『水星の魔女』をようやく観ました

以前からTwitterのTLで話題になっていたガンダムの新しいやつ、水星の魔女を観ました。実はガンダムシリーズ自体をそもそも観たことがなくて、初ガンダムでした。
そこでTwitterで感想をいろいろ呟いていたのですが、いいかげんに長くなってきたので、ここらでnoteにまとめておこうかなと筆を執った次第です。
改めて言うまでもないことですが、以下の内容は全て個人の解釈です。変わることもあります。

2023.03.21追記:
他の方の水星の魔女についての記事を読んで気付いたのですが、そもそもプロローグで出てきた少女は「スレッタ」でありあの「母親」は「お母さん」なのか???  という疑問がありましたね。
物語の構造ばかり見ていてちゃんとキャラクターを把握していませんでした。とりあえず、以下では「少女=スレッタ」、「少女の母親=お母さん」という認識でいきます。
※基本的に物語に関わる重要人物は最初期から全員登場していなければならないはずだ、という脚本術の観点からです。


「やめなさい!」ってこれかぁ

トマト、美味しいですよね。
たびたびTLに流れてきていた例のトマトピューレの件でだいたいの概要は把握していたのですが、やっと実際のシーンを観ることができました。

まず最初に思ったんですけど、制作陣の性格悪すぎるやろ。ほんのちょっと前にスレッタとミオリネが抱きしめ合って「あ、なんかいい感じ~」と思わせといてこれて。視聴者の心を壊すことに喜びを感じるタイプのサイコパスか? わかります。楽しいですよね、創作物で他人の心に傷を残すの
サディストどもは放っておいてこのシーンについて考えてみると、「スレッタもミオリネも、大切な人が自分の目の前で殺人を犯したところに直面している」んですね。でも、二人の反応がそれぞれ異なる。
で、それはなんでなのか、と考えてみると、スレッタの母、プロスペラ・マーキュリー(名前が長いので以下「母」と呼びます)の存在が大きいんだな、と。

スレッタは母が攻撃者を撃ち殺す場面を見ています。でも、殺人に怯えるスレッタに、母は即座に優しい言葉をかけて、「殺人」という重いインパクトをスレッタの意識から追いやっている。そして「進めば二つ」の言葉で、クリーンなイメージをスレッタに植え付けている。
対してミオリネには、誰もいない。スレッタが攻撃者を真っ赤な花にしたとき、ミオリネの心にのしかかる「大切な人が人を殺した」という事実の重みを支えてくれる人も、その重さを忘れさせてくれる人もいない。
これが二人の間の大きな溝になっているんですね。

……と、ここまでは一目でわかることなので、もう少し踏み込んで考えてみたいと思います。


スレッタとミオリネの対比

スタァライトの話をします。『少女☆歌劇レヴュースタァライト』の話です。
なんで水星の魔女の話から舞台少女の話になるかというと、この二つの作品は「似ている」からです。
どちらも、「学園」という閉じた環境で、「戦闘(=決闘/レヴュー)
」によって人間関係が進展する物語です。細かいところには相違点がたくさんありますが、構造の大枠は似ている。
ただ、一番大きな違いは、物語の中核となる二人にあります。

スタァライトでは「愛城華恋」と「神楽ひかり」ですね。詳しいことは省くとして、二人は幼少期から一緒で、同じ劇団に所属し、同じ夢を追いかけてきました。家庭環境も近い。経済的にもそれほど離れていないでしょう。
なにが言いたいかというと、この二人は「同じスタート地点を持っている」ということです。

対して、「スレッタ」と「ミオリネ」はどうか。そもそも育ってきた環境、生きてきた人生に大きな違いがある。1話の前のプロローグの内容を見るとスレッタは幼少期にミオリネ父によるガンダム根絶の運動によって父を亡くしています。その後は水星の厳しい環境で暮らしてきました。
スレッタという少女の物語は、死と血と爆炎の中で始まっている。
一方でミオリネは、何不自由ない温室育ちです。父親の横暴に反抗しつつも、その父の恩恵を享受しています。学園という箱庭から逃げ出すことを夢見ているような少女です。
最初からすべてを与えられ、唯一欲しているものは「自由」。これがミオリネです。

