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[エッセイ]【‘‘楽しさ’’と‘‘学び’’について】

ー楽しみとしての学び、学びとしての楽しみー


noteでの創作物を書く上で、私が大切にしています、趣味の楽しみとして、学びとして捉えているものが2つあります。


一つは、読書であり、二つはnote執筆であります。


他にも、映画鑑賞や音楽鑑賞、YouTube、Twitter、カフェ巡りなど個人的な趣味は、まだまだ色々とありますが、楽しみとして、学びとして、自分にとっての本当に大切にしていることとは何だろうかと、ふと考えた時に色々と考えに、考えた末に出たものこそが、この二つであると感じます。


読書には、娯楽として読む為の本や勉強、教養を深める為に読む本など、私の中では以上の2点が本を読む際の基準として捉えています。


しかし、読む上で分類したこうした本などにも、ある共通点があります。


それは、楽しむ為であり、学ぶ為にあると、どちらも統合的に私の中では捉えています。


小説を読むのも、学術書、専門書を読むのも、楽しむ為、学ぶ為であるという認識があるということです。


統合的に捉えるというのは、難しいと思われるかも知れませんが、例えば難しい本を読む際にも、学ぶ為、勉強する為だと捉えて読んだとしても全く、内容が頭に入ってこない場合があります。


ですが、学びを楽しみに、楽しみを学びへと、読書の目的というものを意識的に考える前に、無意識的にこうした統合的な思考を念頭に置き換えることにより、難しい本を読む時もハードルが下がり、読み進めることも可能であると思われます。


こうした読書による、インプットの次に大切なこととして考えられるのが、書くことによるアウトプットの重要性であります。


統合的な思考によるものは、私にとってはnote執筆も同じことであると考えています。


話すことでも、アウトプットは出来ますが、私の中では話すことよりも、書くことの方が断然好きであり、得意であると実感しているので、書くことが私にとってのアウトプットであります。


こうしたインプットによる読書やアウトプットによるnote執筆では、時には楽しみとして、時には学びとして捉えることによって、ここまで継続してこれたと実感しています。


書くことは、Twitterやnoteを始めてから楽しみや学びの本質に気付いたと言っても過言ではありません。


どうして、ここまで書き続けることが出来たのか、何故こうして、文章を記しているのかについては、私の中で楽しさや学びがあるものだと実感しているからだと思います。


それは、読書においても同じことであります。


楽しさから、学びへ。学びから、楽しさへ。



両者から得たもの、それは私にとっての読書とnote執筆であると痛感します。


私は、これから先も、もっと色んな本を読み続けていきたい。


そして、私の書いたものが、誰かの支えになる存在になりたいと、そう感じました。




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