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掌編小説「放病記」3-1

男の名を波久礼文古(ハグレブンゴ)とヰった。
とある地方都市の深夜。急を告げるけたたましいサイレンを響かせた救急車は波久礼文古の家前、白い腹を大きくひと揺らししてみせるとその身体(からだ)を横たえた。
【それにしてもこの時間。近くにきたら音を消しても良かろうものを…… にしても何年ぶりの救急車だろう】
波久礼は横付けされた車体のケツが大きく捲り上げられ、赤裸々なまでにあらわとされた車内を目にすると、幾許かの興奮を覚えた。
【フッ……乗ってやるさ_____MM号…… なぜ、今、このタイミングでMM号を思い出すのか】波久礼はマスクで隠れた口元を緩めるとキャリーを引いた。
 
「申し訳ありません。深夜に。病院には連絡を入れてありますから〇〇病院への搬送をお願いできますか」波久礼は淀みなく救急隊員に向けそう告げると自らの足で救急車の元に近づく。
「ご自分で歩けますか ? 」確認することがつとめとなっているのだろう。救急隊員は車のそばまで来ていた波久礼にそう質問をする。
「大丈夫です」
「○○病院はかかり付けですか ? 」
「去年も糖尿で入院したことがありますので」
波久礼は口にするのも忌み嫌った糖尿という言葉を持ち出し、搬送の正統性を説いて見せると健康保険証と病院のIDカードを救急隊員に手渡す。
 
一点の曇りもなく、よどみのない事務手続きがすすむ。血圧の測定、血中酸素濃度の測定、心拍数の測定と手順に沿った救命下措置が施される。車はほどなくすると病院に向けて走り出した。満天の星空の下けたたましいサイレンを鳴らしながら。車載カーテンの隙間からは街路灯がkaleidoscopeを覗き見たように煌びやかな街明かりを車内天井に映す。
【月は出ていたか ? ボチボチ上弦の月入りだったはずだが……】
 
 救急隊員による運転は滑るようであり、波久礼はたおやかな揺れに心地よさを覚えうつらうつらとした中、薄ぼんやりと家に帰れるだろうかと考えを巡らせる。
 それでも入院経験を有していたことが助けとなったものか、自宅に予めの"緊急入院セット"を用意していた波久礼は、そこにタブレット端末、林芙美子「下駄で歩いた巴里」、宮下規久朗「欲望の美術史」を詰め込んだ機内持ち込みサイズのキャリーケースを車内に持ち込んでいた。
【帰れるだろうか…… それにしてもこの痛みはなんだろう】
波久礼は余りにも急激に我が身を襲った体調変化への不安を抱え込んでいた。
 寝台に体を横たえた者にとっては10分が1時間の長さにも感じられていたのだろう。胃の下側の差し込みが急激にその痛みを強める。
波久礼は苦痛に顔をゆがめていた。

                          ■
 
 〇〇病院の医師は優秀だった。そしてとても感じの良い医師が多かった。搬送後は夜中だというのに様々な検査が行われ、痛みの部位特定と原因究明に力がそそがれた。救急外来の看護師の動きも機敏であり、持つ言葉もいたわりに彩られたものだった。
【今回は大丈夫だろうか……】

 左手首から造影剤を投入された波久礼は躰をCTに横たえると、そう独り言ちる。体内を駆け巡る造影剤は瞬時に波久礼の躰を熱くした。
どの道ここからは俎板の上の鯉。出たとこ勝負。波久礼は昨年入院時の記憶を呼び戻すとそう覚悟を決めた。が"嫌な予感"を捨て去ることは出来ないままにその身を寝台に預けていた。

「十日程度の入院加療を要します。それと今日から暫くは絶飲絶食。点滴による処置が続きます。波久礼さん血糖値が400程度まで上がってますね。HbA1cは明日でなければ出てきませんが……それと炎症を顕す数値が大きく上昇しています。現時点、原因を特定することはできませんが、急性膵炎が疑われます。治療をしながら様子をみましょう。ところで波久礼さんはお酒を飲みますか?」
波久礼は救急処置室のベッドに体を横たえたまま医師の所見を耳にした。
「飲みません。ほぼ一滴も飲みません。基本的に体が受け付けないものですから。では、一度自宅に帰えり持ってくることが出来なかったものを取ってきます」
「無理です。このままICUに入ってもらい経過観察をしなければならない状況です。お出しすることはできません」
波久礼に齎された言葉はまさにケンモホロロなるものだった。

8月27日日曜夜、2-2につづく

因みに、どの様に読むかは個人の裁量。好きに読めばよいのである。
それが"小説"というものだ。本作はドキュメンタリーではない。小説という作品の中から何をサルベージするか。それが読み手という存在である。
クレーンゲームのようなものなのだよ。 世一

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