二人はそもそもの「スタート地点が違う」んですね。

だから同じ事態に直面しても、まったく反応が違う。スレッタの人生において、殺人が起きることは(スレッタ自身には自覚がなくとも)最初から織り込み済みなんです。しかしミオリネの人生はそうではない。つまり『水星の魔女』は全く違う人生を歩んできた二人が関係性を築く物語になっている。
スレッタがミオリネに温室の世話を任されて喜ぶシーンがありますよね。また、その温室の世話を業者が担当することになって、自分がミオリネに必要とされていないと思うシーンもあります。
でも、よく考えてみればミオリネはスレッタを守るために「株式会社ガンダム」を立ち上げたんだし、その結果として温室の世話に割く時間がなくなり、業者に託すことになった。これはつまり、ミオリネの「大切なもの」が温室からスレッタに変わったから起きたすれ違いなわけです。
スレッタはそれを理解できないし、ミオリネも、なぜスレッタが落ち込むのか理解できない。
つまり、「スレッタがミオリネを理解していない」ように、「ミオリネもスレッタを理解していない」んですね。
これがあの「やめなさい!」まで尾を引いている。ミオリネはずっとスレッタの「善」の側面しか見ていなかったし、求めてこなかった。だからスレッタの殺人にものすごい恐怖を覚えたんだろうな、と。それがたとえ自分を守るためのものであっても。


ミオリネは憎んだ父親と同じことをしていた

小見出しは気にしないでください。ただの結論です。
そもそも、ミオリネにとってスレッタはどういう存在なのか。「花婿」というのは単に肩書の問題で、もっと本質的な部分の話です。

ミオリネはずっと、学園からの脱出を夢見ていました。それは父親への反抗であり、自分の人生を他人に決められることへの反抗でした。パンクな女ですね。好きです。
しかし、彼女には足りないものがありました。「」です。
圧倒的に、「力」がない。権力者の娘ではあるけれど、自分自身で動かせる資産も人員もない。だから父親にも対抗できず、グエル君からはお飾りとして扱われる。彼女は決闘の「景品」であり、富と権力を得るための「道具」です。

その彼女が手に入れた「力」がスレッタとエアリアルだった。

それを起点にして、彼女は株式会社ガンダムを立ち上げることになり、父とも経営という共通の分野を通じて対話が可能になり、それまで得られなかった「自由」を少しずつ手に入れ始める。
ミオリネにとってスレッタとエアリアルは「力」そのものなんです。そして彼女が欲しいものを手に入れるための「道具」なんです。
それは言い過ぎじゃない? と思うかもしれませんが、自分は必要とされていないとめそめそするスレッタにミオリネが求めたのは「いつもみたいに進んでくること」です。つまり「スレッタの中のこれまで役に立った部分」なわけです。
決してスレッタの弱さを認めたわけじゃないんですよ。「今まで通りの強さを求めた」んです。
ミオリネは自分でも意識しないままに、スレッタを道具として扱っている。父親が自分にそうしたように

それがあの恐怖に繋がる。

「やめなさい!」の新鮮トマトペーストにミオリネが恐怖したのは、単にスレッタが人を殺したことのが理由ではなく、「道具」であるスレッタが「使用者」であるミオリネの意図しない殺人を行ったからなんではないか、と思います。


スレッタは「スレッタ・マーキュリー」なのか

翻って、スレッタの方を見ていきます。
そもそも、スレッタはなぜ「道具」なのか。「道具」として扱われる自分をよしとしているのか。
彼女の母がそう育てたからです。

スレッタ母は幼い娘にガンダムを扱う能力があることに気づいて(プロローグ参照)いましたよね。そうです。母にとってもスレッタは「道具」なんです。
もちろん愛情を注いではいます。それは本当でしょう。しかしスレッタはことあるごとに「お母さんに」「お母さんが」と物事の判断基準を母親に帰結させます。母はスレッタを「お母さんが正しいということは正しい」と判断するように教育したんです。

だからスレッタには主体性がない。自分では決断できない。これは物語の構造自体にも表れています。
物語の流れを追ってみると、基本的に起きている出来事はどれも、
起点:ミオリネ  →  終点:スレッタ
という構造をしている。ミオリネが決闘の「景品」であるから当然のことのように見えるのですが、全12話を通して事態を動かしているのはミオリネなんですよね。スレッタはミオリネが動かした事態を、彼女の「」として解決に導く。

