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[日記]【‘‘懐疑と境域’’】

どのような物事に対しても、私は考え過ぎてしまう癖がある。
相手の言動から、こういう風な考えで、このような言葉と行動によって意思決定したのだろうと、あくまでも推測なのだが、大抵外れていることが多い。
子供の頃から、私は一人で遊ぶことを好んでいました。
遊びといっても自由帳に子供の頃に流行っていた、ポケモンのピカチュウやNARUTOの絵をひたすら描いたり、学校の図書館で借りた「かいけつゾロリシリーズ」や「ダレンシャン」、マンガで読む「日本の歴史シリーズ」、「学校の怪談」など、読めるものは読んでいた記憶があります。
どうやら、私にとってあの頃から、物を描くことや読書というものを好んでいたのだろうな思います。
私は周りからみれば、寡黙な少年だったなと自分でも感じるところがありました。
友達と鬼ごっこをしたり、ヒーローごっこをしたりと、遊ぶことに夢中ではありながら、一歩引いたところで相手と自分との距離感というものをかなり意識しながら過ごしていたなと感じます。
そうした性格については、今も何も変わっていないだろうと思います。
変わってしまったところは変わったし、変わってないところは何も変わってはいません。
誰かを好きになる感覚、好意の基準はその時々によって変わるものがあって、幼い頃の私の感覚はクラスで男子の中でも純粋にかわいいと思う女子のことが好きだったし、今の私にとっての恋愛観は一緒にいても何でも気楽に話し合える人が好みになったところがあります。
時間が経てば、それだけ自分の潜在意識というものも変わることだろうと思います。
だが、変わり続けていく中で私の過去は喪失してしまったのではないかという不安感を抱く瞬間というのがあったりします。
私は私であるのだろうかという、一つの問い。
過去と現実には、明らかな境域というものがあるのではないかと思っています。
境域がある限り、過去をどれだけ悔やんだところで戻ることは出来ないことだと考えています。
何が正解で、不正解かも分からないままでもいいと思うようになりました。
懐疑的な心構えによる性格は、書く上では必要なことなのかもしれない。

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