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1型糖尿病と生きる女子高生の話

こんにちは、小説家の東です。

普段は物語を書いたりしているぼくですが、今回はちょっと趣向を変えて、物語ではなく、ぼくの公式LINEに寄せられた現実の聲について書いていきたいと思います。この記事はその第一弾となっています。

それでは早速参りましょう。


生活習慣病ではない1型糖尿病

今回自身の悩みや葛藤を伝えてくれた女子高生は、このように語ってくれました。

「いつからか心配されることほど、嫌なものはないと感じるようになりました」

誰かに気を遣われることすら、彼女にとっては息苦しさをまとうものでした。その根底にあるのは、彼女が10年近く付き合い続けている1型糖尿病という病気です。現在の医療で完治させる方法はなく、体内の血糖値を調整する為、日々インスリン注射が必要不可欠です。

ぼくは専門家でもなければ医者でもないので、1型糖尿病に関してはざっくりとした説明しかできませんが(するべきでもない)、まず糖尿病には2種類あります。まず一つはいわゆる生活習慣病として有名な2型の糖尿病であり、こちらも当然大変な病気です。放置すれば合併症などを引き起こし、中には足を切断しなければならなくなる方や、失明する方もいるそうです。

そしてもう一つが1型。読者の少女が付き合っていく病気です。

こちらも2型同様糖尿病ではありますが、その内容は全く異なります。まず生活習慣によって引き起こされるものではないこと。そして2型では高過ぎる血糖値が問題となっていますが、1型においてはそもそも血糖値を一定に保つ為のインスリン、それを作る体内の工場が破壊されてしまう病気なのです。簡単に言うと不摂生によって体の道路が渋滞してオーバーヒートを起こしたのが2型。そしてそもそも道路が無いのが1型というイメージです。

1型糖尿病の患者さんは、血糖値を自身の体で調整することができないので、食事に合わせてインスリン注射を自ら行い、調整するしかありません。インスリンを打ち過ぎれば低血糖となり、打たないと高血糖でどちらも危険な状態となります。この記事を書く上でnoteやTwitterで様々な1型の患者さんの声を調べましたが、どの程度インスリンの注射を打つのがよいのか、皆さん日々探り探りで調整されているようでした(食品の表記だけを鵜呑みにしてインスリンを注射し、体調を崩された方を何人も見つけました)。

重ねて書きますが、ぼくは専門家ではないので、ここでは「糖尿病って生活習慣のせいだけじゃないのもあるんだ〜」くらいの認識で大丈夫です。もし詳しく知りたい場合は、こんな素人の記事なんか読んでないで、ご自身でちゃんと調べることをオススメします(投げやりになった)。

ここまで1型糖尿病に関して書きましたが、本記事の主目的はその説明ではありません。病気を抱えて生きる、少女の物語を書き残すものです。ある程度前提知識がついたところで、本題に移ります。


被害者も加害者もいない『いじめ』

少女は十年近く、1型糖尿病と共に生きてきました。そんな彼女がしかしぼくに打ち明けたのは、病気に対する文句でもなければ、不満でもありませんでした。そりゃあ全てを受け入れ、飲み込み、何も思わなくなった訳では無いだろうけれど、少なくとも彼女がぼくに語った話の中心は、それではなかった。

「心配が苦しい」

それを彼女は、加害者のいない『いじめ』だと語りました。いや、被害者すらもいないのだと。加害者も被害者も全て、自分一人なのだと。

ぼくは小説なんかを書いている25歳ですが、1型糖尿病のことについて知ったのは、彼女がぼくの読者だったからでした。それまでは糖尿病といえば生活習慣病だと思っていました。きっと教科書にも、そう書いてあった。いい歳をした大人のぼくがそうなのだから、身近にこの病気を抱える人がいなければ、1型について知る機会は少ない。

糖尿病なら、どうせ不摂生が祟ったんだろう。

自業自得の病気じゃないか。

そのような目を彼女が、何も知らない悪気すらない、純真無垢な子供や、ぼくのような不勉強な大人から向けられたことは、簡単に想像ができることでした。けれど一方で、1型を理解されたからといって、彼女が晴々しい気持ちで他者と接することができるかと問われれば、それもそうではないようでした。

