爆発侍 尾之壱・爆発刀 弐

序章 峰久里みねくり稲荷の怪異 弐

峰九里稲荷の境内に着いた龍堂右門は、入り口に立つ赤い大鳥居を一礼してくぐると、腰に巻いた風呂敷の中から掌大てのひらだいの包みを取り出した。
 包みの中には、分厚い油揚げが一枚。
 前の日の晩に、右門自ら揚げた物であった。
 それを社に供えて手を叩き、頭を下げる。
ここに御座おわす狐神へ、「今日も稽古場として境内を借りる」挨拶と礼であった。
 右門は社に毎日欠かさず油揚げを供えているが、別に信心深いわけではない。やっている事は、江戸にいた際に剣術を師事していた辻島つじしま道場で、師や兄弟子から教え諭された「礼儀」の一つに過ぎなかった。
 なにかをしてもらったら、礼をする。なにかを願う際には、代償を支払う。それは剣の道のみならず、人として当たり前の事であり、その相手が人間だろうと神仏だろうと違いは無いと右門は心得ている。
 辻島道場では、いわゆる剣の業前である「武」と、それを扱う人としての考えや所作である「道」の両面を等しく重んじていた。
 徳川太平の世となって久しい今であっても、とかく剣の腕のみを重んじ、その技量の是非のみで優劣を競う道場が少なくは無いが、辻島道場では「武道のなんたるか」を稽古だけではなく、座学――いわゆる読み書きや礼儀作法等――も指導していたのである。
 そのため、剣の業前を磨く為だけではなく、辻島道場は寺子屋のような学び舎も兼ねるようになっていて、剣を振るわぬ土地の子供らも受け入れる、まさに「文武両道」を目指す場となっていたのである。
 右門は辻島道場のこうした方針に大いに共感していて、右門自身も道場で汗を流すとともに、集まってくる子供達に読み書きを教える日々を送っていたものである。江戸から離れた今となっても、辻島道場で学んだ事は、右門の心身を支える大切な礎となっていた。
 
 ちなみに、毎朝供えている油揚げは、翌日右門が訪れると必ず無くなっていた。

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