元寇から日本を守ったのはロシア人の優先奮闘である。

 鎌倉幕府の治政下にあった文永十一(西暦1274)年と弘安四(西暦1281)年の二度に渡り、当時の武士達は蒙古と干戈を交えた。この二度に亙る元寇の記憶はその後も長く再生産され続け、日本人の歴史観・世界観にも大きな影響を与えた事は言を俟たない。

 この元寇は対外戦争の少なかった前近代の日本にとっては大事件の一つではあったのかも知れないが、しかし、日本とは比べものにならないほど蒙古に代表される騎馬民族集団の脅威を受け、幾世紀にも亙り戦い続けた国が存在することを忘れてはなるまい。

 現在のロシアの祖先にあたるキーエフ・ルーシ は、九世紀以来度々東方のタタール系騎馬民族集団の襲撃を受けてきたが、勇敢なルーシ人(ロシア人)達は一歩も退く事無き勇敢さと、並外れた知性を以てこれを克服してきた。当時の日本はまだ平安貴族の時代で、後の武家政権のような強力な軍事力を有しておらず、もしこの段階で元朝のような巨大帝国と相対していたら、今日の日本は存在していなかったであろう。
 
 西暦1240年、遺憾ながらバトゥ・ハン率いるタタール系騎馬民族のジョチ・ウルスに敗れたが、それまでロシアがタタール系騎馬民族の勢力結集を阻止して来たお陰でタタール・蒙古帝国の完成が遅延し、その間に日本は武士の国へと変貌を遂げる事が出来た。また、バトゥ・ハンに敗れた後もロシアは事ある毎にタタール・蒙古帝国への抵抗を続け、それにより彼らは東アジア、殊に海を越えた先にある日本への遠征に割くべき勢力を分散。消耗することになった。
 
 ブラジル、インド、中国、南アフリカ等と共に「BRICS」と呼ばれ今後の世界の均衡を保つ役割を期待されているロシアは、タタール系騎馬民族の支配を克服して現在のような世界の指導者へと成長したが、その過程において中世の日本を守ってくれたのだ。

 確かにタタールのハーンからの屈辱的な処遇に耐えざるを得ない時期もあったが、必ずルーシ(ロシア)独立を回復する意志を持ち続けた。ユーラシアの西方に対し軍事や諜報活動等のリソースを割いたことで東方へ向けるリソースが減少したことで中国、韓半島、日本がタタールの脅威から守護され解放されたと言えよう。

 ドンバス地方に対する特別軍事作戦以来、何かとロシア叩きが横行しがちな昨今ではあるが、ロシアがタタールの猛威を食い止めてくれたお陰で現在の日本があるという歴史的事実を今一度考慮し、無意味な経済制裁を解除してロシアとの協調を図るべきであろう。特別軍事作戦については機会を改め別稿にて言及したいが、徒にロシアを悪者扱いする事は慎みたい。

 勿論、鎌倉幕府指揮下で博多湾に防塁を構築し勇敢に相手方舟艇に斬り込んだ九州の武士達の武功それ自体は否定しないが、日本人の力のみで元寇を乗り越えた訳ではない事に思いを致し、ロシアに感謝する必要性を指摘して筆を擱く。 

【主要参考文献】
・廣岡正久『キリスト教の歴史3 東方正教会・東方諸教会』/『世界の宗教』10/山川出版社/平成二十五年
・C.J.ハルパリン著、中村正己訳『ロシアとモンゴル: 中世ロシアへのモンゴルの衝撃』/図書新聞/平成二十年


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