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【山梨県立博物館】企画展「富士川水運の300年」を見に行く

はじめに

 山梨県立博物館では企画展「富士川水運の300年」(2024.3.16~5.6)を開催しています。
 江戸、明治、大正時代にかけて、300年に渡り富士川水運は山梨の物流を担いました。とくに江戸時代は年貢米を江戸まで輸送せねばならず、物流の拠点として設置された3か所の河岸かし(鰍沢、黒沢、青柳)は大いに栄えました。とくに規模の大きかった「鰍沢かじかざわ」は葛飾北斎《冨嶽三十六景》や落語の演目などにも名を残しています。

サインボード
村田一夫氏撮影、鰍沢河岸、富士川町教育委員会蔵
出典 : 本展図録

富士川水運の300年

 企画展「富士川水運の300年」(2024.3.16~5.6)は、富士川水運が年貢米の輸送ルートとして成立した17世紀初頭から富士身延鉄道(現JR身延線)の全線開通により役割を終える20世紀前半まで、物流の大動脈として君臨した300年間をおよそ110点の資料から紹介するものです。

「富士川水運の300年」
関連資料の一部とイベント紹介

 ドローンで撮影した映像を使って富士川の舟下りを疑似体験できる映像コーナーもあります。現在の富士川の映像ではありますが、川面ぎりぎりの迫力のある映像が楽しめます。

三方のスクリーンで疑似体験 出典 : 山梨県立博物館 X

 ちなみに「富士川水運」「富士川舟運」ともに使われる名称でとくに区別はありません。担当学芸員によれば、山から伐った木材を筏にして流すなど、舟以外も運搬に使用していたため、本展では「富士川水運」で統一しているといいます。

 多くの展示資料が富士川町教育委員会の所蔵です。富士川町教育委員会の資料は、富士川町歴史文化館「塩の華」の「富士川水運歴史館」にて通年展示されています。

プロローグ なぜ水運だったのか―江戸時代甲斐国の物流構造―

 エントランスから進むと企画展示室が見えてきます。撮影可能な展示として高瀬舟の模型が目を引きます。

エントランスから企画展示室

 かつては各地の河川では高瀬舟が用いられていましたが、富士川水運で使用された高瀬舟は富士川の急流を下るため特に船底が浅く、細長い造りをしていました。長さ12メートル、幅2メートル(最も広いところ)、深さ84センチメートルです。1艘を4名の船乗りで運行し、年貢米だと一度に32俵輸送できました。模型には帆が付いていますが明治時代以降の姿です。

水運を担った高瀬舟の1/4模型

 展示では、まず甲斐の国の置かれていた物流の構造について説明と資料があります。
 「甲斐国絵図」という江戸時代の地図を見ると、南の方角にある富士山が左上に描かれています。東京方面と往来の多い現代とは異なり、静岡の方へ人も物も流れが向いていたことが分かる資料です。また川が多数描かれていることは水が豊富で川が多かったこと、またその川が集まり富士川となり駿河へ流れていることを表しています。

小林貞助写「甲斐国絵図 」、1812年、山梨県立博物館蔵
出典 : 本展図録

 戦国時代に武田家が滅び甲斐の国の領主は、家康の直轄領、徳川忠長、甲府徳川家、柳沢家、幕府直轄領と変遷していきます。いずれの時代も、年貢米は領主のいる江戸まで輸送せねばならず、富士川水運は年貢輸送が第一目的で整備され、物流拠点としての河岸かしが設置されました。
 河岸のひとつ「鰍沢かじかざわ」は葛飾北斎《冨嶽三十六景》甲州石班澤《こうしゅうかじかざわ》としても描かれました。南方にあった渓谷付近を描いたと言われていますが、岩に載る漁師とともに富士川の荒波が分かります。

