあいいんじゃない、とOKしてもらえ(笑)、無事、高校2年生の6月頃、10ヶ月間のアメリカ留学に旅立つことができたのでした。
アメリカの高校卒業がClass of '99 だったので、、1998年のことです。

交換留学 ケンタッキー州での10ヶ月間

交換留学は、サンフランシスコの大学の寮に3週間暮らしながらの、アジア人留学生向け英語研修から始まりました。ここでは台湾や香港からの留学生と出会い、なかなか楽しい時間を過ごすことができました。

さて、研修が終わったあと、それぞれ団体が決めた州に留学生は送られていきます。私はケンタッキー州でした。たしか出した希望にはカリフォルニアと書いたはず(苦笑)。
そこからさらに、地域コーディネイターと呼ばれる世話人ごとに3人くらいずつに分けられ、最終目的地のホストファミリー宅までそれぞれ散って行ったのでした。

この時点で、私のホストファミリーはまだ決まっていないということで、しばらくの間、地域コーディネイターの方の家でほかの留学生とともに寝泊まりしていました。時々あるケースと言われながらも、ワクワクしていた期待がしぼんで不安が大きかったこの頃。。

数週間後、ホストファミリーが決まったと聞かされ、さらに田舎の隣町へ。(この時、すでに新年度がスタートしていると聞かされたことには驚き焦りました。。何一つ自分で知る方法はなく、あとから知らされるだけの身で、こういった派遣団体に全てを任せている海外留学生としての不安や居心地の悪さはなかなか辛いものでした)

ホストファミリーは、優しそうな両親と2学年年下の女の子(10年生)のいる家庭でした😊
この家庭はチェーンでないバーガー屋さんを営んでいて、まあユニークな暮らしではありました。家では一切料理をしないので、自宅キッチンには調味料もないという状態。食事は常にお隣のバーガーショップで自分で作って済ませていました(作れるのはメニューにあるものだけなので、、チキンフィンガーとかバーガーとか、朝食にはビスケット&グレービーとか、、、帰国時すごく太ったのは言うまでもありません…)

ホストファミリーとはいろいろな思い出がありますが、見ず知らずのアジアから来た留学生を10ヶ月もお世話してくれて、今となっては感謝しかありません。リベラルなNYやDCとは大分違う、保守的な赤色の(リパブリックの)アメリカであるケンタッキー。自分の常識とは異なることも多く、いろいろと思うこともありましたが、このファミリーや出会った人々は、懐の深い優しい人たちでした。今もフェイスブックなどで近況をやりとりしています。

さて、肝心の高校での生活と英語について

私は12年生(ハイスクールの最終学年:Senior Year)に編入することができました。シニアになれば、学校によっては高校卒業資格も出してくれる、と聞いていましたし、授業も選択科目が多くなるので楽なものを選びやすいし、これはラッキーでした。

できるだけ英語力が影響しないような選択科目を選び、この1年間の授業は、
(必修)英語、アメリカ史、作文
(選択)コンピュータ、コーラス、スペイン語
となりました。

コーラスとスペイン語は本当に楽勝で、ありがたい時間でした!😂
一方で、英語やアメリカ史、作文(Composition)のクラスは全くついていけず、はじめのうちは全く授業はわかりませんでした。そのうちに、わかる時やわかる単元が出てきて、最終的にはなんとなーくついていけて、成績もおまけしてもらいつつ?きちんと取れた、、という感じでしょうか。

でも、シェイクスピアの勉強で「ベニスの商人」を扱っているときには、ちょっと読んだけれど手に負えない💦 とすぐに切り替え、急いで日本から翻訳版を送ってもらったりしましたね。。。(ありがとうお母さん!)

今現在、自分の子ども二人がアメリカでミドルスクーラーをやっていますが、ミドルの内容でさえ、当時の私には理解できる英語力がなかったと思います。
それでも、一緒に授業を受けていれば、なんとなく、どうにかなっていくのですよね。

余談ですが、これは対面 in-personの、授業だからできたことだと思います。学校という場や授業という学びにおいては、コンテンツではない部分に寄る部分が本当に大きいと思います。
もし、私の留学中の授業がいま現在のようにオンライン授業だったら、、、きっと無理でした。なんとかやり切れたとしても、おそらく理解できたことも英語力の伸びも、心が温かくなる体験の数も、大きく違っていたはずです。


その、授業以外の、なんでもない時間の英語での会話についてですが。
同級生との挨拶や会話は、実は授業に増して苦しかったです。

"How are you doing?" と、"What are you doing?"
さえ、違いが聴き取れない。
いつも変な受け答えをしては笑われてしまい、恥ずかしいやら悔しいやら…突然自分が何もできない、何も知らない赤ちゃんになってしまったような感覚で、強い居心地の悪さを感じていました。のちに、これは外国語学習中の人は皆ある程度通る道だと知りましたが、当時は17歳という年齢も相まって、プライドと自尊心とが傷つけられ、かなり気持ちが消耗してしまいました(しかし今となってはこれも良い学びでした)。

