見出し画像

演技

演技力のバケモノ、松岡茉優さんへ。

気が回らないということ

「自分は気の回らない人間なのだ」ということを、長らく気にしている。

大学生になると、周りがアルバイトを始めるようになった。
部活の同期がホテルの給仕やら、居酒屋のホールやら、オーナーだかリーダーだかそう言う名前の先輩に怒られて大変なのだ、と話しているのを聞いた。
真面目な友達がメモを取りながら話を聞くのが基本だよねとか、人の動きを見ていつ言われても自分でできるようにしておくんだと話していた。
焼肉屋のアルバイトはすごく厳しいもので、肉を運ぶことなく3ヶ月皿洗いだけをずっとしていたんだと言う人もいた。
身をもって体験して大人の人に怒られて実感するより前に、頭でふうんと知っていた。
あるいはドラマで飲食店のキッチンの新人が、あるいは料亭の板前の見習いが朝早くから冷たくなった手で布巾を洗うシーンを見てひぇーと慄いていた。


なぜだか急に、子どものあっち向いてホイをするときのぷくぷくとした、楽しくて純粋な手を思い出した。

わたしもあの子と同じ、未だに、
『何にも知らない手』をしている。

映画館でアルバイトを始めたのも大学生の終わりの頃だった。
ぼうっとチケットをもぎって、床に転がったポップコーンをほうきで掃いて、予告を眺めていた。
あれではとても働いているとは言えなかっただろう。
あの日々はまるで、人生のご褒美のように楽しかったけれど。


いよいよ本当に働く、ということになって、しばらくは自分の気がどこに行っているかなんて考えたこともなかった。平気だった。
目の前のことに一生懸命で、たぶん今もこれからもずっとそれで良いのだろうけれど、良かったはずなのに、余計なことを考える余白ができてしまった。


あれ。
わたしは、あまりにも気を回して行動することができていないんじゃないか、いや。それよりも。
そう見えているんじゃないか。
ぼさっと立っているのを見られることが、嫌で気になっていたのだと思う。
気が回ったら相手がもっと嬉しかっただろうに、というのが嫌なのではなくて。
あまり良くないな。

発見

気が回る(そしてそのままそう見えるから私に見えている)人を発見した。
いつもは殆ど関わりがなく、とある事情で数日間近くで彼女のことを観察できる機会があった。

その眺めに、頭を殴られた。頬をぶたれた。
もうほとんど、早くそうされたかった。

電話は当たり前のようにとる。
言葉が大変大人の、社会人の、丁寧なものだ。
インターホンが鳴れば何かと手を上げて、低くて聞こえやすい声で「私行きます」という。
止まっていない。
誰かにアピールしている様子がまるでない。
いつもマスクで見えないが目元だけでもしっかりと笑っている。
目を合わせてくれる。
目を細めた彼女の笑顔を見るたびに主に気が回らなく日々あちゃーとなっているわたしの心の負担は勝手に減ってくれる。
すごい。

目には見えないもの

そして気が付いた。
彼女は周りにすごいと思われたくて仕事をしているわけではないのかもしれない。
仕事をしたいのだ。
自分の納得のいく働き方で。
私は思われたい。
思われたかった。
今は、働きたい。
ちゃんと、仕事をしたい。

わたしは感情に、自分の人生の大半をあげていた。
ままならない相手や自分の感受性をどうにかしようとして、余計に動けなくなる。
動けなくて現場に不満が溜まるから、現実とのギャップを想像で埋める。
今はまだ、目に見えない気は育てられない。
人にどう思われるか、これもまた目には見えなくて、自分にはどうしようも無い。
それならば、と自分が変えられるものを見つけた。

頭で考えるより前に、動くことにした。
行動を結果につなげよう。
結果として、気が回る、かっこいい、という見え方、そしてうれしい気持ちがついてくるのだから。

またその結果の一つとして

今すぐ気が回る人にはなれない。
私は真似から始めることにした。
いつでもマスクの上の目を細めて、相手の負担を軽くすること。
天気の話をしてくれること。
演じることは、そのまま行動することだと思う。
その行動を自分のものにする。
もらう。
結果や評価は人の手に委ねられているのだから。
結果がどうでも良くなるその日まで、自分の手でその誰かを選んで、演じよう。

そんな型から入る、話だと覚ゆ。🌼

『チョコレートコスモス』恩田陸

おしまい

この記事が参加している募集

#最近の学び

181,973件

#新生活をたのしく

47,910件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?