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小説| 水際の日常。#18 - 夜踊る小さな生き物たちの傍らで。

■苦手な歳下の上司

 歌の聴こえる方角から、歩道に向かって光が斜めに伸びている。葉っぱのすっかり落ちた桜並木が、縞模様の影絵になってあたしの表面をなぞっていく。
 急なシフト変更で、こんな時間から遅番に入るのは初めてだ。そして、珍しく二日酔いで頭が痛い。時間までまだ少しあるから、冷たい風に当たると気分が良くなるかもと、道を外れて海の見える土手に登ろうと思ったが、元気いっぱいな歌声がめいっぱいのボリュームで迫ってくると、とっくに目的地に着いてしまったのだということがわかった。

 平屋の細長い建物に、蛍光灯がひと部屋だけついている。薄ら明るい光の中で、小さな生き物たちがピ
アノ伴奏に合わせ舞い踊っている。

  てー、をー、たー、たー、きー、まー、しょ。
  たんたんたん。たんたんたん。
  あー、しぃー、ぶー、みぃー、しー、まー、しょ。
  たんたんたんたんたんたんたん。
  わぁらいま、しょ、あっはっはっ。
  わぁらいま、しょ、あっはっはっ。

 園長先生のピアノがあたしは好きだ。
 コードを叩くだけのワンパターンな左手の動きに右手で歌のメロディーを軽くなぞるような簡素な伴奏の弾き方や、時々和音の押さえ方がおかしくなって音が濁ったりするところもかわいらしい。園長先生が新しい歌を覚えて子供たちに歌い聴かせようという気がないのは、御高齢ということもあるだろうけれど、あたしは園長先生の歌うスタンダードな童謡が好きだ。

 小さな手あとで燻んだガラス戸から表に光が漏れているが、園庭の隅々までは届かないので、日が落ちたあとの訪問者は、闇の中から光のほうへぬっ、と姿を現わして、みんなを驚かせることになる。
「あっ、モチせんせい!」
 子供たちの顔が一斉に保育室の外へ向いた。園長先生もピアノを弾く指を動かしたまま、あたしのほうをちらりと見て会釈をした。
 室内に入ると、休む間もなく夜間保育の業務が待ち構えている。
「こんばんは、遅くなりましたぁ」
 善のママだ。着替える時間も惜しんでお迎えに来たのだろうか、薄桃色のナース服姿で玄関口に立っていた。あたしとさくらは少し慌ててママを出迎える。
「今日のチビは変わりなかったですか」
「はい、ぜんくん、生活のリズムが大分とれてきましたよ。食欲も出てきて、お昼寝の時もいちばん先に寝てました」と、さくら。
「そうですか。良かったぁ。あたしたちが遅くまでテレビ観て起きてると、ぜんも寝ないんですよ。しょうがないから最近はあたしたちもぜんと一緒に早く寝るようにしてるんです」
「ぜん、出ておいでぇ」あたしが言葉を荒らげる。だが、踊りの輪の中に善の姿が見えない。
 さくらは善のママと談笑している。ひと回り歳上の善のママを相手に堂々と話ができるさくらが、あたしには自分とは別種類の人間だと感じる。さくらは自分よりはるかにてきぱきと働くので関心するのだけれど、あたしはさくらを好きになれない。さくらが仕事着にしている安いスウェットに大きくプリントされたハイブランドのロゴを見るだけで気分が悪くなるし、ツインテールの結び目に挟んでいる緑色の三日月型のヘアクリップは食虫植物に見える。
「モチ先生、そこで声かけるだけじゃなくて走って探してぜんくん連れてきてくださいよぉ」
「あっ、はい」
「いっつもぼやっとしてるんだからぁモチ先生はぁ」
 さくらの指示に従い善を探しに行くあたしを見ながら、善のママが苦笑いしている。あたしは真っ暗な保育室をひとつずつ回った。善はいない。
 あたしよりずっと歳下のさくらの態度があたしのプライドをブスブスと刺しまくる。どっちみち仕事っぷりに落ち度のあるあたしがいけないので文句の言いようもないのだが、少なくともさくらみたいな底意地の悪い女がいない最近の「みね岸」が、ひかり園に比べるとオアシスのように感じてしまうのは皮肉だ。

■不意のヘッドハンティングに気持ちが揺らいだりもして

 あたしはとぼとぼと玄関に戻ってきた。
「すみません。ちょっと見つからなかったんですよ」あたしは善のママに軽く頭を下げた。
 さくらが「ええーっ」と不満気な声を上げ、あたしを保育室の隅の暗がりに引っ張って行った。そして善のママに聞こえないように言った。
「ちゃんと探したんですか?」
「だから、いなかったんです」
 さくらの顔色が変わった。
「ちゃんと探してきてくださいよ…」ぞっとする目つきであたしを睨みつけた。
 さくらは何事もなかったように善のママのところへ戻っていった。善のママは、再びさくらと和やかに雑談している。あたしは部屋の隅から子供たちを眺めつつ、ひと呼吸した。園長先生はピアノを弾きながらお歌にかかりっきりだ。

