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自分を通して見えるもの、聞くもの、出てくる感情や言葉を、楽しむということなのかな/日々の写真/#6

東豪です。「個性が大事」とか「主張が大事」と言われて久しい。


僕は、多少ひねくれているところがあるから、同じ人間という生物の中に「何十億通りの個性があったら大変」とか、主張することが大事なのではなくて、「言語化することの大切さ」という意味じゃないのかなとか、ブツブツしている。


自然とヒトの差が少なく、事事無碍な世界観を持っているのかな

東洋医学的感性がどこから生じるのか、色々と考えている。それを考える上で角田博士の『日本語人の脳』は非常にオモシロい。


角田博士は、要は、日本語や一部のポリネシア圏内の特徴である母音言葉が、脳の情報処理機能に違いをもたらす、と言っている。


具体的には、一般には右脳で情報処理される虫の鳴き声や雨風などの自然界の音が、言語としてキャッチアップされ、左脳の言語野において情報処理されるというもの。


角田博士は、人種を問わず(生まれつきのDNAに関係なく)、9歳までに主に日本語(母音言葉)を聞いており、自然界の音を左脳の言語野で情報処理する人に対して、日本語人と定義した。


「母音言葉が、なぜこのような違いを生むのか」という事までは言及されてはいないが、虫の声をきけるというのは、自然界とヒトの間に境界線が少ないのかなと考えると、ちょっとおもしろい。


日本語のルーツ

日本語のルーツについては諸説あるものの、大野先生の『日本語の源流』は、非常に示唆的であった。本書は、日本語ルーツのみならず文化史にとっても、重要なことを投げかけている。



日本語は、多言語との類似性少ないと言われている。一般に「文法、母音言葉、擬態語・擬声語」などは、日本語の特徴を考察する上で、重要な要素である。


インドの南で使われていた「ドラヴィダ語」。大野先生いわく、ドラヴィダ語の文法構造は膠着語に属していて、日本語をはじめ、かねてから日本語と類似性があると言われていたアルタイ語や朝鮮語とほとんど同じ文法構造なのだとか。


この一致はかなり重要なのだそう。


また、ドラヴィダ語の中には「タミル語、マラヤラム語、カンナダ語、テルグ語」などがある(たぶん、同じ日本語を使う日本人の中にも、博多弁、関西弁、東北弁などがある感じだと思われる)。


これらの言語の内、タミル語と日本語には共通性が多いのだとか。特に、単語の「音と意味」に、かなり多くの類似性があるという。


そんな一致する単語の中で、僕が興味深く思ったものは、「日本人らしい情緒を表現する単語」や、「カラダのパーツ」や、「畑作や機織り、祭事に関わる単語」といった、生活の基本となる単語にかなりの一致があったこと。


例えば稲作系では、あぜ道の“畔(あぜ)”とか、“畝(うね)”とか、“田(たんぼ)”とか、“米(こめ)”とか。


機織り系では、“編む”とか“織る”。そもそまはたおりの“機・布・服(はた)”自体がタミル語だそう。


たくさんあり過ぎて紹介しきれないが、知らず知らずに根付いている文化や感性に関する言葉がタミル語と類似しているというのは、とても興味深いと思う。


南インドのタミルと古代日本。歴史の教科書は中国文明流入後。それ以前の日本古代の一部が垣間見えた

本書では、角田博士の指摘する日本とポリネシア圏内がなぜ母音言葉なのか、間接的ではあるが根拠を示している。


結論としては、南インドの「言語・製鉄・機織り」といった文化文明を、タミル人が古代日本へ持ってきた。その後に、朝鮮経由で中国文明が仏教とともに入り込み、さあ、歴史の教科書が始まる。


南インドからきた文化文明を基礎に、中国文明が折り重なる。やや飛躍的だが、中国文明を「日本語というコードで記述し直した」と解釈してみる。するとそこには、日本語人独特の「自然とヒトの差が少なく、事事無碍な世界観」で解釈し直したと考えてみると、ちょっとおもしろいなと思う。


その上で、日本鍼灸について考えよう

日本語を使う人間として生まれて、たぶん日本語人になっている。その上で、東洋医学に携わる人間として生きている。


グローバル化してから「日本人はおかしい」とか「海外ではこうだ」というような、日本人自虐的論調が目立つ昨今。だが実は、資本主義の立場において希少性は価値になるため、そういう意味では日本語人は市場には少ないので、本来は価値があるのだ。


(きっと彼らが言いたいことは、欧米諸国の資本主義というビジネスルールの理解が足りないよといっていると、私は解釈している)


角田博士の定義する日本語人は、少なくとも世界の数億人程度で、それだけでも70億人の中ではマイノリティ。その上で、東洋医学というマイナーな仕事に携わる希少性は、かなり高い。


つまり、自然界とヒトの差が少なく、事事無碍な世界観を持っている「日本語人的感性」に従って、そのフィルターを通して見えるもの、聞くもの、出てくる感情や言葉に、実は価値か在るのかな、なんて思う。


落語家の立川志の輔さんが「意外と自分からおもしろい事が出てきて、へ~、自分にこんなにおもしろいところがあるのか、と思うことがある」というような事を言っていて、それを端的に「汝(なんじ)、己を笑え」と表現していた。


ここに通ずるな~、と思い、「自らを楽しむ」という生き方には共感する。


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