葛飾北斎《冨嶽三十六景 甲州石班澤(こうしゅうかじかざわ)》
出典 : 山梨県立博物館HP

第一章 角倉了以の富士川開削

 富士川水運を開拓した人物として名のあがるのが角倉了以すみのくらりょうい(1554年~1614年、天文23年~慶長19年)です。
 京都の豪商であった了以は私財投入して大堰川(保津川)、高瀬川の開削を行った人物です。私財投入分は通行料収入で元が取ったといわれています。
 了以は、河川改良の腕を見込まれて、徳川家康から富士川の開削の命を受けて改修にあたりました。了以は、高度な土木集団を指揮下にもっていたものと考えられます。
 展示室には、角倉了以の木像が2体あります。京都の大悲閣千光寺と端泉寺のものでいずれも17世紀に作られとされます。片膝を立てて座り、手にすきを持っている姿は同じです。この2体の像が同時に並ぶのは初めてのことで貴重な機会だといいます。

角倉了以像、17世紀、大悲閣千光寺蔵
出典 : 本展図録
角倉了以像、17世紀、端泉寺蔵
出典 : 本展図録

 了以による開削より前から富士川を行き来する舟はありました。ただ富士川を高瀬舟が通れるように整備したという意味では了以の名が挙がります。
 また、了以以降の時代も富士川の整備は続いており、絵図「水行直仕方図絵」1817年(文化14年)などからもその様子がみてとれます。

磯野新太郎筆、水行直仕方図絵 、1817年、富士川町教育委員会蔵
出典 : 本展図録

第二章 年貢米輸送と商い荷物

 富士川水運が運んだものとしては、年貢米、商い荷物、旅客といわれています。旅客は人の往来が自由になった明治以降に活発になります。江戸時代は年貢米の輸送が何より重要な目的でした。

2-1 年貢米

 年貢米ですが領主は村ごと石高を決めて年貢米の調達、輸送から納入までを責任として負わしています。村請制といいます。直轄領であった甲斐の場合、村請制に従うと年貢米は江戸まで納入する必要があり村ごとに江戸まで輸送の責任を負うのはたいへんなことです。
 そこで幕府は、拠点となる3つの河岸かし(鰍沢、黒沢、青柳)を定め、そこに幕府の蔵を置き、役人による確認を受ければ、その後は河岸問屋がまとめて江戸まで運ぶようにしました。河岸問屋に運賃を払うことになるものの輸送の負担は減り楽になります。

三河岸の地図 出典 : 本展図録

 河岸に集められた年貢米の輸送経路はというと、まず河岸から高瀬舟に米俵を積みおよそ71キロメートル離れた岩淵(静岡県富士市)まで下ります。時間にして4~8時間ほどです。
 岩淵の河岸では馬の背に積み換えて陸路を蒲原浜まで運びます。
 蒲原浜では回し舟に積み替えて清水湊まで運びます。
 清水湊で太平洋航路の弁財船に積み替えて江戸まで運びます。弁財船は1800俵積める大型の船です。あとは順調ならば10日の道のりで浅草にある御蔵に到着します。
 日の丸に「御用」(公用)と書かれた旗があります。水運の舟が年貢米の輸送をする舟が掲げた旗で、河岸や湊への出入りの優先や通行料の減免など優遇されました。

「御用」旗、江戸時代、富士川町教育委員会蔵
出典 : 本展図録

 清水湊を描いた「駿州清水絵図」を見ると。絵図の中央に積み下ろしのための「甲州廻米置き場」があります。跡地は現在も山梨県の県有地(公園や民間会社に借している)になっています。

駿州清水絵図、1859年、静岡市歴史博物館蔵
出典 : 本展図録

 「駿州清水湊御廻米船福神丸図」は太平洋航路の弁財船と呼ばれる大型船を描いた絵図です。

駿州清水湊御廻米船福神丸図、江戸時代、山梨県立博物館蔵
出典 : 本展図録

 江戸時代の浅草描いた「東都浅草絵図」を見ると、白く櫛の歯のように見える部分が浅草御蔵であり、一大集積地でした。運ばれた年貢米はここに納められました。

東都浅草絵図、1861、個人蔵
出典 : 本展図録

 岩淵河岸、蒲原浜などで積み替えの際は、役人が常駐しており年貢米を検査します。検査のたびに俵から米がこぼれるほか、輸送中に荷崩れしてこぼれることもあり、米が不足しないように都度補充して江戸まで届けます。予め補充分を欠米かんまいといい用意していきます。積み替えが多いだけに欠米の量は1割にもなり、それでも足りなければ江戸で米を購入して補ったといいます。補充分がけっこうな負担であったことが当時の文書などから分かるといいます。

