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時間泥棒が未来からわたしにくるもの

いっしょうけんめい書いていたら、生まれてはじめてのスペクタクル大長編になってしまいました。 

前編 ぬすませる日々
後編 I call your name

のぞんで時間をつかってもらえますように⌛️


前編 ぬすませる日々

 アメリカに行くことができなかった。

 海外旅行だけではない。私は大学時代から、よく友達に約束を破られた。おかげで野球観戦にも芸術祭にもまともに行けなかった。思えばこの頃から、約束を交わすときの「検討するね」という一言や、既読後二日以上音沙汰の無くなるメッセージの画面に、身構えるようになっていた。

 社会人になってからも、時間を奪われる感覚を幾度も抱くことになる。同期がいわゆる「フッ軽」の人だった。時間にルーズで、入社一年目の歓迎会から遅刻してきた。飲み会では中抜けしますといってそのまま帰って来ないこともザラだった。開始予定時刻から実際の乾杯までの十分間、あるいは二次会では戻ってくるかな、とお店を探しながら連絡を待つあの十分間は、同期と同じ価値があるはずの私のものだ。自分の時間を吸い取られている思いがした。不思議と彼女は周りから、その破天荒なキャラクターが気に入られていた。

 最初は自分の時間が擦り減る感覚に焦りを感じた。何と失礼なことができるのだろうと憤りもした。そして気が付いた。彼らに自分のと同じだけ私の時間を大切にしてもらえていないということを。私は自分の価値を低く見積もられたことがものすごく悲しかったのだ。随分傷ついているにも関わらず、私は弱く情けなかった。口下手な私の話を聞いてくれる親友。爆発的に面白い反射神経をもっている同期。ぴったりと言っていいほど気が合うバイト仲間。私は約束破りな彼らのよきところを知っていた。好きだった。いつもその魅力に負け続けた。

 働くようになって五年。同期も私も異動した。親友からの誘いも断るようになり、何となしに上手に距離ができた。最近、例の元バイト仲間と共通の知り合いが、私の職場に転勤してきたことで五年前のヒーローインタビュー置いてけぼり事件(私と二人で野球を観に行ったはずだが妹と合流し二度と帰って来なかった)以来久しぶりに連絡をとった。会おう、じゃあいつにする? という私たちにとっては一番難しい約束を交わす場面に差し掛かる。私の思う五年経ったらこれくらいは変化するだろうという変化をしている訳がなかった。既読がついたまま十日が過ぎ、とうとう私が提示した三日のうち、最後の一日が終わってしまった。
 社会人になり、ひーひー言いながら働いた。自分のお金と時間を大切に思ってくれる友達が出来た。自分のことを大切にしてもらえる。お互いの大切なものを尊重し合える喜びを知った。約束破りは相変わらず世に蔓延るけれど、さすがに五年は私を変えた。爆発的な魅力をしても「いや駄目だろ」ととうとう完全に目が醒めた。

後編 I call your name

 混乱せず気持ちに整理がついた今、他人の時間を奪う人間のことを、時間泥棒と呼んでみる。いつでもきっと、特に悪気はないのだ。だから盗難行為は続く。怒ることにも、傷つくことにも疲れてきている。奪った分だけの懲役刑が課されることもなさそうだ。

 ところで、泥棒すると手に入るものは何かと考えてみる。宝石。お金に換えることが出来る。食べ物。命を繋いでゆける。倫理的な価値観は人それぞれだし今更なので置いておく。泥棒の争奪行為というものは、物理的に彼らを豊かにする行為であるはずだった。

 時間泥棒が獲得できるものは、実は殆どないのではあるまいか。ダブルブッキングしておいて、その時の気分で選んだ選択肢Aが有意義な経験になるかどうかは不確かだ。ドタキャンをしたことで臨時収入的に自由な時間が得られたかもしれない。大体の「非」泥棒にとっては、信頼を犠牲にしてまで必要なものではない。そして一番は何と、奪った分彼らの時間が増えるわけじゃない、ということだ。これは驚くべき発見だ。私の時間は、あなたのものには、二人分には決してならない。奪ってドブに捨ててる。彼らに罪の意識が無かったとしても、無意味で無駄な行為。他ジャンルの泥棒と比べ、恐ろしく豊かじゃない。

 今思えば、時間泥棒には正直者が多かった。身分を偽ることは少なく、「あなたの時間、頂きますよ」と比較的早い段階で正体を明かしてくれていたような気がする。私がちゃんと目を開いてさえいれば。彼らと過ごすはずだった未来の時間を、時間泥棒たちはむしろかなり早いうちに明け渡してくれていたのが見えた。誠実にかつはっきりと、「ドブに捨てますよ」というプラカードを掲げて。
 未来からやって来て、親切に忠告してくれていたにも関わらず、私がドブ捨て注意の看板に気づかないふりをしていた。私の方こそ誤魔化し屋で、進んでドブにどうぞと宝物を差し出していたようなものだった。私がぬすませていた。
 彼らが前もって渡してくれる、大切な自分の時間を、これからはちゃんと両手で受け取ろう。無かったものとはせずよしよしする。慈しむ。今これを書くことの為に、喜んで削る。


おしまい

ところで書き終えてから、小学生の頃挫折したミヒャエル・アンドレアス・ヘルムート・エンデ『モモ』を読みました。
すでに概念はあって、もうエンデが名づけてた。
それとわたしはモモになる。なりたい。

最後までお読みいただき、本当に本当にありがとうございました!!⏳

じょ

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