スレッタが自分からしたのは第1話で「宇宙空間に出たミオリネを連れ戻す」というアクションだけです。
それ以降の物語はすべて、このアクションに対するミオリネのリアクションがきっかけになっている。
アクションとリアクションの関係は物語を作るうえですごく気を遣うというか、ほとんど中核といっていい部分です。
※興味がある方は以下の書籍を参照するとよくわかります。

スレッタは一番最初にたった一つアクションを起こしただけ。あとのすべてはミオリネからスレッタへのリアクションであり、スレッタはそれに対して更にリアクションを返す。これが物語の進行を支配しています。だからそういう意味では、スレッタとミオリネは主人公-ヒロインという関係ではなく、ダブル主人公・ダブルヒロインなんですね。

話を戻しますが、つまりスレッタはミオリネにとっても、母にとっても「道具」なんです。盲信的な母への信頼と、「花婿だから信じる」というミオリネへの信頼は、同じ根源を持つものなんです。

スレッタの母がやたらとミオリネに敵対的なのも、そこに理由があると思っています。二人はどちらもスレッタという「道具」の「使用者」なんです。
ミオリネの父のせいでスレッタの父(=スレッタ母から見れば夫)を失くしたという悲劇、ガンダム根絶という悲劇、それらはスレッタ母のミオリネ敵視の理由の、ほんの何分の一かでしかない。実際、スレッタの母はミオリネの父とごく穏やかに会話しています。スレッタをあれだけ上手く心理的にコントロールする母が、過去の恨みだけで怨敵の娘に攻撃的になるはずがない。
スレッタの母にはミオリネを敵視するだけの、もっと個人的な理由があるはずなんです。
それはなにか。「スレッタを奪われる恐怖」です。もっと残酷に言えば「スレッタという道具を奪われる恐怖」。
スレッタの母とミオリネは、同じポイントにたどり着いているんですよね。「スレッタを道具として扱う」というアティチュード。ただ、母はすでに「ガンドを扱う娘」に恐怖し、コントロールすることで恐怖に対処したのに対して、ミオリネはそれまで従順な道具であったスレッタが突如自分にはコントロールできない存在になるという形で、進行形で恐怖に直面している。
二人の共通点は、こうまとめることもできます。スレッタのことを、スレッタ・マーキュリー個人として扱えていない


これからのスレミオの話をしよう

そういうわけで、「やめなさい!」からずいぶん話が膨らみました。この話を最後にしようと思います。
『水星の魔女』season2はどうなるのか。
以下は完全に想像ですが、いくつか、解決しなければいけない課題があるように思います。

  • 「親殺し」の物語
    これは非常にわかりやすい。グエル君が不幸にも父を殺めてしまったように、『水星の魔女』の大テーマには子による親殺し、もっと穏当に言えば子世代による親世代からの脱却があると見ていいはずです。
    であれば、スレッタとミオリネの課題もここに繋がります。「スレッタは母のコントロールから脱することができるのか?」であり、「ミオリネは父と和解できるのか?」という問いです。これが一つ目。

  • スレッタにとってのミオリネ、ミオリネにとってのスレッタ
    何度も繰り返してしまって恐縮ですが、ミオリネにとってのスレッタは「道具」です。しかし、そうなってしまう原因は実はミオリネ側にはない。むしろ、他者に従属することでしか関係を築けないのはスレッタの方なんですね。「親殺し」の件にも関連しますが、スレッタはそうして従属している限り、ずっとミオリネの道具なんです。仮にミオリネがそのことを自覚して、スレッタのことを道具として扱わなくなっても、スレッタはまだ母親の道具のままなんです。
    つまり二人の関係が前に進むためには、スレッタが「道具として従属する自分を克服してスレッタ・マーキュリー個人になれるか?」という課題をクリアしなければならない。対するミオリネの課題は「道具として、力としてのスレッタではなくスレッタ・マーキュリー個人を好きになれるか?」となる。

というわけで、だいたいTwitterで垂れ流していた内容は回収できたかなと思います。他にもこまごましたことはありますが、あんまり本筋に絡まないので今回は省略しました。
特にシリーズ化はしない予定ですが、またなにかツイートするには長い感想があれば別途あげていきます。
スレミオ、いいよね。

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