2-2商い荷物

 年貢米とともに運ばれたのが商い荷物ですが、年貢米積んで川を下り、帰りは、商い荷物を積んで舟を曳いて川を上り帰ってきます。買い付けた荷物は海産物のほか、塩、茶、藍玉、瀬戸物などでした。いずれも甲斐では手に入らないものです。河岸に着いた荷物は駿州往還などを通り信州方面にも陸路運ばれたといいます。
 下りは舟で岩淵までのは4~8時間であるのに対して、上りは4~5日かかります。上りは船乗り4人が人海戦術で川を引き上げていくのです。徒歩で2日で踏破できるところを舟を曳きながらでは4日もかかるのです。
 「富士川曳舟蒔絵碗」は、蒔絵の碗に上りの曳舟の様子を描いたものです。こうした図柄を描いているのはたいへん珍しい品だといいます。

富士川曳舟蒔絵碗、江戸時代、個人蔵
出典 : 本展図録

 蝋燭の形をしたものは鰍沢の商店にあった紀州の蝋燭を扱う商店に置かれた看板です。18世紀後半紀州は蝋燭は一大産地でこうしたものも運ばれて河岸の商店で扱われていました。

紀州蝋燭看板、江戸時代、個人蔵
出典 : 本展図録

 こちらも鰍沢の商店(金星商店)の看板です。明治時代のものと思われます。こちらを見ると塩のほかにも小麦粉、肥料、石油(灯油)など品目が多彩になっています。明治以降は、こうしたものも水運で運んで商売をしていたことが分かります。

金星商店看板、明治時代か、富士川町教育委員会蔵
出典 : 本展図録

第三章 三河岸の繁栄―鰍沢・黒沢・青柳―

 三河岸かし(鰍沢、黒沢、青柳)には問屋や船頭たちが集まっており、彼らは年貢米を輸送のほか、商い荷物の売買により利益を得ていました。河岸は舟の数に応じた営業税(運上金)を幕府に納める代わりに商い荷物の営業権を独占的に認めてもらっており大いに繁栄しました。

三河岸の地図 出典 : 本展図録

 三河岸の年貢米輸送の割り当ては代官所ごとで次のようになっていました。
 鰍沢・・・甲府代官所、諏訪高島藩、松本藩の年貢を扱う
 黒沢・・・石和代官所の年貢を扱う
 青柳・・・市川代官所のうち富士川左岸の村の年貢を扱う

3-1 鰍沢河岸

 鰍沢は三河岸の中でも最大規模を誇っていました。陸路の駿州往還の途中にあり信州方面の年貢を扱っていたことから規模も大きく発展していったといいます。
 また、身延山参詣客の拠点としても栄えました。落語の「鰍沢」は身延山詣の途中、鰍沢で道に迷った江戸商人の話です。落語のほうは明治時代に成立した演目のようですが、いずれからも、鰍沢の名が有名であったことが伺えます。

 展示には富士川の様子を描いた襖絵があります。明治時代の作で鰍沢の旅館の襖だったものと思われます。こうした文化的なものも鰍沢の繁栄を伺わせます。
 「富士川沿岸戸板橋天神ヶ滝ノ積雪」(右)は雪の積もる冬の景色です。
 「富士川沿岸楠甫舟付岩」(左)は楠甫村(現市川三郷町)の舟着き岩の様子を描いています。

笠井信三筆「富士川沿岸戸板橋天神ヶ滝ノ積雪」明治時代 (右)
笠井信三筆「富士川沿岸楠甫舟付岩」明治時代 (左)
出典 : 本展図録

 「富士川沿岸風景塀岩の昇帆」(右)は富士川最大の難所と言われた「屏風岩」を描いています。
 「富士川沿岸水山高前寺」(左) は川のほとりの岩場に建つ高前寺(現市川三郷町)を描いています。

