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小説| 水際の日常。#15 - 人の子に乳をやる難しいお仕事です。

■少子化といっても、いるところにはいるものだ

 無認可保育所「ひかり園」は朝の七時に門が開く。今日は早番のあたしが二重鍵のついた重い鉄門を開けた。

 九時を過ぎると、つくし組さんおよそ二十名が勢ぞろいする。乳児三名に対し一名以上の保育士がつくため、つくし組の狭いフロアーは子供と大人でごったがえす。全員が正規の保育士ではなく、パートで手伝いに来ているママ保育士たちや、保育ボランティア、時には学校の授業の一環で体験学習に来た学生たちも含まれる。

 少子化といっても毎日平均二千幾百人かずつの子供が日本国土に生まれ出ているらしい。ひかり園のつくし組には、ふた月に一人の割合で新しい乳児が入園してくる。つくし組は0歳児中心の組だが、立って歩き回るようになった子も数名混じっている。乳離れした子から順に大きい子の組へ移っていけば良いのに、どの組も園児の人数と保育士の手がいっぱいいっぱいで、つくし組さんの数は月毎に増えていくばかりに見える。
 待機児童ゼロ…自然豊かな環境でのびのび子育て、が藻倉市のアピールポイントだったはずだが、保育園の数が急激に足りなくなってきているということなのだろうか。

 男児一名女児二名…ろくに名前も覚えられていないうちに、また新しい赤ん坊が入園してくるといった調子だ。めまいを感じながら初顔の乳児をママから受け取ったあたしのまぶたに、腕に抱いた他人の子宝の家系図がわらわらと浮かび上がる。この子の頭の上の線が二つに割れて、雌と雄。またその上に、雌雄、雌雄、横に八人の雌雄雌雄雌雄雌雄。家系の糸がこんがらがって縮まって、赤子はあたしの腕の中。

■クライアントにもスタッフにもキレられ

 火がついたように泣いているこうこをあやしながら茉由先生が「モチ先生、こうこちゃんにミルク飲ませましたよねぇ?」とあたしに確認をとる。
「はい、さっき」
「そう、ごくろうさま。しかしなんだろ、この泣き様は。熱計ってみようか」

 あたしは授乳時間の重なる乳児たちに与えるミルクをつくるためにつくし組専用の給湯室へ入っていた。冷凍庫の扉を開けると、保存袋にパックされたママたちのレトルト母乳がかちかちに固まった状態で納まっている。
 拓也のママの母乳パックの中からいちばん日付けの古いのを見つけ出し、ボールに張った熱すぎないお湯の中に浸しておく。熱すぎると、母乳に含まれている大切な菌が死んでしまうから、時間をかけて解凍するのだ。その間に粉ミルクの哺乳瓶を二本つくる。薫の分はやや薄めにつくるよう茉由先生に指示されている。薫は肥満児で、ミルク欲しさによく泣く。あんまりひどく泣く時は湯冷ましを注いだ哺乳瓶を吸わせて飢えをしのいでもらうのだが、すぐばれて怒り出す。かわいそうだが、今日の分のミルクもとても薄い。

 あたしは拓也と薫のまだ熱っぽい哺乳瓶を手の空いた保育士たちに渡してから、哺乳瓶とガーゼハンカチ持参でありすの待つベッドへ向かい、ありすに授乳を始めた。せわしげにいろんなことに気を回さなくて良いから、あたしは乳児に授乳している時間が好きだ。園庭を眺められる授乳用の椅子に腰掛け、乳児を抱っこしながら、哺乳瓶の吸い口を乳児の口に入れていればいいだけの時間。ミルクが砂時計の砂に見える。ありす、ゆっくりゆっくり飲んでね。白い液体が哺乳瓶の目盛りをかすめてあなたのお腹に消えてしまったら、あたしはまた動き出さなきゃならないの。だからゆっくり飲んでね。ありすは大きく黒目がちな瞳であたしの顔を覗いている。

 茉由先生が授乳記録簿を抱え、あたしのほうへ向かってきた。
「モチ先生、何適当なこと言ってんのよっ、こうこにミルクやってなかったじゃないっ!」
 保育室が凍りついた。保育ボランティアたちや研修に入っている専門学校生があたしのほうを一斉に見た。新米保育士のさくらが「私やりますね」と、給湯室に行って、こうこの粉ミルクを溶いた。
「すいませんでした、本当にすいませんでした」
 あたしはありすを抱いたままおろおろと謝ったが、茉由先生は血相を変えたまま、あたしと目を合わせずに絵本の整理をしている。絵本と本棚がぶつかり合う音があたしのメンタルに突き刺さる。

 あたしは再びありすにミルクを与えた。ミルクはもう残りわずかで冷めかけていたが、ありすの唇は哺乳瓶の乳首に吸いつき嫌がる様子もなく反復運動をしている。
「ありすはほんとにかわいい、かわいいね」
「かわいい、が、モチ先生の口癖ね」
 保育ボランティアの鳥越さんが隣で春馬を寝かしつけながらありすの顔を覗き込んで言った。
「え、そうですか?言われてみると、結構言ってますね」
「言ってるよ。かわいいかわいいって、ずっと言ってる」
「この子の今このかわいい瞬間、二度と見られないのにお母さん見逃しちゃってるんだ…と思うといたたまれなくて、変な責任感で、余計に口走っちゃうんですかね」
 何それ変な人、と鳥越さんが笑った。#第16話に続く

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