毎日注射を打たないと生きていけない。

災害などで注射が打てなくなったら即、死に直結する。

当人にとって大変なことも多いそれらの事実は、同時に周囲の人間の視線すらも変えることになったのでしょう。知ったからこそ、心配せずにはいられない。しかしその心配する目線は、彼女に対して普通ではないと言っているようにすら感じさせてしまう。また過度な心配が、余計にストレスをかけてしまう。

「私は変わり者です。生き死にについて考えることはもはや日常ですし、周りの人が気にもとめないようなことに、何故やどうしてを感じ、考えてしまいます」

彼女は自分のことを、まるで異常者のように語りました。彼女にとっての普通とは、ぼくが考えている普通よりも、もっと根本的なところにあるように思いました。ぼくだって死について考えることはあります。けれどそれは、いわば安全圏から暇を潰すようにして、ぼんやりと考えるようなもの。しかし彼女にとって死とは、今日訪れるかもしれない現実なのかもしれません。

もし、インスリンの量を調節し損ねて倒れたら。
もし、そのとき誰もいなかったら。
もし、災害で注射が打てなくなったら。

十代の少女が抱えるには、あまりに死が近過ぎる。
そう思ってしまう心さえ、きっと彼女には重荷なのです。


たまに注射を打つ普通の女の子

1型糖尿病を抱え生きることにより、彼女は他人の目線に敏感でした。気を遣わせ過ぎてはいないか、心配させ過ぎてはいないか。あるいは病気を言い訳にして頑張っていない自分が、何処かにいるのではないか。そんなことも、真面目な彼女は考えているのかもしれません。別にぼくに他人の心なんて分かりはしないけれど、ね。

この記事は、読者の悩みを解決するものでもなければ、否定するものでもありません。ただぼくがそれらを聞き、ここに遺すだけ。けれど最後に少しだけ、ぼくなりの解釈というか、ただ思ったことを書いて終わりにしようと思います。

公式LINEで送られた彼女の文章は、とても読みやすいものでした。ここに載せるわけにはいかないけれど、言葉選びが丁寧で、それでいて誰も傷つけまいとする優しさを感じました。それはきっと、彼女を悩ませ続けてきた病気と、彼女を苦しませてきた自分による自分への『いじめ』の結果なのだと思いました。他人の目線を気にするから、誰よりも死と向き合ってきたから、苦しい思いをしてきたから、彼女の選ぶ言葉は優しく、温かい。

これからもあの女子高生は、きっと他人の目を気にするでしょう。気にし過ぎる自分を責めるでしょう。他者の優しさを苦しく思ったり、苦しく思ってしまう自分を傷つけたくもなるでしょう。ぼくは、それでも別に構わないと思う。それで良い訳ではないかもしれないけれど、悪い訳でもないでしょう。そもそもそうやって、少年少女は悩むものなのだから。


彼女は、年相応に悩んでいる。あまり多くの人が抱えている課題ではないかもしれないけれど、それもただ数が少ないというだけだ。他人はああで、どうして自分はああではないのか。どうして自分はこうで、何故自分だけこんな目に遭わなければならないのか。1型糖尿病という特異性が問題をややこしくしているけれど、抽象化すればつまりは、やっぱり年相応の悩みなのだと思う。

こんな言い方は、もしかしたら彼女に失礼になるのかもしれない。お前に病気の苦しみがわかるはずない!と、怒られてしまうかもしれない。それは全くその通りだし、ぼくは1型糖尿病ではないし、自分が同じ病気にいつかなったとしても、ぼくは彼女ではないのだから、やっぱり気持ちがわかる日なんて訪れないだろう。けれどそれでも、ぼくは今回の記事を、こんな言い方で締めくくろうと思う。締めくくりたいと思った。


君はたまに注射を打つっていうだけの、

普通の悩める女の子だよ。




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