 乱暴な足音がする。善がカバンを引きずりながら廊下の奥から走ってきた。
「ぜんっ、探したんだよ。お迎えに来たらすぐ帰れるように仕度しておかなきゃ」とあたし。
「やだー」
 あたしが善の暴れる両腕を押さえつけて言う。
「ぜん、今日はみんなでどこへお散歩に行ったんだっけ?」
「海!」
「そうだよね、海行って楽しかったんだもんねー。ばいばい。また明日ねー」
 さくらとあたしが大きく手を振る。

 善はママの強い力に片腕を持ち上げられ、ズック靴の両方のかかとを踏んだままずるずると闇のほうへ消えていく。そして駐車場から黄色い軽自動車が一台、砂利の擦れる音をさせて勢い良く出て行った。
 さくらが、床中に散らかったジャンボ積み木を片付け始めると、あたしもその作業に加わった。
「あの、モチ先生って注意力が足りないと思うんですよ。凡ミスとか多いじゃないですか?もう少しちゃんとやってくれませんか?」
「はぁ」
 これでも一生懸命やってるんだけど。それが少しもさくらに伝わらないなら、無念だ。
「あの、…最近とあるルートから聞いたんですけど、モチ先生って園の仕事終わってから夜、どこかで水商売してるんですか?」
「えっ?誰に聞きました?」
「別にいいんですけど、もしかしてそのせいで疲れが抜けなくて園の仕事に支障をきたしてるのかなって心配になったんですよ。ここの園、薄給なんで内緒で副業するのは仕方ないと思うんですけど、非常勤が常勤に迷惑かけすぎるのはちょっと…。あたしだってまだ新人だしキャリア浅いので、憶えなきゃなんないこといっぱいある訳ですから。今後あんまりミスが多い時はすいませんが副業してる件も含めて上に報告させてもらいますね」


  うたうたーえ、うたうたーえ、うたえばんばんばんばんばーん。

 ジャンボ積み木がみるみるうちに部屋の角に積み上げられていく。明日の朝登園した子供たちが先を争って登りそうな、高く険しい山ができあがる。
 大きい子供たちと園長先生の高らかな歌声が、さくらとあたしの間に流れるささくれた空気をほど良くかき消している。

  うたうたーえ、うたうたーえ、うたえばんばんばんばんばーん。

 小さい子供たちは踊るのに飽きてしまったようでピアノの下に潜って遊んでいる。

  くーちをおおきくあーけまして。

「こんばんはぁ」
 ふわふわのフェイクファーコートを羽織った綺麗なお姉さんが玄関に立っている。
 風花がピアノの下から這い出してきて、お姉さんのほうへ走っていった。
「ママ」
「あらあ風花、やっぱかわいいわぁその服!先生に着替えさせてもらったの?」
 あたしは風花のママが好きだ。彼女はあたしと同い歳で、萌さんという。韓国、フィリピン、日本の血が混じっていて、三ヶ国語が話せるらしい。萌さんは、風花を園に預けてデリヘル嬢をしているシングルママだ。職員間で、園児の家庭内の情報を口外することは絶対禁止のはずなのに、そういうデリケートな情報ほど、漏れ広がるのが早い。萌さんは「あらぁバレちゃった?」くらいの反応で、別に気にしていないようだが。
「モチ先生、最近元気ないよね」萌さんが言った。
「そう見えますか?」
「でもその疲れた感じ、すごくいい。なんかそそるね…」急にひそひそ声になった。「もちろん褒め言葉で言ってんのよ。…派遣コンパニオンやってるんでしょ?あたしも昔やってた。あれってバック少ないよね?もし興味があるなら、うちの店いつでも紹介するよ。この地域では優良店なほうじゃないかなぁ。先生なら、熟女売り、団地妻売りで結構人気出そう。もちろん褒め言葉で言ってんのよ」
 風花をおぶった萌さんは、帰りがけにそっと、店のQRコード入りのキティちゃん柄の名刺をくれた。
「人妻専科フェラーリゆうな☆」と書いてあった。あたしはお礼を言って、名刺をエプロンのポケットにそっとしまった。

 あたしの副業はどの界隈まで知れ渡っているのだろう。まぁ、いい。ひかり園も、みね岸も、所詮腰かけ仕事でしかないのだし。今の仕事を辞めたら、あたしはどこへ行くべきなのか、今は考えないでおこう。#第19話(最終話)に続く

※ 引用「手をたたきましょう」作詞・小林純一 作曲・チェコスロバキア民謡
「歌えバンバン」作詞・阪田寛夫 作曲・山本直純

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