英語を勉強してきたのに、ちょっとした会話でさえできないという事実は悔しいものでした。(ケンタッキーの南部アクセントについては今は語らないことにしておきます😅)
中学高校では、ある程度の難しい文法事項も単語も学んできたのに。。成績もよかったし、読書もたくさんしていて新聞も読んでいて意見もたくさんもっているのに。。。幼児レベルの会話でさえできないということに、大きなショックを受けました。。

今ならわかります。
英語を学んできたと言っても、それは教室内、教科書上の「Learning お勉強」だったのです。
実生活で使える言語として英語の「Aquisitiion 習得」はまったくできていなかったのですよね。

私が、日本人の英語学習についてあれこれ言いたくなるのは、月並みですが、やはり自分の経験したショックが大きく、日本の英語教育がこれでよいはずがない、という想いがあるからなのだと思います。学校の授業で、話せるようにさせてくれ!と思うわけです。(そしてそれは不可能ではないと思っています)

アメリカ人のネイティブ式英語学習法を発見!

10ヶ月の交換留学期間を悲喜こもごもで乗り越えた私は、日本の高校3年生に再編入しました。(1年間分はアメリカの高校の単位を移行して、日本の高校は2年間で卒業しました)

いっときは「アメリカの大学にいきたいなあ」などと言ったりもしましたが、実は、この時点ではアメリカの大学に対しても英語学習に対しても、大したモチベーションは持っていませんでした。あまりアメリカにも英語にも興味がなくなってしまったのです。。

進学やその後については漠然としか考えられず、とりあえず、1年間現地でサバイブしてきた英語力を武器にに日本の大学受験をして、英語の強いと言われる大学に進学。

大学では、英語の授業は必修だった一年時のひとコマ以外一切取らず😅 代わりに、アメリカ時代に興味を持ったスペイン語を第二外国語としてたくさん勉強しました(専攻はスペイン語にせず、教育学にして、あくまで趣味としての学びにしました)。

夏休みにスペインに短期語学学校留学するなどして、スペイン語も、英語ほどではないけれど、コミュニケーションは普通にとれるくらいには使えるようになりました(スペイン語学習においては、Real Worldでの練習も取り入れていたので、アカデミックにもコミュニケイティブにも使えるようになっていました)。

次に私が「英語」に意識がを向けたのは、実はずっと後のこと。。

就職し、結婚し、夫の海外赴任に帯同してアメリカNY郊外で暮らしていた時です。この時、自分の子どもたちがアメリカのネイティブ式に英語を学ぶ過程を観察して、ひらめくものがありました。2010年のことです。

5歳の娘がキンダーガーデン(公立小の一番はじめの学年)で、アメリカ人と一緒に英語の読み書きを学ぶようになって、ハッとしたのです!
「この方法なら、日本人だってみんな英語をきちんと身につけられるじゃないか!」と。

日本人も英語が使えるようになるレッスン

そこから、アメリカ式のフォニックス習得、リーディング能力の上げ方を3年間観察し、帰国後、この時学んだ方法をメインに、英語レッスンを提供するようになったのでした

最初は、教員資格も英語を教える資格も取っていないで躊躇していたのですが、、私が自分の子どもたちの英語力を私なりのメソッドで上げ続けているのを知った周りのママ友から、依頼されるようになったのです。

初めは、「アメリカ駐在が決まったので子どもたちに英語を教えて欲しい」という依頼を期間限定で受けたのですが、それが広がって、いつの間にかレッスンをかなりの時間提供するようになり、後から個人事業主として教室を立ち上げた、という流れでした。

英語教室OECのフライヤーです。

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中学生のレッスン依頼も受けるようになってから(中学生は個人チューター方式で、主に英検と学校の定期テストをフォローするレッスンにしていました)、現在の中学校の英語授業の様子がわかるようになりました。生徒さんは異なる3校の私立中学に行っていましたが、やはり、、私の時代と大差ない、机上の教科としての勉強でした。。

一生懸命学んでいる生徒さんたちが、このままではいくら勉強しても「使える英語」を身につけられない!そう思った私は、中学生にも、小学生のレッスンと同じ内容のイチから「使える英語」を習得するためのレッスン内容を提供するようになりました。
でも、中学生は、定期テストで点を取らないといけないし、英検も取っておかないといけないし、、部活があるから勉強時間はほとんどないし、、本当に忙しいんです。学校の授業自体を変えて、私が放課後にレッスンでひとりずつ個別に提供している内容を、昼間に学校で提供してほしい!!と思うようになったのです。

今、再び夫がアメリカ駐在の機会を得て家族でメリーランド州に引越した関係で、教室を一旦クローズしてここまでを振り返るチャンスを得ました。

いまも依頼を受けるベースで、オンラインでレッスンを続けていますが、今後私がしたいのは、

個別に近くにいる子どもたちの将来を支えるために英語力をつけるお手伝いをすること

と同時に

日本の学校の英語教育を根本から変えるように働きかけること

になりました。

長々と書いてきましたが、このストーリーの後半は、ePortfolioの自分についてのページにも英語で書いています。英語でも読んでみてくださる方は、ぜひのぞいてみてくれると嬉しいです。



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