笠井信三筆「富士川沿岸風景塀岩の昇帆」明治時代 (右)
笠井信三筆「富士川沿岸水山高前寺」明治時代 (左)
出典 : 本展図録

 峡鰍楼きょうしゅうろうという鰍沢の旅館の看板があります。建物の記録が定かではないものの、看板の大きさから相当大きな旅館だったことが推定されています。担当学芸員によれば峡鰍楼の屋号は「こなや」といい、甲府市中心部の古名屋ホテルの前身ではないかと推測できるのですが確証に至っていないそうです。

峡鰍楼看板、明治時代か、富士川町教育委員会蔵
出典 : 本展図録

 鰍沢では祭のたびに山車の巡行を行っていたといいます。山車や巡行の際に演じられる「鰍沢ばやし」は京風と江戸風を合わせたもので、現在も鰍沢では4基の山車を地区ごとに所有しているといいます。

山車模型、昭和時代、富士川町教育委員会蔵
出典 : 本展図録

 鰍沢河岸の姿か分かる資料として、『諸国道中商人鑑』に鰍沢河岸の御米蔵の絵が残されています。

諸国道中商人鑑、1927年、山梨県立博物館蔵
出典 : 本展図録

 鰍沢河岸の跡、国道52号より、背後に見える橋は富士橋の位置です。上記に描かれた御米蔵の基礎の石垣が出土した時の模様です。

基礎の石垣 出典 : 本展図録
鰍沢河岸跡出土陶磁器、江戸時代、山梨県立考古博物館蔵
出典 : 本展図録

3-3 黒沢河岸

 黒沢くろさわ(くろざわともいう)は、三河岸の中でも唯一対岸に位置する河岸でした。笛吹川沿岸からの物流の集積地でした。鰍沢の取扱量が増えるに従い黒沢に入る荷物は少なくなっていきました。現在黒沢河岸の跡を確認することは困難です。

3-2 青柳河岸

 青柳は、三河岸の中で上流部にあります。成立が遅かったためか他の河岸と同等扱いを求めていました。市川代官所の年貢を扱うことで重要な物流拠点でしたが、鰍沢が独占を強めていく中で影響力は弱まりました。
 青柳河岸は現在の「道の駅富士川」の辺りといわれています。

青柳河岸があったといわれる「道の駅富士川」 2022年11月

 さて、青柳はボロ電と呼ばれた山梨交通の路面電車の終着点甲斐青柳駅(昭和37年廃止)のある地域でもありました。ボロ電の開業は水運の衰退した1930年(昭和5年)です。

富士川町の利根川公園に保存されている車両 2022年11月

 余談です。青柳の古老に伺った話では、鰍沢町と青柳(増穂町)は平成の合併により富士川町となりました。しかし河岸時代の因縁でしょうか、もともと青柳と鰍沢の仲はよくなく、互いに合併後の主導権を握ろうとしていたそうです。結局青柳のほうが中部横断自動車道の増穂ICがあり、行政の中心になっています。一方で税務署や警察署、職業安定所などの機関は河岸時代の存在の大きさからか現在でも鰍沢にあります。
 また大衆の娯楽であった映画館についてみても映画最盛期に「南嶺劇場」(青柳)「銀嶺劇場」(鰍沢)を同じ経営者が経営していました。さいごまで残ったのは青柳の「南嶺劇場」で1988年(昭和63年)まで営業していました。1962年(昭和37年)に廃止された「ポロ電」の甲斐青柳駅のすぐ近くでその名残りで後まで残ったのでしょう。

第四章 水運のシステム

 水運を支えていたのは河岸の問屋と舟を操る船頭たちでした。18世紀頃の記録からは、三河岸で合わせて500艘ほどの舟が稼働していたといいます。
 「問屋」という表現には、米や塩などを扱う商人という意味と河岸をとりまとめる中心人物である河岸問屋の二つの意味があり、混用されています。
 「船頭」についても、乗組員を言う場合と乗組員をまとめる船長を言う場合と混用されており、どちらを意味か記録の内容から判断する必要があるといいます。
 また船頭には、自分の舟を持つ「舟持ち船頭」と舟持ちや問屋から雇われている船頭がいました。雇われている船頭は周辺の村から農閑期の出稼ぎで来ている者が多くいたといいます。

 船頭が使用していたものとして、箱型の枕があります。引き出しがついており貴重品などを収容できるようなっています。上りの舟は4日ほどかけて河岸まで曳くため箱型の枕は野宿で用いられました。

箱枕、明治時代か、富士川町教育委員会

 また、足半草履あしなかぞうりは、舟を曳く船頭が履いていたつま先部分を覆う草履です。

足半草履、明治時代か、富士川町教育委員会

 また、旅客輸送ですが、富士川沿いを徒歩では2日間の工程でしたが、舟で下れは数時間で到着できたため、需要は多かったといいます。

十返舎一九作、歌川豊国画『金草鞋十二編 身延山道中之記』、1819年、山梨県立博物館蔵

 ただし、激流を下るため、船底の板一枚の高瀬舟で船頭に命を預けていたといえます。たびたび水難事故も起こしていましたがそれでも旅客は絶えなかったといいます。

高瀬舟底板、明治時代か、富士川町教育委員会

 ところで、三河岸の扱い量や商い荷物が増えるに従い河岸の独占が強まり争いが起きています。
 現在の韮崎市である河原部村に河岸(国道20号線の船山橋のある辺り)を設置する周辺の村からの要望と反対する三河岸側の主張といった文書が残っています。
 三河岸にしてみれば上流部にある河原部に河岸ができると信州方面への塩など商品の扱い量が激減します。特に強硬に反対したのは信州方面の年貢を扱っていた鰍沢でした。最終的には幕府への運上金を増額することで三河岸(もっぱら鰍沢)の主張が通り、河原部に第四の河岸の設置は叶いませんでした。

三河岸とその上流にある河原部 出典 : 本展図録

 また、甲府の塩問屋設置問題というものもありました。かつては17世紀には鰍沢のほかに甲府に塩問屋があり流通価格を設定していました。18世紀になると三河岸の塩問屋が隆盛することで甲府の塩問屋は衰退し、価格の決定権を三河岸(おもに鰍沢)に握られ塩の価格が高騰しました。これに対して再び甲府に塩問屋の設置を求める動きに発展しましたが、最終的には三河岸が幕府への運上金を増額することで、甲府への塩問屋設置は認められず独占を維持しました。

第五章 時代の推移と富士川水運

 明治の時代になると年貢米の輸送はなくなりましたが、その代わり旅客の輸送なども増え、塩のほかに灯油や砂糖なども入るようになり扱う品目が増えます。富士川水運の輸送量は明治中期に最盛期を迎えています。

5-1 明治時代の水運

 明治時代になると水運は民間中心の運営へと移行します。1875年(明治8年)に遠藤総知、青柳詢一郎らにより富士川運輸会社が設立されました。
 「運輸会社設立願」は、会社の設立を県令に申請したもので翌年に会社の設立が許可されています。

運輸会社設立願、1873年、山梨県立博物館蔵
出典 : 本展図録

 こちらは、富士川運輸会社で用いられていた荷札です。富士川運輸会社は県からのお墨付きを受けて舟管理運行と塩を独占的に扱いました。

富士川水運積荷木札一括、明治時代、富士川町教育委員会
出典 : 本展図録

 また、大正時代の資料ですが、飛行艇の時刻表というものがあります。飛行艇とは木造船に飛行機用のエンジンをつけてプロペラを回して進むというものでした。身延駅(鉄道は富士駅から途中の身延駅まで部分開通)から鰍沢まで3往復しており、下り1円60銭、上り2円50銭でした。しかし騒音問題から飛行艇は短期間で廃止されたといいます。

富士川飛行艇時間及賃金表、1925年、富士川町教育委員会
出典 : 本展図録

5-2 鉄道の開通

 1903年(明治36年)、中央本線が甲府まで開通し、八王子経由で東京や横浜へ向かうルートが完成しました。物流は中央本線による鉄道運輸へと移ります。
 その後、1920年(大正9年)、富士身延鉄道が静岡側である富士-身延間が開業しました。甲府まで全線開通は1928年(昭和3年)になりますが、富士川に沿うように富士身延鉄道(現JR身延線)が全通すると一気に水運は衰退しました。富士川運輸会社は1922年(大正11年)に解散しており、富士川水運の役目は終わり300年の歴史に幕を閉じました。
 現在は、治水政策などで富士川の水は少なくなっており盛時の面影はありません。

吉田初三郎筆、富士身延鉄道沿線名所図絵、1928年、山梨県立博物館蔵
出典 : 本展図録

 甲府駅の1929年(昭和4年)、開業間もないの富士身延鉄道と中央本線の時刻表です。中央本線が上り下りが12本ずつであるのに対して、甲府始発の富士身延鉄道は19本と運転本数が多いことに注目です。

甲府駅発車時間表、1929年、山梨県立博物館蔵
出典 : 本展図録

5-3 石丸岳水日本画

 日本画家石丸岳水は戦前から戦後にかけて活躍した日本画家で、数多く鰍沢に関する作品を残しています。
 まずは、明治時代中頃の鰍沢河岸の様子を描いたものです。

石丸岳水《下り船をまつ》1968年、富士川町教育委員会蔵
出典 : 本展図録

 こちらは船頭が舟を引いて川を上っていく姿を描いています。左上に小さく描かれている舟は三人が曳き一人船頭が舟に乗っています。また右には大きく二人の船頭が体を傾けて引いている様子を大きく描いています。

石丸岳水《富士川の曳舟》昭和時代か、富士川町教育委員会蔵
出典 : 本展図録

 こちらも4人の船頭が舟を曳いています。舟には荷物が満載され、一人の船頭が竿で舟の舵をとっています。

石丸岳水《曳舟の図》1971年、富士川町教育委員会蔵
出典 : 本展図録

 続いて、明治時代の鰍沢の町並みを描いたものです。家が数多く建ち並んでいます。手前の富士川に舟が停めてあるのが分かります。

石丸岳水《鰍沢之町》1965年、富士川町教育委員会蔵
出典 : 本展図録

エピローグ 富士川水運が遺したもの

 展示の最後は、古写真で富士川水運の現役時の姿を紹介しています。
 古写真は村田一夫氏の撮影したものです。帆掛け舟が水量の多い富士川を行く姿が分かります。ちなみに帆を出して進むのは、上りの時だけで4日かかっていたところが2日に短縮されたといいます。また、写真の中には鰍沢の河岸の様子や、賑わいのある商店街の様子なども残っています。

帆掛け舟(年代不明)、富士川町教育委員会蔵
出典 : 本展図録
帆掛け舟(昭和初期)、富士川町教育委員会蔵
出典 : 本展図録
船頭たち(年代不明)、富士川町教育委員会蔵
出典 : 本展図録
鰍沢河岸か(年代不明)、富士川町教育委員会蔵
出典 : 本展図録
船着き場(年代不明)、富士川町教育委員会蔵
出典 : 本展図録
鰍沢の町(昭和5年)、富士川町教育委員会蔵
出典 : 本展図録

おわりに

 富士川水運が担った年貢米の輸送制度がよくわかるとともに、三河岸(鰍沢、青柳、黒沢)の経済力(独占の歴史)や船頭、商人の様子などをうかがい知ることができる展示でした。
 水運は、富士身延鉄道の開通により一気に終焉を魔かえた交通システムでした。近年は、中部横断自動車道の開通で山梨からの人の流れも変わりつつあります。将来予定されている二リア中央新幹線によって、名古屋方面が近くなることで今後どんな影響を与えていくのでしょうか。

参考文献
図録『富士川水運の300年 』山梨県立博物館、2024
中野賢治 かいじあむ講座「富士川水運が運んだもの」(山梨県立博物館生涯学習室、2024.3.24、13:30~15:00)配布資料

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